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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第42話 GWの喧騒と、不穏な噂 6

 休日の駅前大通りを抜け、一本裏の落ち着いた通りに出る。


 初夏の陽射しは依然として強いが、人の波が減ったことで周囲の空気は少しだけ澄み始めていた。俺は口元を覆っていた無香料のハンカチを下ろし、浅くなっていた呼吸をゆっくりと整える。俺と澄のパーソナルスペースから半歩ほど距離を取って歩いていた柚木玲奈と星野くるみも、人混みのプレッシャーから解放されてホッとしたように息を吐いていた。


「ふう、やっと息がつける……」


 柚木が額の汗を拭いながら、ふと歩調を緩めて俺の方を見た。


「そういえばさ、神崎。今日って、雅先輩も一緒じゃなかったの? この前作法室で話してた時は、先輩も行くみたいな感じだったじゃん」


「……本来なら先輩も同行する予定だった。だが、出発前に実家で急なトラブルがあったらしくてな。代わりに予約していた香木とお茶菓子を受け取ってきてほしいと頼まれたんだ」


 俺が淡々と事実を告げると、柚木は少し驚いたように目を瞬かせた。


「実家のトラブル……? 雅先輩が部活の用事休むのって、あたしたちが入部してから初めてだよね」


「そうですよね。いつも作法室にいらっしゃるのに」


 星野も不思議そうに頷いている。俺も、先輩から連絡を受けた時は少し気になったが、他人の家の事情に首を突っ込むつもりはない。


「お使いだけで済むならその方がいい。さっさと受け取って帰るぞ」


 俺が冷たく打ち切ると、やがて目的の香木店が見えてきた。近代的なビルが立ち並ぶ大通りから少し離れたその場所には、周囲の景色とは対極にある、歴史を感じさせる重厚な木造の店構えがあった。軒先には立派な暖簾が掛かっている。


「ここだ」


 俺が暖簾をくぐって引き戸を開けると、外の熱気とアスファルトの匂いが、一瞬にして完全に遮断された。


「……っ」


 思わず、その場で深く息を吸い込む。空調によって快適に保たれた店内には、街の喧騒や他人の生活臭、休日の浮ついた感情のノイズは一切存在しない。満ちているのは、長い年月をかけて柱や床に染み付いた、重厚な香木の匂いだけだった。白檀の穏やかな甘さ、沈香の奥深い清涼感、伽羅の幽玄な香り。それらが複雑に絡み合い、作法室と同じような濃密な静寂と品格の香りを形成している。ミントタブレットの清涼感がなくても深く呼吸ができる。すり減っていた神経が、和の香りに包まれて優しく解きほぐされていくのを感じた。


「わぁ……すごくいい香り」


「なんか、一気に空気が変わりましたね……ちょっと緊張します」


 背後からついてきた柚木と星野は、店内の圧倒的な品格に少し萎縮したのか、声を潜めて辺りを見回している。隣を見ると、澄は一切の影がない完璧な笑顔のまま、静かに俺の横に立っていた。彼女の纏う朝露のような柔軟剤の香りは、この歴史ある香木店の匂いを邪魔することなく、見事に調和している。


「いらっしゃいませ」


 店の奥から、和装に身を包んだ年配の店主が静かに歩み出てきた。その物腰は柔らかく、漂ってくるのは香木の匂いと、長年客商売をしてきた落ち着いた気配だけだ。


「桜小路の代理で来ました。予約していた品を受け取りたいんですが」


 俺が用件を伝えると、店主は「かしこまりました。桜小路様のご代理ですね」と恭しく頭を下げ、奥の棚へと向かった。


 雅先輩が贔屓にしている店だ。秋の文化祭に向けた特別な調合のための香木となれば、それなりの値が張る品だろう。桜小路家は、この店にとっても大切なお得意様のはずだ。だからこそ、俺は店主が奥から戻ってきた瞬間に放った『匂いの揺らぎ』に、かすかな違和感を覚えた。


「お待たせいたしました。こちら、ご注文の品でございます」


 店主は桐箱に入った香木を、丁寧な手つきでカウンターに置いた。その動作自体に不自然なところはない。だが、俺の過敏な嗅覚は、店主の首筋からわずかに立ち上った『冷や汗』の匂いを正確に捉えていた。


(……なぜだ?)


 俺は眉をひそめ、店主の手元を見つめた。相手が上客の代理であるなら、そこから放たれるべきは今後の付き合いを見据えた「愛想の良い歓迎」の匂いのはずだ。しかし、目の前の店主の皮膚の表面からは、商売人としての喜悦とは対極にある、ひどく濁った匂いが滲み出ている。


 それは、相手に対して引け目を感じているような『微かな気まずさ』と、この場を早くやり過ごしたいという『不自然な焦り』の匂いだった。


「お代はいつも通り、桜小路様の方へご請求させていただきますので」


「……わかりました」


 俺が短く応じると、店主の肩がビクッとわずかに揺れた。


「その……桜小路様には、いつもご贔屓にしていただき……誠に、ありがとうございます。雅様にも、どうかよろしくお伝えくださいませ」


 店主の言葉は丁寧だったが、その声の端々にはどうしても隠しきれない躊躇いが混じっている。まるで、桜小路家の名前を出すこと自体に何らかのタブーを感じているかのような、ひどく居心地の悪い気配。店主は逃げるように深く頭を下げ、それ以上の会話を拒絶する姿勢を見せた。


 俺は桐箱を受け取り、それ以上追求することなく店を後にした。引き戸を開けて外に出ると、再び初夏の熱気とアスファルトの匂いが全身を包み込む。


「ふう……なんか、すっごく緊張するお店だったね」


 柚木が小さく息を吐きながら、強張っていた肩を回した。だが、彼女は少しだけ首を傾げ、怪訝そうに俺の方を見た。


「でもさ。なんかあの店員さん、最後の方、ちょっとよそよそしくなかった? 雅先輩のお使いって言ったのに、あんまり歓迎されてないっていうか……」


 空気を読むことに長けた柚木も、店主の態度にわずかな違和感を感じ取っていたようだ。


「……そう見えたなら、そうなんだろうな」


 俺は気怠げに返し、桐箱を澄が持っていたトートバッグに慎重にしまった。


 店主が放っていた気まずさと焦りの匂い。そして、今朝雅先輩が言っていた、実家の急なトラブル。この二つが偶然重なったとは思えない。俺にこの静謐な環境を提供してくれている恩人の周囲で、何らかの好ましくない事態が水面下で進行している。俺の嗅覚が受信した情報は、そう告げていた。


「慧くん、次は和菓子屋さんだね。雅先輩がいつもお茶菓子を買ってるお店」


 澄がスマートフォンの地図を見ながら、淀みのない笑顔で教えてくれる。


「ああ。ここからすぐのはずだ。さっさと用事を済ませて帰るぞ」


 俺はズボンのポケットからミントタブレットのケースを取り出し、二粒を口に放り込んで噛み砕いた。強烈な清涼感で嗅覚を再び麻痺させながら、休日の過酷な喧騒の中へと足を踏み出す。もし次に向かう和菓子屋でも、同じ気まずさの匂いを嗅ぐことになったら。見えないトラブルの種が確実に芽吹いている予感に、俺はかすかな徒労感を覚え始めていた。

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