第40話 GWの喧騒と、不穏な噂 4
自宅のマンションを出て、澄が事前に調べておいてくれた裏道へと足を踏み入れる。
大通りを避けたとはいえ、ゴールデンウィーク後半戦の街は、どこへ行っても過酷な環境だった。初夏を思わせる強い日差しがアスファルトを熱し、路地裏の雑居ビルから吐き出される飲食店の換気扇の熱気が、油と香辛料の匂いを重く淀ませている。
すれ違う人々からは、普段の平日とは違う、休日の解放感に満ちた匂いが放たれていた。過剰な柔軟剤、整髪料、そして何より「充実した連休を過ごしている」という見栄や高揚感。それらの感情のノイズが気温の上昇に伴って揮発し、俺の過敏な鼻腔を絶え間なく殴りつけてくる。
「慧くん、大丈夫? 少し日陰に入ろうか」
「……ああ。助かる」
歩き始めて十数分で早くも息が上がりかけていた俺を、澄がビルの陰へと誘導してくれた。彼女はトートバッグから、朝見せてくれた無香料の冷感スプレーを取り出し、俺の首元にシュッと吹きかける。俺の嗅覚を一切刺激しない、純粋な冷却効果だけが肌に広がり、不快な汗がすっと引いていくのを感じた。
「はい、お茶。少しだけ飲んでおいてね」
「ありがとう」
差し出された銀色のボトルを受け取り、口をつける。冷えすぎていない、胃に優しい絶妙な温度の麦茶が、喉の渇きとすり減った神経を潤してくれた。隣に立つ澄からは、俺がこの世で最も安らぐ、朝露のような柔軟剤の穏やかな香りが漂っている。外界の悪臭に晒されても、彼女が隣で俺専用の透明な空気の層を作り出してくれているおかげで、なんとか倒れずに呼吸を繋ぐことができていた。
俺は息を整えながら、今朝スマートフォンに届いたメッセージを思い返していた。本来なら、今日は雅先輩と一緒に香木店を巡る予定だった。だが、出発の数時間前に先輩から『ごめんなさい、神崎くん。実家で急なトラブルがあり、どうしても抜けられなくなってしまったの。申し訳ないのだけれど、予約していた品を受け取ってきてもらえないかしら』と連絡があったのだ。雅先輩が香道部の約束をドタキャンするなど、これまで一度もなかったことだ。少し気にはなったが、俺は他人の家の事情に踏み込むつもりはない。お使いだけで済むならその方が早く帰れると考え、俺と澄の二人だけで目的地へ向かっているのだった。
「雅先輩が言ってた香木のお店、この路地を抜けたらすぐの大通り沿いにあるはずなんだけど……」
澄がスマートフォンの地図アプリを見ながら、申し訳なそうに眉を下げた。
「ここから先は、どうしても駅前の人混みを通らないと行けないみたい」
「……わかってる。ここまでは、お前のおかげでかなり体力を温存できたからな」
俺はズボンのポケットからミントタブレットのケースを取り出し、二粒を口に放り込んで一気に噛み砕いた。ガリッ、という音とともに、強烈なペパーミントの清涼感が鼻腔を突き抜ける。周囲の雑多な生活臭と感情のノイズを力技でミュートし、俺は小さく息を吐き出して覚悟を決めた。
路地を抜け、駅前の大通りに出た瞬間。鼓膜を劈くような喧騒とともに、情報の濁流が全身にのしかかってきた。
「うっ……」
視界を埋め尽くすほどの人の波。家族連れ、カップル、観光客。行き交う無数の人間たちが放つ、強烈な香水、食べ歩きの甘い匂い、そして非日常を楽しむための極彩色の感情の淀み。裏道とは比べ物にならないほどの圧倒的なノイズが、ミントタブレットの清涼感をあっという間に食い破ろうとしてくる。俺は澄が差し出してくれた無香料のハンカチで口元を覆い、彼女の背中を盾にするようにして、人の波に逆らいながら歩を進めた。
(……早く、店に辿り着かないと)
視線を下げ、浅い呼吸を繰り返しながらアスファルトを踏みしめる。だが、その過酷な人混みの中で。俺の嗅覚は、大通りの無秩序なノイズとは明らかに異質な、それでいて『どこかで嗅ぎ覚えのある』二つの匂いを、不意に捉えた。
一つは、柑橘系と花の甘さが混ざったシトラスフローラル。もう一つは、人工的なベリー系の甘いボディミスト。
(……まさか)
俺がわずかに顔を上げた、まさにその時だった。
「あれっ? 神崎じゃん!」
人混みを掻き分けるようにして、わざとらしいほど明るく大きな声が響いた。声のした方へ視線を向けると、初夏の陽射しに映える少し派手な私服を着た柚木玲奈と、その横で少し背伸びをした大人びたワンピース姿の星野くるみが、驚いたような顔を作って立っていた。
「奇遇だねー! 神崎も駅前で買い物?」
「か、神崎先輩っ、こんなところで偶然ですねっ!」
二人はノリの良いギャルと小悪魔な後輩の仮面を被り、まるで今たまたますれ違ったかのように振る舞っている。休日の解放感からか、彼女たちは制服の時よりも明らかに強めに香水やボディミストを纏っており、その甘い匂いが俺のパーソナルスペースを容赦なく侵食してきた。だが、俺の鼻は、彼女たちが発している言葉とは全く違う物理的な証拠を、すでに受信し終えていた。
「……偶然なわけがないだろう」
俺が気怠げに、そして冷ややかに言い放つと、二人の肩がビクッと跳ねた。
「今、お前たちが俺を見つけた瞬間に放った匂いは、偶然の遭遇に対する『驚き』じゃない。自分たちの狙い通りに俺が現れたことへの『安堵』と、待ち伏せしていたことを誤魔化そうとする『焦りの冷や汗』の匂いだ」
数十センチの距離。彼女たちの体温は、俺の指摘によって不自然なほど急上昇し、纏っている香水やボディミストが激しく揮発し始めた。
「なっ……!」
「ふぇっ!?」
柚木は目を丸くして言葉を失い、星野はカエルのような情けない声を出して口元を覆った。
「この前作法室で、俺が今日買い出しに出るという雅先輩との会話を聞いていたな。わざわざこんな人混みで待ち伏せするなんて、暇を持て余しているのか」
「ち、違うし! 待ち伏せなんてしてないし! たまたま雅先輩がこのお店の香木が好きだって言ってたの思い出して、近くを通りかかっただけで……!」
「そ、そうですよ! 私たちも香道部員として、香木のお勉強をしようかと……!」
図星を突かれてしどろもどろになる二人の言い訳は、もはや聞くに堪えないほど透明だった。彼女たちの体からダダ漏れになっているのは、俺の予定を先回りして合流しようとした浅はかな企みと、それを一瞬で見透かされたことへの不器用な動揺の匂いだけだ。陰湿な企みではないが、この過酷な環境下ではひどく鬱陶しいノイズだった。
「玲奈ちゃん、くるみちゃん。こんにちは」
俺の隣で、澄がふんわりと花が咲くような笑顔で二人に挨拶をした。
「二人も、この辺りに遊びに来てたの? 今日はすごく人が多いから、気をつけてね」
澄の言葉には、俺を待ち伏せしていた二人に対する嫌味や警戒の気配は微塵もなかった。俺の嗅覚が彼女から受信するのは、同じ部活の仲間に対する純度百パーセントの親愛と、優しい気遣いの匂いだけだ。
「あ、う、うん……こんにちは、澄ちゃん」
「お、お疲れ様です……」
澄の完璧すぎる笑顔と淀みのない空気を前にして、柚木と星野は完全に気圧され、先ほどまでの勢いを失って小さく縮こまった。
ただでさえ息が詰まるゴールデンウィークの過酷な街で、厄介なノイズが二つも追加されてしまった。俺は激しく揮発し続けるシトラスフローラルの香水とベリーのボディミストの匂いに眉間を押さえ、これから始まるであろう鬱陶しい道中を思って、ひどく重いため息を吐き出した。




