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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第29話 花の残り香と、透明な幼馴染 2

 完璧な温度に設定されたシャワーの湯が、皮膚にへばりついていた他人の感情の痕跡をすべて洗い流していく。


 俺は浴室の中で深く息を吐き出し、強張っていた全身の筋肉が少しずつ緩んでいくのを感じていた。今日一日、教室で充満していた見栄や嘘の気配。遠山が撒き散らす暴力的な制汗剤の悪臭。そして放課後の渡り廊下で、柚木の分厚い鎧を引き剥がすために至近距離で浴びた、強烈なシトラスフローラルの香水と冷や汗の匂い。それらの不快なノイズが、温かい湯気とともに排水溝へと吸い込まれて消えていく。


 湯船に浸かって十分に体を温めた後、俺は脱衣所へと出た。そこには、澄が俺のために用意してくれた着替えが、きちんと畳まれて置かれている。ふかふかのタオルで髪を拭き、肌触りの良いルームウェアに袖を通すと、生地の奥から、清潔なリネンを思わせる穏やかな空気がかすかに漂ってきた。不自然な人工香料の匂いは一切しない。ただひたすらに清潔で、俺の嗅覚を一切邪魔しない、完璧に調律された無刺激の衣類だった。


「ふう……」


 完全に外界の汚れから解放された俺は、洗面所のドアを開け、リビングへと戻った。徹底的な換気と拭き掃除によって限りなく無臭に保たれた空間には、空調の微風に乗って、先ほどと同じ透明で心地よい空気だけが満ちている。俺は吸い寄せられるようにソファへと向かい、その柔らかなクッションに深く身を沈めた。


 過酷な外界で極限まですり減っていた精神と肉体が、この絶対的な安全圏に到達したことで、急速に活動を停止しようとしていた。俺はソファの背もたれに頭を預け、目を閉じる。ほんの少しだけ休むつもりだった。だが、一切のノイズが存在しないこの究極の空間の心地よさに抗うことはできず、俺の意識は泥のように深い睡眠の底へと沈んでいった。


 ――どれくらいの時間が経っただろうか。


 ふと意識が浮上した時、俺は自分の体が心地よい温もりに包まれていることに気がついた。ゆっくりと目を開けると、俺の肩から胸元にかけて、薄手で肌触りの良いブランケットがふわりと掛けられている。俺がソファで寝落ちしてしまった間に、澄がそっと掛けておいてくれたのだろう。ブランケットからは、朝露のように澄んだ清潔な空気がわずかに漂っていた。


「あ、慧くん。おはよう」


 気配に気づいたのか、キッチンの方からエプロン姿の澄が歩み寄ってきた。彼女は俺の顔を覗き込むようにして、ひだまりのように温かく柔らかな笑顔を向ける。


「湯冷めしないように掛けておいたんだけど、寒くなかった?」


「……ああ。悪い、少し寝てた」


 俺が気怠げに身を起こすと、澄は一切の影がない完璧な笑顔のまま、フルフルと首を横に振った。


「ううん。それだけ、外の世界で疲れてたってことだよね。ゆっくり休んでくれてよかった」


 澄はそう言って立ち上がり、リビングのローテーブルに夕食の入った器を手際よく並べ始めた。


 普通、誰かがキッチンで料理をすれば、部屋には油やスパイス、あるいは肉や魚の生々しい匂いが充満するものだ。しかし、澄が俺のために作ってくれる食事は違う。俺の過敏な嗅覚をひどく刺激するようなニンニクや強い香辛料は完全に排除され、丁寧に取られた昆布や鰹の和風出汁の、優しく温かい匂いだけが空間に漂っている。換気扇の音すらも静かで、彼女は俺がソファで眠っている間、俺の安らぎを一切邪魔しないように動いてくれていたのだ。


「いただきます」


 俺は姿勢を正し、澄がよそってくれた温かいお吸い物を一口飲んだ。熱すぎず、ぬるすぎない、完璧な温度。すり減ってささくれ立っていた胃の粘膜に、優しい出汁の風味がじんわりと染み渡っていく。


「美味しいかどうかわからないけど……慧くんの口に合うといいな」


 対面に座った澄は、両手を膝の上で揃え、俺の反応を待つように小首を傾げた。その瞳には、自分の作った料理で俺が元気になってくれることだけを願う、ひたすらに純粋な思いやりだけが溢れている。


 俺は食事の手を止め、目の前に座る幼馴染の顔を静かに見つめた。


 俺の異常な嗅覚は、相手がどんなに言葉で取り繕おうと、体温の上昇やわずかな発汗から、その裏にある「見栄」や「打算」、あるいは「生々しい下心」をすべて嗅ぎ分けてしまう。だが、物心ついた頃からずっと一緒にいるこの真白澄という少女からだけは、ただの一度も、そんな「嘘の気配」を受信したことがない。


 彼女が俺の世話を焼いてくれるのは、何か見返りを求めているからではない。俺を自分の思い通りにコントロールしようという陰湿な企みがあるわけでもない。ただ純粋に、「俺が外界で苦しんでいるから、休ませてあげたい」という、果てしなく透明な善意からくる行動なのだ。


「……完璧だ。本当に美味い。澄の作る飯が、世界で一番落ち着く」


 俺が心からの本音を告げると、澄の顔がぱぁっと明るくなった。


「よかった! 慧くんがそう言ってくれるのが、私にとって一番嬉しいことだから」


 彼女の放つ空気が、喜びでわずかに温かみを増す。そこには、俺を癒やすことへの純度百パーセントの幸福感しか存在していなかった。


 俺は、この世で唯一、裏の匂いを探らなくていい彼女の存在に、無防備なまでに甘えきっていた。他人の嘘を見抜くことに長けたこの俺が、彼女に対してだけは、一切の疑いを持つことができない。いや、持つ必要がないのだ。彼女は生まれつき清らかで、そして誰よりも俺と気が合う。だからこそ、俺が最も安らぐ温度や空気を、彼女は生まれ持った相性の良さで感覚的に理解し、いつも自然と用意してくれるのだから。


「やっぱり、お前といる時が一番息がしやすい」


 俺が自然とこぼしたその言葉に、澄は少しだけ頬を染め、心底嬉しそうに目を細めた。


 夕食を終え、温かいお茶で一息ついた頃には、地下鉄で感じていた頭痛も吐き気も完全に消え去っていた。俺の精神と肉体は、澄の潔癖なまでの綺麗好きが保っている、この究極の聖域の中で、完全に息を吹き返していた。この安全で心地よい場所があり、澄が俺のすべてを理解してサポートしてくれる限り、俺は明日もあの悪臭に満ちた教室という戦場へ向かうことができる。


「ごちそうさま。助かったよ、澄」


「お粗末様でした。慧くん、今日はこの後もゆっくりして、疲れをとってね」


 澄は手際よく空になった食器をお盆に重ねながら、ふんわりと微笑んだ。


 外の世界は、他人の見栄と嘘、そして陰湿な感情が渦巻く過酷な地獄だ。油断すれば、今日のように他人の面倒なノイズがべったりと服に染み付き、俺の精神をすり減らしていく。だが、俺には帰る場所がある。この、極度の綺麗好きである澄が徹底して清潔に保っている、究極に無害で心地よい空間。昔から俺と気が合う彼女がいるこの環境さえあれば、俺はどんな過酷な外界のダメージからも回復することができる。


 俺はソファの背もたれに深く寄りかかり、部屋を満たす清潔な空気を再び深く肺に吸い込んだ。俺は自分の幼馴染への全幅の信頼と絶対的な安心感に身を委ね、一切の嘘が存在しない安全な日常の尊さを、静かに噛み締めるのだった。

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