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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第43話 GWの喧騒と、不穏な噂 7

 香木店を出て、駅前大通りの喧騒を避けるように裏道を歩く。目的の和菓子屋までは、歩いて数分の距離だ。


 大通りを外れたとはいえ、ゴールデンウィーク後半戦の容赦ない人波と熱気は、路地裏にまでじわじわと侵食してきていた。初夏を思わせる強い陽射しがアスファルトを熱し、換気扇から吐き出される油の匂い、行き交う人々の休日の高揚感や過剰な柔軟剤の匂いが、淀んだ空気の中でマーブル模様のように混ざり合っている。


 俺はポケットからミントタブレットを取り出し、一粒噛み砕いた。強烈なペパーミントの清涼感で、鼻腔にまとわりつく情報の濁流を力技でミュートする。隣を歩く澄からは、今朝俺のために調律してくれた朝露のような柔軟剤の香りが漂い、外界の過酷なノイズから俺の呼吸を死守してくれていた。彼女が隣にいてくれなければ、この数分の移動すら耐えられなかったかもしれない。


 少し後ろを歩く柚木と星野も、過酷な休日の環境と、先ほどの香木店での圧倒的な静謐さのギャップに当てられたのか、すっかり無口になっている。


 角を曲がると、古い町家を改装したような、風情ある和菓子屋が見えてきた。


「ここだ」


 引き戸を開けて店内に入ると、ひんやりとした空調の風とともに、上品な小豆の甘さとかすかな抹茶の香りが全身を包み込んだ。香木店のような重厚な静寂とはまた違う、甘く穏やかな空気が満ちている。ミントタブレットの清涼感がなくても深く呼吸ができ、俺のすり減っていた神経はさらに解きほぐされていった。


「わぁ……っ!」


 背後で、星野が感嘆の声を漏らした。ガラス張りのショーケースには、季節の移ろいを切り取ったかのような美しい生菓子が整然と並んでいる。初夏を感じさせる青楓あおかえでの練り切り、涼しげな藤紫色の琥珀糖。それらを見た瞬間、星野の心拍数が急上昇し、純粋な『興奮』と『食欲』の匂いが立ち上ってくる。澄の消臭スプレーによって中和されていたはずのベリー系のボディミストが、体温上昇によってわずかに揮発し、和菓子の甘い香りに混じってふわりと漂った。


「見てください神崎先輩っ、この練り切り! 色合いがすっごく綺麗……こっちの琥珀糖も、まるで宝石みたいです……っ!」


 ショーケースに張り付く星野からは、どこかで読みかじったような『小悪魔キャラ』を演じて主導権を握ろうとする、あの不自然な気負いの匂いが完全に消え去っていた。代わりに彼女からダダ漏れになっているのは、美しい和菓子を前にした純粋な熱狂と、抑えきれない食欲の匂いだけだ。


「……小悪魔ぶってるが、お前の中身はただの和菓子オタクだろう」


「ふぇっ!? あ、違いますよっ! 私はただ、香道部員として雅なお茶菓子のお勉強をしていただけで……っ!」


 俺が呆れて指摘すると、星野は慌てて取り繕おうとしたが、その目はショーケースの端から端までを舐め回すように動いている。陰湿な企みのない純粋な欲望の匂いなので、そのまま放っておくことにする。


「いらっしゃいませ」


 店の奥の暖簾をくぐって、白衣を着た中年の店主が顔を出した。人の良さそうな、柔和な笑顔を浮かべている。


「桜小路の代理で来ました。予約していたお茶菓子を受け取りたいんですが」


 俺が事務的に用件を伝えると、店主の顔に浮かんでいた柔和な笑顔が、ほんのわずかに引きつった。


「あ……桜小路様のご代理ですね。かしこまりました。少々お待ちください」


 店主は品物を取りに奥へ引っ込んだが、その一瞬の間に、俺の過敏な嗅覚は明確な異変を感じ取っていた。


(……またか)


 店主の首筋から放たれたのは、先ほどの香木店の店主と全く同じ匂いだったのだ。桜小路家の代理だと名乗った途端に滲み出た、相手に対して引け目を感じているような『わずかな気まずさ』。そして、この場を早くやり過ごしたいという『不自然な焦りの冷や汗』の匂い。


 作法室に日常的に高級和菓子を提供しているはずの上客の名前を聞いて発する匂いとしては、あまりにも不自然すぎる。


「お待たせいたしました。こちら、ご注文の品でございます」


 店主は綺麗に包装された紙箱をカウンターに置いた。手つきは丁寧だが、やはりその皮膚の表面からは、濁った気まずさの匂いが絶え間なく揮発し続けている。


「お代はいつも通り、桜小路様の方へご請求させていただきますので」


「……わかりました」


 俺が短く応じると、店主は困ったように眉を下げ、わずかに視線を泳がせた。


「ええ。……ただ、その……」


 店主は言い淀み、戸惑うようにチラリと俺の顔を見た。その体温がかすかに下がり、商売人としての建前を突き破って、純粋な懸念の匂いが漏れ出した。


「桜小路様からは、いつもご贔屓にしていただいているのですが……最近はめっきりご注文が少なくなってしまいまして。奥様や雅様は、お変わりなくお過ごしでしょうか」


 言葉尻を濁しながら告げられたその一言に、俺の脳内で散らばっていた情報がカチリと一つの線に繋がった。


『最近はめっきり注文が少なくなった』 香木店で見せた店主の不自然な態度も、理由は全く同じだ。


 雅先輩の実家である桜小路家は、この二つの老舗にとって絶対的なお得意様だったはずだ。それが、ここ最近になって極端に注文を減らしている。単なる気まぐれではない。店主たちが桜小路家の名前を出された時に気まずさと焦りの匂いを放ったのは、おそらく支払いのサイクルに何らかの滞りが生じているか、あるいは長年の付き合いの中で『触れてはいけない不穏な事情』を察知しているからだ。


「……ええ。変わりなく」


 俺はそれ以上深く探ることはせず、紙箱を受け取って短く頭を下げた。店主はホッとしたように「それは重畳でございます」と安堵の匂いを放った。


「慧くん、お疲れ様。荷物、半分持つね」


 隣で静かに待っていた澄が、淀みのない笑顔で紙箱の一つを受け取り、トートバッグに慎重にしまった。俺たちは店主に礼を言い、和菓子屋を後にした。


 引き戸を開けて外に出ると、初夏の強い陽射しと、休日の街の過酷な喧騒が再び全身にのしかかってきた。アスファルトの熱気と、行き交う人々の香水や柔軟剤の匂いが一気に鼻腔を塞ぐ。


「ふう……なんか、こっちのお店の人も、ちょっと変な空気じゃなかった?」


 俺と澄から半歩距離を空けて歩き始めた柚木が、怪訝そうに首を傾げながら言った。


「雅先輩のお使いって言ったのに、なんであんな気まずそうにしてたんだろ。注文が少ないって言っても、普通もっと歓迎するよね」


 常に全方位の空気を読み、他人の顔色を窺って生きている柚木は、やはり和菓子屋の店主の態度の違和感にも正確に気づいていたようだ。彼女の視線が、探るように俺へ向けられる。


「……そうだな」


 俺は気怠げに返し、再びポケットからミントタブレットのケースを取り出した。


 老舗の店主たちが見せた、気まずさと不自然な焦り。極端に減ったという注文。そして、今朝の雅先輩からの『実家で急なトラブルがあり、抜けられなくなった』というメッセージ。


 おそらく、桜小路家とこの老舗たちとの間に、単なる気まぐれではない何らかの『取引の滞り』が生じている。俺に作法室という静謐な環境を提供してくれている恩人の周囲で、見えないトラブルの影が確実に落ち始めている。俺の嗅覚が受信した情報は、そう告げていた。

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