第35話 花の残り香と、透明な幼馴染 8
水屋の奥へと消えていた澄が、黒塗りの丸盆を手にして静かに戻ってきた。
「お待たせしました。新しいお茶と、冷たいおしぼりだよ」
澄は畳の上を滑るように歩み寄り、向かい側に正座している柚木と星野の前に、それぞれ湯呑みとおしぼりを手際よく並べた。彼女の顔には、いつものように一切の影がない、ふんわりとした完璧な笑顔が浮かんでいる。
「あ、ありがと澄ちゃん。なんか気を遣わせちゃってごめんね」
「ありがとうございますっ。とってもいい香りのお茶ですね!」
柚木は少し恐縮したように、星野はあざとく小悪魔めいた猫撫で声で礼を言った。
「ふふ、遠慮しないでね。さあ、雅先輩が用意してくれたお菓子、一緒に食べよっか」
澄が自分の席に戻ると、部屋の中央で優雅に微笑んでいた雅先輩が、傍らの重箱の蓋をゆっくりと開けた。中には、鮮やかな若草色をした『よもぎの練り切り』が美しく並んでいる。上品なよもぎの香りがふわりと広がり、星野の体温が「純粋な食欲」によって再びわずかに上昇したのが匂いでわかった。
「わぁ……! すごく綺麗で、美味しそうですっ」
星野は目を輝かせながらも、先輩たちの手前、なんとかお淑やかな後輩を演じようと必死に居住まいを正している。柚木も「すご、食べるの勿体ないくらい綺麗……」と目を丸くしていた。
作法室に新入部員が二名加わり、普段の静寂に比べれば少しばかり場が賑やかになった。それ自体は別に構わない。だが、彼女たちがこの部屋に持ち込んだ『外の空気』が、徐々に俺のパーソナルスペースを侵食し始めていた。
少し汗ばむような薄暑の気配。柚木は強烈な香水こそつけていないものの、グラウンドの脇や本棟の廊下を歩いてきたことによる、わずかな土埃や外気の匂いを纏っている。そして何より、星野が振りまいているベリー系の甘いボディミストの匂いが、彼女の体温上昇に伴ってじわりと揮発し、作法室の和の香りを濁らせようとしていた。
(……少し、空気が重いな)
俺は気怠げに頬杖をつき、わずかに眉をひそめた。彼女たちに見栄や陰湿な嘘の匂いがないとはいえ、この密室に人工的な甘い香料と外の熱気が混ざり合うのは、俺の過敏な嗅覚にとって決して心地よい状態ではない。ポケットのミントタブレットを取り出そうと指を動かした、その時だった。
「今日は、外は少し暑かったみたいだね」
俺の隣に座っていた澄が、ふわりと立ち上がった。彼女は完璧な微笑みを崩さないまま、作法室の奥にある小窓へと向かう。
「少しだけ、風を通すね。空気がこもっちゃうと、せっかくの雅先輩のお香の香りが濁っちゃうから」
澄はそう言うと、小窓を数センチだけ絶妙な幅で開け放った。その瞬間、外から流れ込んできた春の風が、作法室の空気を綺麗に循環させた。計算し尽くされたかのような気流が、星野のベリー系のボディミストの匂いと柚木の外気の匂いを、俺のパーソナルスペースに届く前に巻き上げ、そのまま部屋の反対側へと静かに押し流していく。
俺の鼻腔をくすぐろうとしていた不快なノイズが、瞬時に中和された。
「それから、机の周りも少しだけ綺麗にしておくね。外の砂埃が舞っちゃったかもしれないから」
澄は流れるような動作で無香料の除菌シートを取り出すと、柚木と星野が座っている周辺の畳とテーブルを、サッと、徹底的に拭き清め始めた。
「えっ? あ、ごめん澄ちゃん、あたしたちが汚しちゃった……?」
柚木が慌てて身を縮めるが、澄はフルフルと首を横に振った。
「ううん、全然そんなことないよ。私が綺麗好きだから、ただ気になっちゃっただけ。玲奈ちゃんもくるみちゃんも、気にせずゆっくりお茶を飲んでね」
澄の言葉には、少しの影もなかった。俺の嗅覚をもってしても、彼女から受信するのは「大切なお客さんを綺麗なお部屋でもてなしたい」という純度百パーセントの善意だけだ。彼女は昔から極度の綺麗好きであり、他人の生活臭や外の汚れがこの空間に持ち込まれることを嫌う。その生来の性質が、俺にとって都合よく不快なノイズを排除してくれたのだ。
だが、俺の向かい側に座る二人の新入部員の様子は、明らかに異変をきたしていた。
「あ、ありがとうございます……」
先ほどまで小悪魔キャラを作ってあざとく振る舞おうとしていた星野は、完全に言葉を失い、湯呑みを両手でギュッと握りしめて小さく縮こまっていた。彼女から放たれていた甘ったるいボディミストの匂いは、澄の完璧な換気と清掃によって完全に空間から掻き消され、もはや一ミリの痕跡も残っていない。
星野の首筋からは、極度の『萎縮』を示すかすかな冷や汗の匂いが滲み出ている。彼女は、目の前で一切の影がない完璧な笑顔を向けてくる澄と、完全に浄化された自分の周囲の空間を交互に見比べ、まるで得体の知れないものを見るかのように怯えていた。
そして、星野の隣に座る柚木もまた、顔を引きつらせていた。
対人関係の空気を読むことに長けている柚木は、澄の放つ「純粋すぎる善意」の暴力的なまでの完成度を、肌で感じ取っているのだろう。一切の嫌味もなく、ただ息をするように他人の匂いを完全に拭き清め、この空間を完璧に管理している幼馴染。その圧倒的な隙のなさを前に、柚木は借りてきた猫のようにおとなしくなり、そっとよもぎの練り切りを口に運ぶことしかできなくなっていた。
「ふふっ。澄ちゃんが綺麗にしてくれたおかげで、お茶の香りがより引き立つわね」
雅先輩が優雅に微笑みながら、お茶を一口すする。
「はい。やっぱり、この作法室はいつでも綺麗で、心地よい場所であってほしいですから」
澄は心底嬉しそうに目を細め、俺の隣の定位置へと戻ってきた。彼女から漂うのは、俺が世界で一番安心できる、かすかな朝露のような柔軟剤の穏やかな香りだけだ。
向かい側に座る柚木と星野からは、もはや俺のパーソナルスペースを脅かすような見栄の匂いも、不快な香料の匂いも放たれていない。
「……お前たち、ずいぶんと静かになったな」
俺が気怠げに声をかけると、二人はビクッと肩を揺らし、慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ! その、すごくお茶もお菓子も美味しくて、感動しちゃってて……!」
「そ、そうそう! なんか、この部屋の空気が凄すぎて、圧倒されてるっていうか……ははっ」
星野と柚木がしどろもどろに答えるのを聞きながら、俺は小さく息を吐いた。
どうやら彼女たちも、この作法室の静謐なルールと、澄の徹底したおもてなしの空気に完全に飲まれたらしい。ただ丁寧に掃除をされただけだというのに、随分と大袈裟なことだ。
だが、新入部員が増えてもこれだけ大人しくしてくれるなら、俺の平穏な放課後が脅かされる心配はない。俺は澄が淹れてくれた完璧な温度のお茶を喉の奥へと流し込みながら、すっかり静まり返った二人の様子をただ気怠げに眺めていた。




