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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第31話 花の残り香と、透明な幼馴染 4

 リビングのソファに身を沈め、目を閉じていた俺の耳に、静かな水音が届いた。


 キッチンから聞こえてくる、やかんのお湯が沸く音ではない。それは洗面所の方から響いてくる、水が跳ね、布を丁寧に擦り合わせるような音だった。洗濯機のモーター音ではなく、人の手で念入りに洗い流しているような気配だ。


 四月下旬の夜。開け放たれた小窓から入り込むかすかな春の風が、空調の微風と混ざり合い、清潔なリネンを思わせる無刺激な空気を部屋の隅々まで運んでくる。俺の過敏な嗅覚は、この完全に調律された空間の中で、いかなる不快なノイズも受信することなく、ただ穏やかな休息を満喫していた。


「慧くん、お待たせ。ほうじ茶、淹れたよ」


 やがて水音が止み、洗面所から戻ってきた澄が、お盆に乗せた湯呑みをローテーブルに置いた。彼女の顔には、一切の淀みがない、ふんわりとした完璧な笑顔が浮かんでいる。


「ありがとう。……なあ、さっき手洗いしてくれていたのか?」


 俺が体を起こして尋ねると、澄はコクリと頷いた。


「うん。慧くんの制服、洗濯機に入れる前に、少しだけお湯と洗剤でもみ洗いしておいたの」


「そのまま洗濯機に放り込めばよかったのに。かなりきつい香水と汗の匂いだっただろ」


「だって、すごく強い匂いだったから。そのまま洗濯機に入れたら、一度じゃ完全に落ちないかもしれないでしょ?」


 澄は俺の隣にちょこんと座り、何でもないことのように言った。


「慧くんは外の匂いに敏感だから、明日、もし少しでもあの香水の匂いが残っていたら、また息苦しくなっちゃうじゃない? だから、繊維の奥の汚れまでしっかり落とせるようにしておいたんだ」


 彼女の言葉には、俺を苦しめた「外の汚れ」に対する懸念と、「俺を休ませたい」という純粋な善意だけが溢れていた。


 俺は、無意識に彼女の手元に視線を落とした。膝の上で揃えられた彼女の指先は、温かいお湯と洗剤で何度も何度も念入りに擦り洗いを繰り返したせいか、少しだけ赤くふやけていた。


 極度の綺麗好きである澄にとって、他人の、しかも同級生の女子の強烈な香水と冷や汗が染み込んだ服など、触るのも不快なはずだ。いくら俺が不注意で持ち込んでしまった汚れとはいえ、自分の指先が荒れるのも厭わず、他人の感情が混ざった繊維を素手で執拗に洗い流してくれていたのだ。


「……お前、手が赤くなってるじゃないか。俺のために、そこまでしなくても」


「えっ? ああ、これくらい全然平気だよ」


 澄は自分の指先を見て、少しだけ照れくさそうに笑った。


「私、慧くんのお洋服を綺麗にするの、昔から好きだから。外の嫌な匂いが全部消えて、慧くんが一番安心できる匂いになっていくのを見ると、私までホッとするんだ」


 その笑顔には、柚木という特定の女子に対する嫉妬も、厄介な汚れを押し付けられたことへの不満も存在しない。そこにあるのはただひたすらに、「慧くんが明日も快適に過ごせるように」という、果てしなく透明な思いやりだけだ。


「慧くん、お茶冷めないうちに飲んでね。私、洗濯機のスイッチ入れてくるから」


 澄は立ち上がり、再び洗面所へと向かっていった。


 俺はローテーブルに置かれた湯呑みを手に取り、温かいほうじ茶を一口飲んだ。熱すぎず、ぬるすぎない、俺の過敏な嗅覚を一切刺激しない完璧な温度。すり減ってささくれ立っていた胃の粘膜に、香ばしい風味がじんわりと染み渡っていく。


 洗面所から、洗濯機に水が注がれるかすかな音が響き始めた。


 あの洗濯機の中では今、俺の制服にこびりついていた柚木玲奈という人間の痕跡が、文字通り完全に消し去られようとしている。教室で生き残るために彼女が必死に纏っていた分厚いシトラスフローラルの香水も、過剰な気遣いから生じていた重苦しい冷や汗も。そして、最後に彼女が俺に向けた、あの不器用で純粋な好意の匂いすらも。


 澄が選んだ無香料の洗剤と、清潔なリネンを思わせる柔らかな水流によって、それらはすべて「単なる外の泥汚れ」として徹底的に分解され、排水溝へと洗い流されていくのだ。そして明日、乾いた制服に袖を通す時、そこにあるのは柚木の気配などではない。澄が俺の好みに合わせていつも調律してくれる、かすかな朝露のような、世界で一番息がしやすい匂いだけになっているはずだ。


(……本当に、ありがたい)


 俺はソファの背もたれに深く体を預け、ほうじ茶の温もりに息を吐いた。


 外の世界は、他人の見栄と嘘、そして陰湿な感情が渦巻く過酷な地獄だ。油断すれば、今日のように他人の面倒なノイズがべったりと服に染み付き、俺の精神をすり減らしていく。だが、俺には帰る場所がある。俺の身についた外の汚れを、嫌な顔一つせずに受け取り、自分の手が荒れることすら気にせずに完璧に洗い流してくれる、この幼馴染の存在がある。


 昔から俺と気が合う彼女は、俺が何を不快に思い、何を心地よいと感じるかを、言葉にしなくてもすべて感覚的に理解してくれている。彼女がこの究極に無害で心地よい環境を保ってくれている限り、俺はどんな過酷な外界のダメージからも回復し、再び平穏な呼吸を取り戻すことができるのだ。


「洗濯機、回してきたよ。明日の朝には、いつもの慧くんの匂いになってるからね」


 洗面所から戻ってきた澄が、俺の隣に座りながら嬉しそうに微笑んだ。


「ああ。……お前は本当に綺麗好きで、気が利く。助かったよ、澄」


「ふふ、どういたしまして」


 俺が心からの感謝を伝えると、澄は一切の濁りがない、澄み切った瞳で俺を見つめ返した。その体からは、俺が世界で一番安心できる、穏やかで清潔な空気だけが漂っている。


 綺麗好きで世話焼きな彼女が、俺のためにそこまでして外の汚れを落としてくれたことへの感謝。その一切の嘘が存在しない安全な日常の尊さを静かに噛み締めながら、俺は自分の幼馴染への全幅の信頼に身を委ね、彼女が用意してくれた完璧な夜のまどろみの中へと、無防備に沈んでいくのだった。

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