第3話 桜舞う朝と、透明なシャツ 3
「――それじゃあ、窓際の列の一番前から順番に、名前と部活、あと一言よろしく」
担任の気怠げな声に促され、新しいクラスでの自己紹介が始まった。三十人以上の生徒がひしめく教室には、新学期特有の緊張感と、これから一年間を共にする集団の中で自分の立ち位置を探り合うヒリヒリとした空気が充満している。
俺の異常な嗅覚は、人間の体温そのものを直接嗅ぎ分けているわけではない。だが、人が緊張したり見栄を張ったりして体温が急激に上がると、肌の表面にわずかな冷や汗が滲む。さらに、身につけている柔軟剤や制汗剤が体熱によって揮発するスピードも不自然に変化する。そういった物理的な「匂いの揺らぎ」が、俺にとっては他人の『嘘や強がり』の明確なシグナルとなって脳を直接叩いてくるのだ。
次々と続く自己紹介の声の裏で、俺の鼻は「面白そうな奴を演じようとする過剰な発汗」や「無難に済ませようとする無意識の息苦しさ」を嫌でも受信し続けていた。ミントタブレットの清涼感だけでこの情報の濁流を凌ぐのは、すでに限界に近い。
「はい次、遠山」
「遠山 太陽です! サッカー部やってます。今年は絶対レギュラー取るんで、応援よろしくお願いします! あと、行事とか打ち上げとか全力で楽しむ派なんで、クラスで遊ぶときは絶対誘ってください!」
自分の番が来た遠山は、快活な声でそう言い放ち、にかっと笑って席に座った。「お前、まずは朝練遅刻するの直せよ!」と、同じサッカー部らしき男子からヤジが飛び、教室に軽い笑いが起きる。遠山の放つ匂いは、相変わらず汗と制汗剤が混ざった強烈な悪臭だが、そこに「自分を良く見せようとする嘘」の揺らぎは一切ない。馬鹿でうるさい奴だが、この息が詰まる教室の中において、彼の裏表のないストレートな感情だけは唯一の救いだった。
「次、神崎」
「神崎 慧です。部活は、香道部です。……よろしくお願いします」
俺は席を立ち、必要最小限のことだけを言ってすぐに腰を下ろした。香道部という聞き慣れない単語にクラスの何人かが不思議そうな顔をしたが、俺が誰とも視線を合わせずにシャットアウトの空気を出すと、すぐに興味を失ってくれた。
やがて、窓際の列から中央の列へと自己紹介が移る。
「次、真白」
「真白 澄です。慧……神崎くんと同じで、香道部に入っています。皆さんと仲良くできたら嬉しいです。一年間、よろしくお願いします」
立ち上がった澄は、誰もが好感を抱くような完璧な笑顔で挨拶をし、丁寧にお辞儀をした。その瞬間、遠山をはじめとするクラスの男子たちが浮き足立ち、わずかな熱気を放ったのがわかった。
だが、俺の意識はそこには向かなかった。新しいクラスでの自己紹介という、誰もが無意識に緊張を強いられる場面。それにもかかわらず、澄からは心拍数の上昇による体温の変化や、強がりを示すわずかな冷や汗の匂いが一切、完全にゼロだったのだ。少し汗ばむような春の陽気と、教室の熱気の中にいても、彼女は全く汗をかいているように見えず、不自然な香水の匂いもしない。彼女が纏っているのは、今朝俺が嗅いだのと同じ、ただひたすらに穏やかで心地よい柔軟剤の香りだけだった。
誰もが「見栄」という分厚い仮面を被っているこの息苦しい教室の中で、澄だけが、まるでそこだけ切り取られたように透明で清らかだった。遠山のように裏表がないだけの奴はいるが、あいつは物理的な匂いと下心がうるさすぎる。一切の不快な気配がなく、俺が心から深呼吸できる唯一の相手。彼女と同じ空間にいられることの幸運に、俺は密かに安堵の息を吐いた。
しかし、そのささやかな平穏は、次に立ち上がった女子生徒によって暴力的に打ち砕かれることになる。
「星川 莉愛でーす! 一応テニス部でーす! 最近は、駅前にできた新しいカフェ行くのに超ハマってます! みんな一年間よろしくねー!」
ひときわ声が大きく、明るく染めた髪を揺らして立ち上がった女子生徒――星川莉愛。彼女が動いた瞬間、教室の空気が一変した。流行りの強烈なバニラ系の香水と、ココナッツのヘアオイルの匂いが、暴力的なまでの勢いで拡散していく。声が大きく、語尾が伸びる生粋のギャル。だが、彼女から放たれる圧倒的な匂いの中には、見栄や嘘の成分が全く含まれていなかった。彼女はただ純粋に、自分の好きな匂いを周囲の迷惑など微塵も考えずにばら撒いているだけだ。悪気がない分、ある意味では遠山よりもタチの悪い「純粋なノイズ」だった。
「はい、次」
「柚木 玲奈でーす! あたしも莉愛と同じテニス部でーす。カラオケとか超好きだから、放課後とか気軽に声かけてね。一年間よろしくー!」
続いて立ち上がったのは、星川の隣の席に座る柚木玲奈だった。彼女もまた、星川に負けないほど強いシトラスフローラル系の香水を纏っている。しかし、俺の鼻が捉えたその香水の奥底には、星川とは全く異質の成分が潜んでいた。
柚木が明るい笑顔で言葉を発するたび、極度の緊張から体温が不自然に上昇し、香水の揮発速度が異常に早まっている。強い香料の匂いを突き抜けて俺の鼻に届いたのは、彼女の首筋から滲み出る「プレッシャーによるわずかな冷や汗」の匂いだった。彼女は、星川のような本物のギャルではない。周囲の空気を過剰に読み、ノリの良いキャラクターを必死に『演じて』いるのだ。このむせ返るような香水は、そんな小心者で繊細な自分を隠し、新しいクラスの人間関係から身を守るための、ひどく分厚くて苦しい「鎧」だった。
(……すり減ってるな)
柚木が席に座った瞬間、「ふぅ」と誰にも聞こえないほどのわずかな息を吐き出すのを、俺は見逃さなかった。その吐息に混じる、神経をすり減らした疲労の匂い。彼女が抱えているストレスは、俺が満員電車やこの教室で感じている「外界への苦痛」と、根本的な部分で同じだ。
だが、俺はすぐに彼女から視線を外した。他人がどんな嘘をついていようが、どんな重い鎧を着ていようが、俺には関係のないことだ。深入りすれば、俺自身の精神がすり減るだけ。ただでさえ他人の感情の淀みで息が詰まりそうなこの環境で、自ら厄介事に首を突っ込む義理などない。
長いホームルームが終わり、短い休み時間に入った途端、教室の空気はさらに騒がしさを増した。
「ねえ玲奈! さっき言ってたカフェ、今日の放課後行かない?」
「マジで? いいよ、あたしも超行きたかったし!」
教室の中心では、星川莉愛を核とした数人のギャルグループがさっそく出来上がっていた。柚木は星川のテンションに完璧に合わせ、手を叩いて笑っている。だが、その笑い声の裏で、彼女の体温は常に不自然な高さを維持し、香水の鎧がじりじりと揮発し続けていた。誰の機嫌も損ねないように。グループの中で浮かないように。三百六十度、全方位の空気を読みながら振る舞う柚木から漂う「過剰な気遣いの匂い」は、少し離れた窓際の俺の席にまで届いてくる。
「……っ」
俺はポケットから新しいミントタブレットを取り出し、苛立ちとともに奥歯で噛み砕いた。星川のバニラ、遠山の制汗剤、そして柚木の香水と冷や汗。それらが混ざり合った教室のノイズは、もはや人間の居るべき空間ではない。俺は机に突っ伏し、どうにか嗅覚を遮断しようと目を閉じた。
「あ、ちょっとごめん」
不意に、すぐ横から声がした。顔を上げると、前の席から回ってきたらしいプリントの束を持った柚木玲奈が、俺の机の前に立っていた。どうやら、係決めの希望プリントか何かを後ろの席に回しているらしい。
「神崎、だっけ? はい、これ後ろの分」
「……ああ、サンキュ」
俺は無表情のままプリントを受け取った。その一瞬の至近距離。柚木の纏うシトラスフローラルの香水が、俺のパーソナルスペースを容赦なく侵食した。鼻を突く強烈な匂いの奥にある、確かな震え。至近距離だからこそわかる、彼女のわずかな呼吸の浅さ。ノリの良い笑顔を貼り付けた彼女の瞳の奥には、「このクラスの空気を絶対に壊してはいけない」という、強迫観念にも似た怯えが潜んでいた。
柚木は俺にプリントを渡すと、すぐに星川の元へ戻り、「でさー、そのお店の新作がー」と、再び明るいギャルを演じ始めた。
無理をして香水なんてつけるから、余計に息が苦しくなるんだ。心の中でそう毒づきながら、俺は配られたプリントに視線を落とした。
俺はただ、平穏に息がしたいだけだ。この教室にある嘘も、不自然な武装も、俺にとってはすべて排除すべき不快な気配でしかない。早く放課後にならないだろうか。授業が終われば、旧校舎の奥にある「作法室」に行ける。あそこに行けば、雅先輩の焚く落ち着いたお香の匂いと、嘘のない静かな時間が待っている。
俺はひたすらに放課後の訪れを待ち焦がれながら、悪臭と嘘に満ちた教室の片隅で、静かに息を潜め続けた。




