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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第26話 葉桜の夕暮れと、強がりの素顔 7

 最後の一撃となる俺の言葉が夕暮れの渡り廊下に落ちた瞬間。壁に背を預けていた柚木玲奈の時間が、ピタリと止まった。


 遠くのグラウンドから聞こえていた運動部の声も、かすかに響く吹奏楽部の演奏も、今の彼女の耳には届いていないだろう。彼女はまるで目に見えないハンマーで頭を殴られたかのように硬直している。大きく見開かれた瞳は、瞬きすることすら忘れて俺を映していた。


 数十センチという至近距離。俺の鼻腔は、彼女の身体から発せられる情報の劇的なシフトを正確に捉えていた。


 先ほどまで彼女の全身を分厚く覆っていた、過剰な気遣いによる粘着質な『冷や汗』と、人間関係の摩擦に怯える『重苦しい疲労』の匂い。それらが、まるで強い風に吹き飛ばされるように一瞬にして霧散していく。代わりに爆発的に立ち上ってきたのは――極限まで急上昇した体温に伴う、熱を帯びた『羞恥』の匂いだった。


「……え」


 彼女の乾いた唇から、間抜けな音が漏れる。


「ぜ、全部って……。あたしが、その……素は全然違くて、無理してノリいいキャラ作ってた……ってことまで……?」


 彼女は、自分が隠し通せていたと思っていた最後の砦――「派手でノリの良いギャル」という根本的なアイデンティティすらも、俺の前では完全に透明だったことにようやく気づいたようだった。西日に照らされた彼女の顔が、首筋から耳の先まで、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていくのが視覚的にもはっきりとわかる。


「ああ。教室で星川のペースに合わせるために必死に冷や汗を流していたことも、本当はビビりなくせに無理をしてこの分厚い香水を浴びるように被ってきたことも。そして、先ほど俺に見え透いた恋愛のノリで迫り、有耶無耶にして逃げようとした小心者であることも、だ」


 俺が淡々と、そして容赦なく事実を並べ立てると、彼女の瞳にみるみるうちに涙が滲み始めた。


「あ、あの、それはですね……! ち、違くて、私、別にそんなつもりじゃ……っ」


 裏返った声で紡がれたのは、いつものノリの良いギャル語ではなかった。極度のパニックにより、同級生相手であるにもかかわらず不自然な『敬語』が混ざり、一人称すらもブレてしまっている。


「……一人称と口調がおかしくなっているぞ」


 俺が冷ややかに指摘すると、彼女は「ひゃああっ!」と短い悲鳴を上げて両手で顔を覆った。


「う、うわぁぁ……っ! 恥ずかしい……!」


 壁に背を預けたまま、彼女はずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。顔を両膝に埋め、小さく丸まった背中が小刻みに震えている。


「私、ずっと神崎くんの前で、イタい勘違い女みたいなことしてたってことじゃん……っ!」


「神崎くんだと? 急に呼び方を変えるな。気持ち悪い」


「だ、だって……今までみたいに馴れ馴れしく話しかけたら、また『無理してる』『冷や汗かいてる』って、全部見透かされちゃうじゃんかぁ……っ」


 彼女は膝に顔を埋めたまま、涙声でくぐもった抗議をしてくる。


「『あたしに気があるの?』とか、どの口が言ったの……ああもう、穴があったら入りたいです……いや、埋めてください……!」


 消え入りそうな声で呻くその姿には、教室の中心で星川たちと大声で笑い合っていた「派手な同級生」の面影は、もはや一ミリも残っていなかった。


 これが、柚木玲奈という少女の、ひた隠しにしてきた本当の姿だ。周囲の空気を読みすぎ、他人の顔色を窺い、自分がどう見られているかを極度に気にする、生粋の小心者。だからこそ、傷つくのが怖くて、必死に自分を大きく見せるための分厚い香水の鎧を着込み、派手なキャラクターを演じ続けていたのだ。そのすべてを、よりによって同級生の男子に至近距離で、完璧に暴かれたのだ。キャパシティを超えた羞恥心で脳がショートし、機能不全に陥ってしまうのも無理はない。


 俺はズボンのポケットの中で、冷たいプラスチックケースの表面を指先でなぞりながら、しゃがみ込んだ彼女を静かに見下ろした。


 彼女の体からは、不自然に上がった体温によって相変わらずシトラスフローラルの香水が激しく揮発している。だが、そこに含まれているのは、純度百パーセントの「恥ずかしさ」と「不器用な動揺」だけだ。他人を蹴落とすための見栄や、陰湿なマウントを取るための嘘。あるいは、遠山が可愛い女子を見るたびに放つような、生々しい下心。俺の神経をゴリゴリと削るそういった悪意や不快なノイズは、今の彼女の匂いのレイヤーのどこを探しても、一滴も存在しなかった。


 だからだろうか。俺は彼女のこのうるさいほどの動揺の匂いを鼻先で受け止めていても、不思議と頭痛や吐き気を感じていなかった。ただの純粋な恥じらいの匂いなら、俺にとっては少し香料が強いだけで、完全に無害な部類に入る。


「……勝手に自爆しているところ悪いが」


 俺はミントの清涼感が残る息を細く吐き出し、丸まっている彼女の頭の上から声をかけた。


「俺はお前の隠し事を暴いて嘲笑しようとしたわけじゃない。ただ、お前のその過剰な気遣いから生じる冷や汗と、それを誤魔化すための強烈な香水の匂いが、俺の鼻にはひどく不快なノイズだったから、事実を突きつけて黙らせただけだ」


「うぅっ……それはそれで、ひどい理由だね……っ」


 彼女が恨めしそうに上目遣いで俺を睨んでくる。真っ赤に染まった頬と、涙で濡れたまつ毛。先ほどまでの分厚い仮面が嘘のように、そこには年相応の、等身大の不器用な少女の素顔があった。


「事実だから仕方ないだろう。それに、お前が教室でどれだけ空気を読んでピエロを演じていようが、俺にとっては知ったことじゃない。だが、俺の前でまでその息苦しい鎧を着たままでいられると、匂いが濁って非常に迷惑だ」


「……っ」


「お前が勝手にすり減って、勝手に匂いを撒き散らしているだけだ。俺はそれを受信して、言語化したに過ぎない。これに懲りたら、二度と俺の前でその透明な嘘を通そうとするな」


 俺は気怠げにポケットに手を入れたまま、夕日が長く伸ばす彼女の影を見つめた。春の生ぬるい風が、渡り廊下を静かに吹き抜けていく。


 完全に武装解除され、ポンコツと化した彼女は、もう二度と俺の前で、あの分厚い香水の鎧に身を隠したまま、息苦しい嘘をつくことはできないだろう。俺の目的は完全に達成された。俺のパーソナルスペースを脅かしていた不快なノイズの発生源は、こうして自滅という形で完全に無害化されたのだ。


「もういいだろう。お前のそのくだらない耐久戦の匂いは、俺の前では一切通用しないとわかったはずだ」


 俺が冷ややかに告げると、彼女はビクッと肩を揺らし、まだ真っ赤な顔のまま、おずおずと俺を見上げた。俺はその瞳の奥にある感情を深く探ることはせず、ただ静かに、ミントタブレットの冷たいケースを指先で弾いた。

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