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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第38話 GWの喧騒と、不穏な噂 2

 その日の放課後、帰りのホームルームの終了を告げるチャイムが鳴り終わるよりも早く、俺は鞄を掴んで教室を後にした。


 気候が温かくなり始めたことで、本棟の廊下には生徒たちの体温と、様々な柔軟剤や制汗剤の匂いが充満している。開け放たれた窓から吹き込む風は生ぬるく、グラウンドの土埃の匂いを孕んでおり、俺の過敏な嗅覚を絶え間なく苛立たせていた。


 ポケットからミントタブレットを取り出す動作すら億劫に感じながら、俺は足早に旧校舎へと続く渡り廊下へ向かう。本棟の喧騒が背後に遠ざかるにつれ、空気が少しずつ冷たく、静かなものへと変わっていく。年季の入った木造校舎の廊下を抜け、『香道部・作法室』と墨で書かれた引き戸の前に立つと、ようやく強張っていた肩の力が抜けた。


 引き戸をゆっくりと開ける。


「――いらっしゃい、神崎くん。今日もお疲れ様」


 部屋の中央で、香道部の部長である桜小路雅先輩が、背筋を真っ直ぐに伸ばして優雅な微笑みを向けてきた。作法室の中は空調によって温度と湿度が完璧に管理されており、外の薄暑が嘘のように、ひんやりと澄んだ空気に満ちている。


「失礼します、桜小路先輩。……今日は、少し清涼感が強いですね」


「ええ。少し汗ばむ陽気になってきたから、白檀びゃくだん薄荷はっかをわずかに合わせた、涼しげなお香を焚いてみたのよ」


 雅先輩が手元の香炉の灰を整えると、スッと鼻腔を抜ける爽やかな和の香りが漂ってきた。俺は鞄を置き、定位置である畳の上に深く腰を下ろす。


「あ、おっつー神崎。今日も来ちゃった」


「こ、こんにちは、神崎先輩っ」


 俺の向かい側には、先月末から香道部に入部した柚木玲奈と星野くるみが、ちょこんと正座していた。


 柚木からは、以前のように彼女の全身を分厚く覆い隠していた強烈なシトラスフローラルの香水の匂いは、ただの一滴も放たれていない。漂ってくるのは、一般的な女子高校生が使うわずかなシャンプーの匂いと、少し急いで歩いてきたことによる素肌の熱気だけだ。一方の星野は、相変わらずベリー系の甘いボディミストを纏っている。少し背伸びをして小悪魔キャラを演じようとする彼女特有の匂いだが、そこには他人を蹴落とそうとするような陰湿な嘘の成分はない。


 とはいえ、彼女たちが外から持ち込んだ土埃や甘い香料の匂いが、この作法室の和の香りを少しばかり濁らせているのは事実だった。俺がわずかに眉をひそめた、その時だ。


「はい、くるみちゃん。おしぼり、新しいものに替えておくね」


 水屋の前に立っていた澄が、ふんわりとした完璧な笑顔で星野に新しいおしぼりを手渡した。そして、流れるような動作で小窓を数センチだけ開け放ち、外からの気流を計算し尽くしたように作法室に招き入れる。


 風が星野のボディミストの甘い匂いと柚木の外気の匂いを巻き上げ、俺のパーソナルスペースに届く前に、そのまま部屋の反対側へと静かに押し流していく。


「それから、玲奈ちゃんの周りも少しだけ拭いておくね。外の砂埃が舞っちゃったかもしれないから」


 澄は無香料の除菌シートを取り出すと、柚木と星野が座っている周辺の畳を、サッと拭き清めた。


「あ、ありがと澄ちゃん……なんか毎日ごめんね」


 柚木が少し身を縮めて恐縮するが、澄はフルフルと首を横に振った。


「ううん、私が綺麗好きだから、ただ気になっちゃっただけ。二人とも、気にせずゆっくりしていってね」


 澄の言葉には、いかなる嫌味も含まれていない。俺の嗅覚をもってしても、彼女から感じられるのは「大切なお客さんを綺麗なお部屋でもてなしたい」という、純度百パーセントの善意だけだ。だが、その一切の隙もない完璧な清掃と換気によって、柚木と星野が持ち込んだ外の匂いは完全に中和され、彼女たちは借りてきた猫のように大人しくなってしまっていた。


「慧くん、お待たせ。今日のお茶は、少しだけぬるめにしておいたよ」


 澄が俺の前に湯呑みをそっと置いた。一口すすると、外の熱気で火照っていた身体に、計算し尽くされた完璧な温度の液体がじんわりと染み渡っていく。新入部員が増えようとも、澄の徹底したおもてなしのおかげで、俺の平穏な放課後が脅かされる心配は全くなかった。


「ふふ、澄ちゃんが空間を整えてくれたおかげで、お香の香りがより引き立つわね。さあ、今日のお菓子にしましょうか」


 雅先輩が傍らの重箱の蓋を開けた。中には、新緑の鮮やかな緑色をした『青楓あおかえで』の練り切りが、美しく並んでいた。


「わぁ……! すごく美味しそうですっ」


 星野が目を輝かせ、体温が「純粋な食欲」によってわずかに上昇するのを感じながら、俺も青楓を一つ手に取った。なめらかな舌触りと上品な甘さが、すり減った神経を芯から解きほぐしていく。


「ところで、神崎くん」


 お茶を一口すすり、雅先輩が穏やかな声で俺に呼びかけた。


「ゴールデンウィーク中の予定は、空いているかしら」


「ゴールデンウィーク、ですか。特に予定はありませんが……それが何か」


 俺が気怠げに問い返すと、雅先輩は優雅に微笑んだ。


「実は、連休中に部活で使う新しい香木と、お茶菓子の買い出しに行きたいのだけれど。神崎くんにも、付き合ってもらえないかしらと思って」


「俺が、ですか」


「ええ。秋の文化祭に向けて、少し特別な調合をしようと考えているの。その香木選びには、神崎くんの正確な嗅覚がどうしても必要なのよ」


 雅先輩は、俺のこの「他人の嘘や悪臭を受信してしまう」厄介な体質を、香道における類稀な才能として純粋に評価してくれている。そして何より、先輩はこの作法室という、俺にとってなくてはならない静謐な環境を提供してくれている恩人だ。彼女からの頼みを無下に断るわけにはいかない。


 しかし、ゴールデンウィーク中の街というのは、新学期の教室以上に過酷な環境だ。気温の上昇とともに、すれ違う人々の柔軟剤、香水、飲食店の熱気、そして休日の解放感からくる生々しい感情のノイズが入り乱れる外界。想像しただけで、眉間がかすかに痛むのを感じた。


「……わかりました。お供します」


 俺が小さく息を吐いて承諾すると、隣に座っていた澄がふわりと立ち上がった。


「それなら、私も荷物持ちと慧くんのサポートで行くね。人混みだと、慧くんが疲れちゃうかもしれないから」


 澄は一切の影がない笑顔で、雅先輩に申し出た。俺の厄介な体質を知り尽くしている彼女がそばにいれば、あの悪臭にまみれた人混みでも、いくらか息がしやすくなるはずだ。


「えっ、雅先輩と街にお買い物ですか!? いいなぁ、私も行きたいですっ」


 星野が和菓子を口に含んだまま、あざとく身を乗り出してきた。柚木も「あたしも行く! オシャレな和カフェとか寄りたいし!」と目を輝かせている。


「ふふ、ありがとう。でも、今回は香木をじっくり選ぶから、少し退屈な裏方作業になってしまうわ。二人には、また別の機会に美味しいお茶菓子をご馳走するから、連休はゆっくり休んでちょうだい」


 雅先輩が優しく、しかし有無を言わせない大和撫子の微笑みで二人を諭すと、柚木と星野は「はーい」と残念そうに引き下がった。


「助かるよ、澄。……先輩、日時は後ほど連絡をもらえますか」


「ええ、お願いね。神崎くんと澄ちゃんが来てくれるなら、心強いわ」


 雅先輩が新しく焚き染めた薄荷の涼しげな香りが、作法室の静寂を満たしていく。過酷なノイズが渦巻く休日の街への外出。ひどく憂鬱な予定ではあるが、澄のサポートがあれば、なんとかやり過ごすことができるはずだ。


 俺は、幼馴染が提供してくれる絶対的な安心感と、この作法室の環境を守ってくれる先輩への恩義を天秤にかけながら、静かに残りの温かいお茶を飲み干した。

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