第25話 葉桜の夕暮れと、強がりの素顔 6
壁に背中を押し付けられた柚木玲奈は、震える唇から消え入りそうな声をこぼした。数十センチの至近距離。俺の冷徹なプロファイリングによって身体的な動揺の証拠をすべて突きつけられ、彼女は完全に逃げ場を失っていた。
「どうしてわかるのか。それは、お前自身が今日一日、ひどくわかりやすい痕跡を残し続けていたからだ」
俺は冷たいミントの息を細く吐き出し、彼女の顔を真っ直ぐに見下ろしたまま、淡々と事実の解体を再開した。
「今朝、星川がリップを見つけて教室で大騒ぎしていた時。お前は星川の隣で手を叩いて笑いながら、一度だけ、心からの『安堵の匂い』を放った」
「……っ」
「グループの崩壊を防ぎ、クラスの空気を守り抜いたという、純粋な安堵だ。だが、その平和な匂いは一分と持たなかった。……星川が、昨日疑いの目を向けてしまった他の女子たちの席へ、謝罪に行った時だ」
俺の言葉に、柚木の肩がビクッと大きく跳ねた。彼女の瞳孔がわずかに揺れ、今朝の教室での光景が脳裏にフラッシュバックしているのがわかる。
「星川は『うちの勘違いだった、マジごめん』と軽く笑って済ませようとした。相手の女子たちも、表面上は笑顔で返していた。だが、あの時、女子たちからは一瞬だけ『人にあんだけキツく言っといてなんだよ』という、かすかな反感と苛立ちの匂いが漏れ出していた」
「あ……」
「三百六十度、クラスの全方位の空気を読んでいるお前は、俺の鼻と同じように、そのわずかな摩擦の火種を瞬時に察知したんだろう。お前は弾かれたように星川の隣へ駆け寄り、女子たちに向かって大袈裟に手を合わせて頭を下げた。『莉愛も焦ってパニクってたから、嫌な思いさせちゃってごめん! 新作パン奢るから許して!』とな」
図星を突かれた柚木は、無意識のうちに自分の両腕を強く抱え込んだ。まるで、見えない刃から自分の身体を守ろうとするかのように。
「お前が身を挺してピエロを演じ、必死にフォローを入れたことで、女子たちの苛立ちは霧散し、教室には和やかな空気が戻った。……お前は自分の席に戻った瞬間、誰にも気づかれないように、ひどく重い息を吐き出していたな」
夕日に照らされた渡り廊下に、重苦しい沈黙が落ちた。春の生ぬるい風が通り抜け、古い木造校舎がきしむ音だけがわずかに響く。
「あの時、お前の身体の奥底から滲み出た『限界の疲労』の匂いで、俺は完全に理解した」
俺は半歩だけ身を乗り出し、息を詰まらせている彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「お前が極限まで神経をすり減らしているのは、リップの紛失という単発のトラブルのせいじゃない。星川莉愛という『純粋なノイズの発生源』そのものに対してだ」
「ちが……莉愛は、そんな……」
「星川は、思ったことをそのまま口にする裏表のない性格だ。陰湿な企みはないが、その分、自分の行動が周囲にどんな影響を与えるかという配慮に欠けている。彼女が悪気なく自分のペースで動くたび、言葉を発するたび、教室のあちこちに小さな人間関係の火種が生まれる。お前は、その火種が炎になってクラスの空気を焼き尽くす前に、常に先回りして必死に消火活動を行っているんだ」
俺の言葉が一つ落ちるたびに、柚木から放たれる香水のベールが、音を立てて剥がれ落ちていく。
「誰の機嫌も損ねないように。グループの中で浮かないように。自分が傷つかないように。……息の詰まるような教室で、自分の立ち位置と平和を維持し続けるための、終わりのないメンテナンス作業。それこそが、お前が抱えている本当のストレスの正体だ」
「や、やめて……」
「いつ地雷を踏むかわからない人間関係の摩擦に怯え、自分が浮かないように必死に同調し続ける。その過酷な耐久戦から繊細な自分を守るために、お前は『ノリの良い同級生』を演じ、今日も朝からこの強烈な香水を分厚い鎧として着込んできたんだろう」
俺の理詰めの刃が、彼女がひた隠しにしてきた最も脆弱な部分を、正確に、そして深く貫いた。
「事件が一つ解決したくらいで、その息苦しい鎧を脱げるはずがない。お前の耐久戦は、あの教室にいる限り、明日も明後日もずっと続くのだからな」
俺の冷徹なプロファイリングの前に、柚木はもはや言い返す言葉を完全に失っていた。壁に押し付けられた彼女の肩が、小刻みに震えている。彼女の身体から絶え間なく揮発していたシトラスフローラルの香水の匂いが、限界を迎えたようにその勢いを失い始めていた。
代わって俺の鼻腔に届いたのは、強い香料の奥底に隠されていた、ひどく等身大で不器用な少女の匂いだった。他人を蹴落としたり、マウントを取ったりするための陰湿な悪意は、そこには一滴も含まれていない。ただ、極度に空気を読みすぎる自分が傷つくのが怖くて、必死に強がっていただけの、透明で純粋な匂い。
(……これ以上、こんな不快な香水を撒き散らす必要はどこにもない)
俺は冷たいミントの息を吐きながら、完全に退路を断たれ、身をすくませている彼女を見下ろした。他人がどれほど重い鎧を着込んでいようが、本来なら俺の知ったことではない。だが、彼女のその過剰な気遣いから生じた不快な香水と冷や汗の匂いが、俺のパーソナルスペースを汚染し続けるのを見過ごす気はなかった。
「……もう、限界なんだろう」
俺が静かに告げると、柚木はビクッと肩を跳ねさせ、ゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。必死に保とうとしていた「ノリの良い同級生」の輪郭が、ボロボロと崩れ落ちていく。
「こんな分厚い鎧を着込んで無理をして強烈な香水を振りまき続ければ、やがてお前自身の息が詰まるだけだ。そして何より、その不器用な嘘の匂いは、俺の鼻にはひどく不快なノイズでしかない」
「か、神崎……」
「言葉や態度でどれだけ取り繕おうと、お前が限界まで空気を読んで怯えていることは、身体から発せられる匂いの痕跡がすべて証明している。俺の前でまで、その透明な嘘を通そうとするのはやめておけ」
俺はズボンのポケットから手を抜き、彼女を閉じ込めていた見えない壁を壊すように、最後の一撃となる言葉を、あえて少しだけ意地悪に、だが明確な事実として突きつけた。
「――無理して香水なんてつけるなよ。柚木が一番空気読んで疲れてるの、匂いで全部バレてるぞ」
その言葉が落ちた瞬間。柚木玲奈という少女が必死に纏い続けていた分厚い香水の鎧が、留め金を失い、完全に砕け散る音が聞こえた気がした。




