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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第27話 葉桜の夕暮れと、強がりの素顔 8

 カチリ。俺がポケットの中でミントタブレットの冷たいケースを指先で弾くと、小さな乾いた音が夕暮れの渡り廊下に落ちた。


 俺の冷ややかな宣告を受け、へたり込んだままおずおずと俺を見上げていた柚木玲奈は、やがて両手で顔を覆い隠し、指の隙間からうっすらと涙のにじんだ瞳で俺を上目遣いに睨んできた。首筋から耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まったその顔には、いつもの「ノリの良い同級生」の余裕など微塵も残っていない。


「……神崎の、バカ」


「俺は事実を指摘しただけだ」


「バカ、性格悪いです、サイテー……。女の子の隠してたこと、あんな至近距離で理詰めで全部暴くなんて、デリカシーなさすぎじゃんか……っ」


「だから、急に敬語を混ぜるな。調子が狂う」


 俺が呆れたようにため息をつくと、柚木は「うぅ……」と小さく呻いて、再び顔を両膝に埋めてしまった。


 極度のパニックと羞恥心で機能不全に陥った彼女からは、相変わらず急激に上昇した体温によってシトラスフローラルの香水が激しく揮発している。だが、そこから発せられているのは、純度百パーセントの「恥ずかしさ」と「不器用な動揺」だけだ。教室に充満しているような、他人を蹴落とすための見栄や陰湿な嘘の成分は一滴も含まれていない。俺は彼女のこのうるさい匂いを至近距離で受け止めていても、不思議と頭痛や吐き気を感じていなかった。


 しばらくの間、春の生ぬるい風が渡り廊下を吹き抜ける音だけが響いていた。


 やがて、柚木はゆっくりと顔を上げた。頬の赤みはまだ引いていないが、先ほどまでの極限のパニック状態からは少しだけ脱したようだ。彼女は壁に手をついて、ふらつく足取りで立ち上がった。


「……でもさ」


 柚木は俯き加減のまま、ぽつりと呟いた。


「神崎……に、全部バレちゃったのはもうしょうがないけど……。明日から、私どうすればいいのさ……っ」


 その言葉とともに、彼女の体から漂う匂いのレイヤーがわずかに変化した。羞恥の熱が少しずつ引き、代わりに立ち上ってきたのは、ひどく冷たくて重い『不安』の匂いだった。


「私、あの教室で莉愛たちのテンションについていくの、ほんとはすっごく必死で……。この香水つけて、無理にでも『ノリのいい自分』を作らないと、いつかボロが出て、グループで浮いちゃうかもしれないって、ずっと怖かったんだよ」


 彼女は自分のブレザーの袖口を強く握りしめた。タメ口と敬語が混ざったしどろもどろな口調のまま、彼女は必死に本音を吐き出す。


「神崎は『香水なんてつけるな』って言うけど……この鎧がなかったら、あたし、教室でビクビクしてるのが他の子にもバレちゃうかもしれないじゃん……!」


 それは、極度に空気を読み、人間関係の摩擦を極端に恐れる彼女にとっての、最も根源的な恐怖だった。武装を解除され、丸腰で過酷な戦場に放り出されることへの怯え。その切実な匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。


「お前は、根本的な勘違いをしている」


 俺は気怠げにポケットに手を入れたまま、夕日が長く伸ばす彼女の影を見つめて言った。


「俺は、お前に『教室でまで空気を読むのをやめろ』とは一言も言っていないぞ」


「え……?」


 柚木が戸惑ったように顔を上げる。


「三十人以上がひしめき合う息苦しい教室で、全員が素顔を晒して生き残れるわけがない。誰もが自分を守るために嘘をつき、分厚い建前の仮面を被っている。お前が星川のペースに合わせてギャルを演じ、空気を読んで立ち回るのは、あの教室におけるお前自身の生存戦略だ。好きにしろ」


 俺の現実的で冷めた意見に、柚木は目を丸くした。


「ただ、その生存戦略に『強烈な香水』という物理的なノイズは不要だと言っているんだ」


 俺は彼女の目を見据え、淡々と事実を告げた。


「いいか。お前の体温の上昇や冷や汗を嗅ぎ分けて『無理をしている』と見抜けるような異常な嗅覚を持っている人間は、あの教室には俺以外に存在しない。お前が香水をつけようがつけまいが、星川たちは誰も気にしないし、お前の内面の怯えになんて気づきもしない」


「あっ……」


「お前は、他人の顔色を窺うことにかけては優秀だ。匂いで誤魔化さなくても、お前のその過剰な気遣いスキルさえあれば、あの教室で『ノリの良い同級生』を演じ切ることは十分に可能だ」


 俺の言葉が落ちるたびに、柚木から放たれていた重い不安の匂いが、少しずつ薄れていくのがわかった。


「……あたしの気遣いで、十分……?」


「ああ。だから、明日からはその息苦しい香水の鎧を置いてこい。少なくとも、俺のパーソナルスペースを汚染するのはやめろ。迷惑だ」


 俺がぶっきらぼうに言い捨てると、柚木は少しだけ呆れたように、ふっと短く息を吐いた。


「……神崎って、ほんと容赦ないよね。そういうの、普通もっと優しく慰めてくれるもんじゃないの……?」


「俺は事実をプロファイリングしただけだ。慰めが欲しいなら、遠山にでも頼めばいい。あいつなら下心全開で喜んで話を聞いてくれるだろうからな」


「遠山は絶対パス。あいつ、声でかいし」


 柚木は小さく笑い声をこぼした。その笑顔には、もうあの不自然な引きつりも、過剰な冷や汗の匂いも混じっていなかった。パニックから抜け出し、少しずつ本来の彼女の、等身大で不器用な少女の素顔が戻りつつある。


「……でもさ」


 柚木は西日に照らされた桜の若葉を見上げながら、ポツリとこぼした。


「香水がなくてもバレないってわかっても……やっぱり、ずっと周りの空気読んで合わせ続けるのって、息が詰まる時があるんだよね。莉愛は悪気ないってわかってるけど、たまにマジで逃げ出したくなるっていうか……」


 それは、彼女の魂の奥底からの、嘘偽りのない本音だった。教室で生き残るためにギャルを演じ続けるという道を選んだ以上、彼女の耐久戦が終わることはない。その重圧は、彼女の繊細な肩には少しばかり重すぎるのだろう。


 俺は小さく息を吐き、渡り廊下の中央から、本棟へ続く出口の方へとゆっくりと歩き出した。


「神崎……?」


「息が詰まったら、旧校舎に来い」


 俺は振り返ることなく、夕日に向かって背中を向けたまま告げた。


「作法室なら、他人の顔色を窺う必要はない。お前のその無駄な気遣いも、分厚い香水の鎧もいらない。……雅先輩も、お前が来るのを面白がっていたからな。長谷川先生のように、タダで高級和菓子が食べられると言えば、あの空間に逃げ込む口実にはなるだろう」


 俺の言葉が、夕暮れの渡り廊下に静かに響いた。背後で、柚木が息を呑む気配がした。


「作法室に……あたしが、行っていいの?」


「俺はお前の匂いがうるさいと言っただけで、来るなとは言っていない。長谷川先生のように嘘のない状態で静かに和菓子を食うだけなら、俺の嗅覚を邪魔することもないからな」


 俺が気怠げに肩をすくめると、背後から漂ってくる匂いのレイヤーが、劇的な変化を起こした。


 羞恥や不安といったノイズが完全に消え去り、そこからふわりと立ち上ってきたのは――春の陽だまりのように温かく、そして純粋で甘い匂いだった。それは、自分の最も見せたくなかった素顔を受け入れ、逃げ場所を与えてくれた相手に対する、『深い信頼』と『ほのかな好意』の匂いだ。


(……なるほどな)


 俺は歩みを止めることなく、ただその匂いを鼻先で静かに受け止めた。遠山が可愛い女子を見るたびに放つような、見境のない生々しい下心とは決定的に違う。不快感や生理的嫌悪を催すような成分が、ただの一滴も含まれていない。押し付けがましくもなく、ただ静かに相手を慕うような、ひどく透明で綺麗な匂いだ。


 俺にとって、他人の好意の匂いなど本来は無関係なものだ。だが、この不器用な少女がようやく行き着いた嘘のない匂いは、不思議と俺の神経を削ることはなかった。


「……うん。わかった」


 背後から、柚木の澄んだ声が聞こえた。


「ありがと、神崎。……明日から、香水つけるの、やめるね」


 振り返らなくても、彼女が今、無理のない素の笑顔を浮かべていることが匂いでわかった。


「好きにしろ。じゃあな」


 俺はそれだけ言い残し、早歩きで渡り廊下を後にした。柚木玲奈という、俺のパーソナルスペースを脅かしていた不快なノイズの発生源は、これで完全に武装解除されたのだ。


 俺は制服の襟元を引き寄せた。澄が完璧に調律してくれた柔軟剤の香りを深く吸い込みながら、俺は一切の嘘が存在しない安全な日常へと、静かに歩みを進めるのだった。

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