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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第39話 GWの喧騒と、不穏な噂 3

 世間はゴールデンウィークの後半戦に突入し、カレンダーは再び赤く染まっている。


 休日の朝。普段であれば、俺は外界の悪臭とノイズから逃れるため、この徹底的に清潔に保たれた自宅のマンションから一歩も出ることはない。だが、今日ばかりはそうもいかなかった。ベッドから身を起こし、少し重い頭を振りながら窓の外を見やる。


 雲一つない青空から、初夏の気配を孕んだ強い陽光が差し込んでいる。大型連休の解放感から、今日の街には普段よりも多くの人間が溢れ返っているはずだ。非日常を楽しむための強烈な香水や柔軟剤、飲食店の熱気。そこには、すれ違う人々の浮ついた感情のノイズ――見栄や下心、高揚感――がべったりと溶け出しているだろう。


 想像しただけで、眉間の奥がかすかに痛むのを感じた。


 今日は、作法室という聖域を提供してくれている恩人、雅先輩から頼まれた香木とお茶菓子の買い出しに行かなければならない。先輩の頼みとあらば断るわけにはいかないが、あの過酷な休日の街へ足を踏み入れるのは、俺にとって文字通り命がけのミッションだった。


「――慧くん、おはよう。朝ごはん、できてるよ」


 リビングの方から、淀みのない柔らかな声が聞こえた。重い足取りで向かうと、エプロン姿の澄が、ふんわりと花が咲くような笑顔で出迎えてくれた。彼女は俺の部屋の合鍵を持っており、こうして休日の朝も当たり前のように俺の生活を支えてくれている。


「おはよう、澄。……朝早くから悪いな」


「ううん。今日はお出かけするから、しっかり食べておかないとね」


 ダイニングテーブルには、俺の胃に負担をかけない和食が並べられていた。温かい出汁の優しい匂いだけが漂い、寝起きの嗅覚を心地よく撫でていく。俺が席に着くと、澄は完璧なタイミングで温かいお茶を出してくれた。


「いただきます」


 静かに箸を取り、澄が作ってくれた食事を口に運ぶ。熱すぎずぬるすぎない、完璧な温度。すり減った神経がじんわりと解きほぐされていくのを感じる。


 向かいに座る澄からは、かすかな朝露を思わせる無刺激な柔軟剤の香りだけが漂っている。外界の喧騒が嘘のように、この部屋には俺が深く息を吸い込める透明な空気だけが満ちていた。


「慧くん、今日の買い出しの予定なんだけどね」


 食事が半分ほど進んだ頃、澄が自分の傍らに置いてあった小さなトートバッグを引き寄せながら言った。


「雅先輩が指定してくれたお店、駅前の大通りを通らないと行けない場所にあるでしょ? 連休中だから、きっとすごい人混みだと思うの」


「……ああ。考えるだけで気が滅入る。ミントタブレットのストックは多めに持っていくが、どこまで保つか」


「だからね、慧くんが少しでも楽になるように、いくつか準備してきたんだ」


 澄はトートバッグの中から、いくつかのアイテムをテーブルの上に並べた。


「まずは、これ。無香料の汗拭きシートと、冷感スプレー」


 差し出されたのは、市販されているものの中でも、俺の嗅覚を一切刺激しない完全に無香料のタイプだった。


「外は暑いから、汗をかいたままだと慧くんが気持ち悪くなっちゃうでしょ? でも、よくあるシトラスとかミントの匂いがきついと、かえって気分が悪くなるかもしれないから、無臭でしっかり冷えるものを選んでおいたよ」


「……なるほど。これは助かる」


「それから、こっちは慧くん専用の水筒ね」


 次に澄が取り出したのは、シンプルな銀色の真空断熱ボトルだった。


「中身は麦茶なんだけど、冷やしすぎると胃に負担がかかるし、ぬるいとスッキリしないから。慧くんが外で一番ホッとできる『少しだけ冷たい』くらいの温度になるように、氷の量と抽出時間を調整してあるの」


 俺は驚きとともに、そのボトルを見つめた。ただ冷たい飲み物を用意するだけではない。俺の体調と感覚を完璧に把握し、最もストレスのない状態を逆算して作られた、オーダーメイドの水分補給だ。


「……お前、俺が寝ている間に、そこまで考えて準備してくれていたのか」


「えへへ。慧くんが人混みで少しでも疲れないようにって考えたら、これくらい普通だよ。私、慧くんのお世話するの好きだし」


 澄は一切の恩着せがましさもなく、微笑んだ。彼女から漂ってくるのは、俺が外出で苦しむことへの心配と、俺をサポートできることへの純粋な喜びの匂いだけだ。俺の異常な嗅覚をもってしても、彼女から企みや打算の匂いを感じたことはただの一度もない。


「あとね、ルートも調べておいたの。大通りをずっと歩くと人混みがすごいから、少し遠回りになるけど、一本裏の静かな路地を抜けていく道順を見つけておいたよ。その方が、色んな匂いが混ざってなくて息がしやすいと思う」


「裏道まで……。完璧すぎるな」


 俺は小さくため息をつき、自嘲気味に口角を上げた。他人の嘘や悪臭を暴くなどと偉そうなことを思っていても、現実の俺は、この幼馴染が用意してくれた無刺激で透明なサポートがなければ、休日の街を歩くことすらままならない脆弱な存在だ。


 もし俺一人で今日の買い出しに行っていたら、駅前の人混みと熱気に当てられ、目的地に着く前に倒れていたかもしれない。だが、俺の隣には、俺の厄介な体質を知り尽くし、こうして常に先回りして環境を整えてくれる彼女がいる。


「本当に、お前がいてくれて助かった。……頼りにしてるよ、澄」


 俺が本音をこぼすと、澄の顔がぱぁっと明るく輝いた。


「うんっ! 任せて、慧くん。今日一日、私がしっかりサポートするからね」


 俺は自分の幼馴染への全幅の信頼を胸に、残りの温かいお茶を飲み干した。


 朝食を終え、俺は洗面所で顔を洗い、自室に戻って着替えを済ませる。澄が完璧に洗い上げてくれた、私服の薄手の長袖シャツに袖を通すと、襟元からあの朝露のような柔軟剤の穏やかな香りがふわりと立ち上った。この透明な香りが薄い粘膜のように俺の周囲を覆い、外界の過酷な刺激をそっと遠ざけてくれる。


 俺はズボンのポケットにミントタブレットのケースを二つ忍ばせ、深呼吸をした。窓の外には、初夏の陽光に照らされた街が広がっている。あそこは、他人の見栄と嘘、そして様々な香料が入り乱れる過酷な外界だ。


 だが、今の俺には、澄が用意してくれた完璧なサポートアイテムと、彼女自身が隣にいるという絶対的な安心感があった。あの悪臭にまみれた人混みでも、彼女が伴走してくれるなら、いくらか息がしやすくなるはずだ。


「慧くん、準備できた? そろそろ出発しようか」


「ああ、今行く」


 玄関で待つ澄の声に応え、俺は部屋のドアを開けた。過酷なノイズが渦巻く休日の街への外出。ひどく憂鬱な予定ではあるが、俺は幼馴染の純粋な善意に無防備なまでに甘えきったまま、重い腰を上げて外界へと足を踏み出した。

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