第41話 GWの喧騒と、不穏な噂 5
休日の駅前大通りは、すれ違うのも困難なほどの人混みで溢れ返っていた。
ゴールデンウィークの解放感に浮かれる人々の熱気と、色とりどりの感情のノイズ。ただでさえ息が詰まるその過酷な環境に、厄介な同伴者が二名も追加されてしまった。
「で。お前たちはどうする気だ。香木のお勉強とやらをするために、このまま俺たちについてくるのか」
待ち伏せを見破られ、澄の淀みのない笑顔に萎縮していた柚木玲奈と星野くるみに向かって、俺は気怠げに尋ねた。
「も、もちろん! あたしたちも香道部員として、雅先輩のお使いの役に立ちたいし!」
「そ、そうですよっ! 荷物持ちでもなんでもしますからっ!」
図星を突かれた動揺を必死に隠すように、二人はノリの良いギャルと小悪魔な後輩の仮面を被り直して食い下がってきた。断って追い返すのも面倒だ。これ以上こんな人混みで立ち止まって問答を続ければ、俺自身の体力が持たない。先ほど噛み砕いたミントタブレットの清涼感が残っているうちに、一刻も早く目的地へ辿り着きたかった。
「……勝手にしろ」
俺は短く息を吐き、再び歩みを進めた。澄が「はぐれないように気をつけてね」と二人に声をかけ、俺の隣にぴたりと寄り添って歩き出す。その後ろを、柚木と星野が小走りでついてきた。
少し歩いただけで、初夏を思わせる強い陽射しがアスファルトを熱し、路上の空気を重く淀ませているのがわかる。俺は澄が貸してくれた無香料のハンカチで口元を覆い、彼女の背中と建物の日陰を盾にするようにして、人の波を掻き分けていった。
「うわ、マジで人多すぎ……。ねえ神崎、はぐれちゃいそうだし、ちょっと近く歩くね」
「わ、私も、神崎先輩のそばにいますねっ」
大通りの交差点に差し掛かったあたりで、柚木と星野が俺のパーソナルスペースへと一気に距離を詰めてきた。俺は横目で見下ろし、内心で呆れ果てた。
(……見え透いた建前だ)
人混みを言い訳にしているが、明らかに不自然な近さだった。はぐれないようにするだけなら、もう少し間隔を空けて歩けば済む話だ。それをわざとらしく至近距離まで踏み込んでくるのは、明確な意図があるからに他ならない。
大人びたワンピース姿の星野からは、どこかで読みかじったような『小悪魔キャラ』を演じて主導権を握ろうとする不自然な気負いが。少し派手なオフショルダーのトップスを着た柚木からは、私服姿で同級生の男の隣を歩くことへの照れを、ギャルの余裕で上書きしようとする焦りが。それぞれの不器用な強がりと下心が、強烈に揮発するシトラスフローラルの香水とベリー系のボディミストの匂いとなって、数十センチという至近距離から容赦なく俺の鼻腔を叩いてきた。
「……近い。少し離れろ。匂いがうるさい」
俺が眉間を押さえて顔をしかめると、二人はビクッと肩を揺らした。
「に、匂いって……! 今日、そんなにつけすぎてないし!」
「そ、そうですよ! これくらい、普通のお出かけなら当たり前じゃないですかっ」
二人は口を尖らせて反論してくるが、俺の過敏な嗅覚は、その強い香料の奥底で渦巻いている明確な『感情の揺らぎ』をすでに丸裸にしていた。俺はハンカチ越しにため息をつき、淡々と事実を突きつける。
「香水の量だけの話じゃない。人混みを言い訳にして、わざとらしく俺のパーソナルスペースに踏み込んできたくせに……お前たち、さっきから無駄に体温が上がっているぞ」
俺が冷たく指摘すると、二人の息が同時に止まった。
「人波のせいじゃない。柚木、お前は俺に見られている自分の私服の反応が気になって、過剰に意識している。星野、お前は小悪魔ぶって距離を詰めてきたくせに、俺の隣を歩くことに極度に緊張して冷や汗を滲ませている」
「なっ……!?」
「ふぇっ!?」
俺が理詰めで紐解いていくと、柚木は目を丸くして言葉を失い、星野はカエルのような情けない声を出して口元を覆った。
「わざわざ待ち伏せまでして合流してきたり、人混みを理由に近づいてきたりするくせに、隣を歩く程度でそんなに脈拍を跳ね上がらせるなら、最初から少し離れて歩けばいいだろう。……その無駄な照れと緊張で香水が揮発して、ひどく迷惑だ」
俺が少し意地悪に図星を突くと、二人の顔は首筋から耳の先まで、みるみるうちに茹でダコのように真っ赤に染まっていった。
「ち、ちが……っ! 私服なんか気にしてないし! ただちょっと暑いだけで……っ!」
「そ、そうですよ! 緊張なんかしてませんっ、先輩が変なこと言うから……っ!」
図星を突かれて完全にパニックに陥った二人は、しどろもどろになりながら必死に強弁しようとする。だが、極度の羞恥心によって彼女たちの体温はさらに上がり、甘ったるい香料の匂いが爆発的な勢いで揮発し始めた。
(……くそ、自爆したか)
俺は小さく舌打ちをした。彼女たちの匂いには、他人を蹴落とそうとするような陰湿な悪意は一滴もない。ただ純粋な照れと動揺の匂いだけだ。だが、この気温と人混みの中で、至近距離から強烈な香水とボディミストの匂いを浴びせられ続けるのは、俺の過敏な嗅覚にとって致命的なダメージだった。ミントタブレットの清涼感が急速に食い破られ、頭の奥がガンガンと痛み始めようとした、その時だった。
「玲奈ちゃん、くるみちゃん。すっごく汗かいてるね。大丈夫?」
俺の隣を歩いていた澄が、ふんわりとした完璧な笑顔で二人を振り返った。
「ひゃっ!? あ、ううん、大丈夫だよ澄ちゃん!」
「このままだと、風邪引いちゃうかもしれないよ。はい、これで拭いてね」
澄は歩みを止めず、流れるような動作で自分が提げていたトートバッグから、今朝俺に見せてくれた『無香料の汗拭きシート』を取り出し、二人に手渡した。
「あ、ありがと……」
「それから、外のホコリもたくさんついちゃったみたいだから、お洋服の周りも少しだけ綺麗にしてあげるね」
二人が戸惑いながら汗拭きシートを受け取った瞬間、澄は無香料の冷感スプレーを取り出し、柚木と星野の周囲の空間に向けて、躊躇なくシュッと散布した。
俺の嗅覚を一切刺激しない、純粋な冷却効果と消臭効果だけを持つ細かなミストが、初夏の熱気を帯びた空気に広がる。それは、二人が放っていた強烈なシトラスフローラルとベリーの甘い匂いを一瞬にして中和し、物理的に強引に押し流していった。
「えっ、あ、冷たっ……!」
「わわっ……」
突然の冷気と、自分の纏っていた香水が完全に無臭に上書きされたことに、柚木と星野は目を白黒させて固まった。
「ふふ、これで少しは涼しくなったかな。……ここは人が多いから、もう少しだけ間を空けて歩いた方が、みんなぶつからなくて安全かもしれないね」
澄は一切の影がない、淀みのない純粋な笑顔でそう言った。その声色には、いかなる嫌味も、二人を遠ざけようとする悪意の気配も含まれていない。俺の鼻が受信するのは、「大切なお友達が汗をかいているから綺麗にしてあげたい」という、純度百パーセントの善意だけだ。
だが、その一切の隙もない完璧な気遣いと、圧倒的なまでの清潔さの要求。自分のアイデンティティであるはずの香水やボディミストを一瞬にして『外の汚れ』として浄化されてしまった二人は、完全に気圧されていた。彼女たちの体から、本能的な『萎縮』の匂いが立ち上ってくる。
「あ……う、うん。そうだね、ちょっと近すぎたかも……」
「す、すみません。少し離れて歩きます……」
澄の放つ、純粋すぎるがゆえの圧倒的な圧力の前に、柚木と星野は借りてきた猫のようにおとなしくなり、俺と澄のパーソナルスペースから自然と半歩ほど距離を取って歩くようになった。
(……助かった。相変わらず、完璧な気遣いだ)
二人が距離を取ってくれたおかげで、俺の周囲には再び、澄が纏うかすかな朝露のような柔軟剤の穏やかな香りだけが満ちるようになった。過酷な外界のノイズから俺の呼吸を死守してくれる幼馴染の徹底したサポートに、俺は心の底から深く安堵した。
駅前の喧騒はまだ続いているが、俺が最も安らぐこの透明な空間の層さえあれば、目的地までなんとか倒れずに歩き通すことができるだろう。俺は澄の隣で浅く呼吸を整えながら、雅先輩から指定された老舗の香木店を目指して、再びアスファルトを踏みしめた。




