第22話 葉桜の夕暮れと、強がりの素顔 3
「トラブルはすべて解決したはずなのに、お前の体温は不自然な高さを維持している。そして、その強い香料の匂いを突き抜けて、俺の鼻にはお前の『限界近い疲労と過剰な気遣いによる冷や汗』の匂いが届いているんだよ。……いったい何にすり減っている?」
夕日が差し込む渡り廊下の中央。逃げ道を完全に塞ぐように立ち塞がった俺を見上げ、柚木玲奈は息を呑んで硬直した。
自分のひた隠しにしてきた内面をピンポイントで言い当てられ、彼女の心拍数が跳ね上がるのが匂いの揺らぎからわかる。シトラスフローラルの香水の奥から、明確な『動揺』と『焦燥』の成分がダダ漏れになっていた。
だが、彼女は、極度に空気を読み、自分を守るために派手な立ち回りを演じ続けてきた少女だ。そう簡単に、自ら着込んだ重い鎧を脱ぎ捨てることはできない。
柚木は小さく、しかし鋭く息を吸い込んだ。そして次の瞬間、彼女の顔に浮かんでいた素の怯えは、まるでスイッチを切り替えたかのように消え去った。強張っていた顔の筋肉が緩み、口角が上がり、いつもの教室で見せている「ノリの良い同級生」の完璧な仮面が、再び分厚く貼り付いた。
「なーに言ってんのさ、神崎。疲労とか冷や汗とか、全然意味わかんないし」
柚木はわざとらしく明るい笑い声を上げ、ひらひらと片手を振ってみせた。表面上の態度は、星川莉愛たちと教室で話している時と何一つ変わらない。
「てか、あたしがすり減ってるように見えるとか、どんだけ目悪いわけ? 莉愛のリップも見つかってマジでハッピーだし、これからみんなでカラオケ行って超発散してくる予定なんだけど」
「……」
俺は何も答えず、ただ無表情のまま彼女を見下ろした。言葉の濁流で俺の指摘を強引に押し流そうとする柚木だが、その饒舌さこそが、彼女の余裕のなさを雄弁に物語っていた。体温は下がるどころか、俺の冷ややかな沈黙を振り切ろうとする必死さでさらに上昇している。
俺が黙ったまま退路を開けようとしないのを見て、柚木はついに、コミュニケーションの主導権を強引に奪うための最後の防衛手段に打って出た。
「てかさー」
彼女は一歩前に踏み出し、逆に俺の方へと距離を詰めてきた。西日が二人の影を長く伸ばし、渡り廊下の床に色濃く落とす。距離が縮まったことで、彼女のパーソナルスペースから放たれるシトラスフローラルの香料が、物理的な圧力を持って俺の鼻腔を殴りつけてくる。だが、俺は顔をしかめることもなく、ただ彼女の瞳を見据え続けた。彼女は首をわずかに傾げ、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
「なに神崎? もしかしてあたしのこと、心配してくれてるわけ?」
「……は?」
「昨日ちょっと相談に乗ってもらったくらいで、そんな放課後に待ち伏せとかされちゃうと、あたしも困っちゃうっていうかー」
彼女は赤いリップを塗った唇に人差し指を当て、いたずらっぽく笑ってみせた。
「もしかして、あたしに気があるの?」
それは、思春期の男女特有の「恋愛のノリ」を使って相手を茶化し、真面目な追及を逸らすための、常套手段だった。
恋愛や好意といった生々しい感情をちらつかせることで、相手をドギマギさせ、ペースを乱す。遠山太陽のような単純な男子高校生であれば、この至近距離で派手で可愛い女子からこんな言葉を投げかけられれば、たちまち顔を赤くして後ずさったことだろう。そして「ち、ちげーよ! バーカ!」とでも言い返し、そのまま有耶無耶になって終わるはずだ。
だが、彼女は相手を間違えていた。
俺の嗅覚は、人間の本音と建前を、明確な『匂い』として解析してしまう。俺がこの世で最も忌み嫌い、トラウマにすらなっているのは、遠山太陽が可愛い女子を見るたびに隠すことなく全力で放出するような「生々しい好意や下心の匂い」だ。もし今の柚木から、一ミリでもそういった恋愛感情の匂いが放たれていれば、俺は生理的嫌悪から吐き気を催し、すぐにこの場から逃げ出していただろう。
しかし、俺の鼻腔をくすぐっている柚木の匂いには、そんな『生々しい好意』や『下心』の成分は、ただの一滴も含まれていなかった。
あるのはただ、「頼むからこれ以上踏み込まないでくれ」という切実な哀願と、自分の内面を暴かれることへの極限の怯え。そして、必死に自分を大きく見せようとする、不器用で痛切な『強がり』の匂いだけだった。
「……なるほど。そういう手で逃げる気か」
俺は小さく鼻を鳴らし、見え透いた虚勢を張る柚木を冷たく見下ろした。
「な、なにが? あたしは別に逃げる気なんて……」
「お前は本当に、空気を読むことにかけては優秀だな。相手が一番反応しづらい球を投げて、有耶無耶に会話を終わらせようとする。今までもそうやって、面倒な核心に触れそうになったら、軽いノリで誤魔化して切り抜けてきたんだろう」
俺の淡々とした指摘に、柚木の顔に貼り付いていた笑顔が、ピキリと音を立ててひび割れた。
「ち、違うし! あたしは素で言ってるだけで……!」
「素で言っている人間が、どうしてそんなに冷や汗をかいている」
俺は半歩だけ前へ進み、彼女の逃げ場を物理的にも塞いだ。夕日に照らされた渡り廊下に、再び重苦しい沈黙が降りてくる。春の生ぬるい風が、彼女の纏う分厚い香水の匂いを俺の元へと運んできた。
「お前のその強がりは、教室の連中のように他人を蹴落としたり、陰湿なマウントを取るための悪意ある嘘じゃない。ただ自分を守るための、ひどく不器用で透明な嘘だ」
「……っ」
「事件は解決したのに、お前は星川莉愛のペースに合わせて全方位の空気を読み続け、教室で自分の立ち位置を維持するための耐久戦をまだ続けている。だからその分厚い香水の鎧を脱げないんだろう」
図星を突かれ、柚木は無意識のうちに自分の両腕を抱え込んだ。
「だが、そんな鎧を着込んで無理をして強烈な香水を振りまき続ければ、やがて俺のパーソナルスペースまで完全に汚染されることになる。俺は、雅先輩が提供してくれる落ち着いた和の香りと、澄が外の汚れを徹底的に排除してくれるあの静謐な空間に、お前のその息苦しいノイズが持ち込まれるのを見過ごす気はない」
俺は制服のズボンのポケットに手を入れ、冷たいプラスチックケースの感触を指先でなぞった。
他人がどんなにすり減っていようが俺の知ったことではない。だが、彼女の放つ不快なノイズが俺の平穏を脅かすのなら、話は別だ。その根源的な恐怖を取り除き、彼女をノイズの発生源から引きずり下ろすしかない。俺自身の放課後を守るために。
「か、神崎……あんた、ほんと何言って……」
柚木は震える声で強弁しようとするが、俺の言葉によって完全に退路を断たれ、その瞳には明らかな動揺が浮かんでいた。香水の強い匂いの下で、彼女の脈拍が限界まで跳ね上がっているのがわかる。
このまま言葉で事実を突きつけても、彼女は絶対に認めず、この分厚い香水の鎧を着たまま強がり続けるだろう。ならば、その強固な鎧を、俺のやり方で完全に剥ぎ取るしかない。
俺はポケットの中で、ミントタブレットのケースの蓋に静かに親指をかけた。この不器用で哀切な嘘を完璧に暴き、彼女を武装解除させるための、最後の準備だった。




