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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第37話 GWの喧騒と、不穏な噂 1

 五月上旬。大型連休の谷間にあたる平日の朝。


 登校のために歩くアスファルトの道は、四月の頃の柔らかな春の陽気とは明らかに違う、じりじりとした熱を帯び始めていた。まだ本格的な夏には遠いとはいえ、日差しは少しずつ肌を刺すような強さを見せている。すれ違う他校の生徒たちや、急ぎ足で歩く大人たちの額にも、うっすらと汗が滲んでいるのが見えた。


 気候が温かくなり始めたことで、教室内はブレザーを脱いで薄手の長袖シャツへと移行する生徒が目立ち始めている。衣替えの移行期間ということもあって、季節の変わり目特有のどこか浮き足立った空気がクラス全体を漂っていた。


 だが、気温と湿度の上昇は、俺の過敏な嗅覚にとって致命的な環境の悪化を意味している。気温が上がれば、人間の体温から発せられる匂いはそれだけ揮発しやすくなる。布地が減り、肌の露出が増えたことで、クラスメイトたちが放つ体温やわずかな発汗が、これまで以上にダイレクトに俺の鼻腔を殴りつけてくるのだ。


 窓際の後ろから二番目の自分の席に座り、ガラス越しに差し込む陽射しの強さに小さく息を吐き出した、その時だった。


「よっす、神崎! 今日も朝から気怠そうだな!」


 不意に背中を力強く叩かれ、俺は思わず前のめりになりかけた。耳をつんざくような声量と同時に押し寄せてきた強烈な悪臭で、振り向かずとも誰なのかはすぐにわかる。


「……叩く加減を覚えろ、遠山。それと、少し離れろ。匂いがうるさい」


「ははっ、相変わらず鼻が利くねえ! 朝練でめっちゃ走ってきたから、爽やかな汗の匂いがするだろ?」


 同じクラスの悪友、遠山太陽は、無邪気に白い歯を見せて笑った。爽やかなどという言葉からは対極にある、代謝の良い男子高校生の強烈な汗の匂い。さらに最悪なことに、遠山はそれを安価で刺激の強いシトラス系の制汗剤を大量に浴びて力技で誤魔化そうとしている。人工的な柑橘類の匂いと生々しい汗の匂いが化学反応を起こし、むせ返るような悪臭となって俺のパーソナルスペースを容赦なく侵食してきた。


「その制汗剤を爽やかだと感じているのはお前だけだ。鼻が曲がりそうだから、今すぐ水で洗い流してこい」


「えー? これ、昨日買ったばかりの『クール&アクア』ってやつなんだけどな。まあいいや、俺、他のクラスの女子んとこ遊びに行ってくるわ! じゃあな!」


 遠山は自分の首元をくんくんと嗅いだ後、全く気にした様子もなく、嵐のように教室の廊下へと駆け出していった。彼から放たれる匂いには、「自分を良く見せようとする陰湿な嘘」以外の生々しい下心が溢れているが、裏表がない分だけまだ適当にあしらうことができる。だが、単純な環境ストレスとしては最悪の部類だった。遠山が通り過ぎた後の空間には、彼の落としていった熱気と香料がしばらく淀み続けている。


 遠山が去った後の教室にも、平穏は訪れない。


「ねえねえ、連休後半ってどっか行く予定あるー?」 「まだ決めてないんだよねー。そっちのグループは?」 「うちらはテーマパーク行く予定! めっちゃ楽しみなんだけどー!」


 教室のあちこちで、連休の予定を探り合う会話が交わされている。先月末、柚木玲奈という強烈なノイズの発生源が一つ沈静化したことで、教室の空気は俺にとって劇的に改善されたはずだった。分厚い香水の鎧を脱ぎ捨てた等身大の彼女は、もはや俺の嗅覚を苛立たせることはない。だが、柚木以外の三十人以上の生徒が放つ「本音と建前の乖離」そのものが消え去ったわけではない。


 表面上は仲良く連休の予定を話し合っている女子たちの会話の裏で、相手のグループの動向を探り、マウントを取ろうとするヒリヒリとした感情の淀み。連休という非日常を前にして、「充実した休日を過ごさなければならない」という見えない同調圧力が、クラスのあちこちで発生している。


 例えば、斜め前の席で「家族で海外旅行に行く」と自慢げに話している男子生徒。彼の声のトーンは高く自信に満ちているように聞こえるが、首筋からは明らかな『冷や汗』の匂いが滲み出ている。彼が着ている糊の効いた真新しいシャツの匂いと混ざり合い、ひどくちぐはぐな悪臭を放っていた。おそらく見栄を張ってついた嘘だろう。俺の鼻は、その見栄を張るための嘘の気配が、気温の上昇に伴ってより重く空気に溶け出しているのを嫌でもすべて受信してしまう。


(……息が詰まる)


 俺は小さくため息をついた。ただでさえ不快な汗と制汗剤の匂いが充満している上に、この生々しい感情のノイズだ。空気がひどく重く、粘着質に感じられる。このままこの情報の濁流に晒され続ければ、午前中の授業すらまともに受けることができないだろう。


 俺は耐えきれず、無意識のうちに自分の長袖シャツの襟元を引き寄せた。ふと、鼻先をかすめたのは、教室に充満する他人の汗や感情の悪臭とは完全に対極にある、ひたすらに穏やかで心地よい香りだった。


 かすかな朝露を思わせる、俺がこの世で一番安心できる柔軟剤の匂い。


 今朝、隣室の幼馴染である澄が、「今日も一日、無理しないでね」という言葉とともに完璧に調律してくれたこのシャツ。彼女は、俺が不快に感じる洗剤の人工的な香料をすべて排除し、代わりに俺が最も深く息を吸い込める匂いだけを研究し尽くしている。極度の綺麗好きである彼女が、俺の服についた外の汚れを念入りに洗い落とし、俺の嗅覚を一切刺激しないこの香りだけを残してくれているのだ。


 俺はその匂いを肺の奥深くまで吸い込んだ。途端に、強張っていた全身の筋肉が緩んでいくのを感じる。五月の薄暑に晒され、他人のノイズが揮発しやすくなったこの過酷な教室において、澄が俺のためだけに完璧に調律してくれたこのシャツの匂いは、俺の呼吸を繋ぐ絶対的なセーフティーネットだった。


 この透明な香りが薄い粘膜のように周囲を覆い、外界の過酷な刺激をそっと遠ざけてくれる。襟元から漂う匂いを盾にするようにして、俺はゆっくりと浅くなっていた呼吸を整えた。


(……俺は、本当にこいつに生かされているな)


 俺は自嘲気味に小さく鼻を鳴らした。他人の嘘を暴くなどと偉そうなことを思っていても、現実の俺は、幼馴染が用意してくれたこの無刺激で透明な環境がなければ、教室でまともに息をすることすらできない脆弱な存在だ。俺は純粋な善意だけで世話を焼いてくれる彼女の優しさに、無防備なまでに依存しきっていた。


 この息の詰まるような五月の教室も、澄が作り上げてくれたこの調律された空間と、放課後に待っている作法室という聖域があれば、なんとかやり過ごすことができるはずだ。


 俺は自分の幼馴染への全幅の信頼を胸に、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴るのを、静かに目を閉じて待つことにした。

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