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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第21話 葉桜の夕暮れと、強がりの素顔 2

 四月も終わりに近づき、春の陽気は日を追うごとにその熱を増してきている。帰りのホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り響くと、一日分の授業と人間関係の摩擦を乗り越えた生徒たちの解放感が、二年三組の教室にどっと溢れ出した。少し動くだけで汗ばむような気温と、三十人以上の生徒が放つ熱気が入り混じり、教室の空気はひどく淀んでいる。


「莉愛、今日このあと駅前のカラオケ行かない? リップ見つかった記念ってことで!」


「行く行くー! マジで昨日から最悪な気分だったから、超歌って発散したーい!」


 教室の中央では、星川莉愛と柚木玲奈を中心に、数人の女子グループがさっそく放課後の予定を立てて盛り上がっていた。星川が身振り手振りを交えて笑うたび、甘ったるいバニラとココナッツの匂いが、今日も教室の空気を我が物顔で支配していく。だが、昨日のような不機嫌の成分は一切含まれておらず、そこにあるのは自分の欲求に従うだけの純粋な歓喜だった。


「じゃあ、うちら先に行って部屋取っとくね! 玲奈、あとで合流して!」


「りょーかい! あたし、日直の仕事ちょっと残ってるから、終わったらすぐ行く!」


 星川たちが騒々しく教室を出ていくのを見送り、柚木は一人、黒板の前に残ってクリーナーを手に取った。その瞬間、彼女の背中からピンと張っていた糸が切れたように、目に見えない重い疲労の気配がどっとあふれ出した。


 窓際の後ろから二番目の席で、俺は鞄を手に取ったまま、その様子を静かに観察していた。柚木の体からは、相変わらず強い柑橘系と花の甘さが混ざった香水が揮発している。そしてその香料のベールを突き破って、周囲への過剰な気配りによって生じた『冷や汗と極度のプレッシャー』の匂いが、未だにじわりと滲み出続けていた。


 リップ紛失事件という表面上のトラブルが片付いても、星川莉愛という生粋のギャルに合わせて全方位の空気を読み続ける限り、彼女のストレスが消えることはないのだ。教室で自分の立ち位置を維持するための、終わらない人間関係のメンテナンス。その根本的な恐怖がある限り、彼女が自分を守るための『香水の鎧』を脱ぐことは決してできない。


(……このままでは、非常にまずいな)


 俺は小さく息を吐き出した。他人がどれほど重い鎧を着て神経をすり減らしていようが、俺の知ったことではない。だが、彼女が限界を迎えて昨日と同じように作法室へ逃げ込んできた場合、話は別だ。あの強烈な香水と冷や汗が混ざり合った不快なノイズが、再び俺の聖域に持ち込まれることになる。雅先輩の焚く落ち着いた和の香りと、澄が外の汚れを徹底的に排除してくれる静謐な空間。それを、他人の不器用な人間関係のノイズによって頻繁に汚染されるのだけは、絶対に避けなければならなかった。


 俺は自分の平穏な放課後を守るためだけに、ひどく面倒な決断を下した。鞄を肩に掛け、日直の仕事で黒板を消している柚木を残して、俺は先に教室を出た。


 本棟の喧騒を抜け、旧校舎へと続く渡り廊下へと向かう。旧校舎には香道部を含め、一部の文化部しか残っていないため、放課後になっても人通りは極端に少ない。時折、美術部や文芸部の生徒らしき人影がまばらに通り過ぎるだけで、本棟の息が詰まるような情報の濁流とは無縁の場所だった。


 俺は渡り廊下の陰に身を潜め、壁に背を預けた。西日に染まり始めた空から、少しだけ温度の下がった春の風が吹き込んでくる。シャツの襟元から漂う澄の柔軟剤の香りで呼吸を整えながら、待つこと十数分。やがて、本棟の方からパタパタと少し急ぎ足の足音が近づいてきた。


 同時に、風に乗って強烈な香水の匂いと、その奥に隠された重苦しい疲労の気配が俺の鼻腔を叩く。柚木玲奈だ。カラオケに向かうと言っていたが、その前にやはり、一度作法室へ立ち寄るつもりだったらしい。


 俺は壁から背中を離し、夕日が差し込む渡り廊下の中央へと静かに歩み出た。


「柚木」


 俺が低く名前を呼ぶと、足早に歩いていた柚木は「ひゃっ!?」と変な声を上げて肩を跳ねさせた。西日に照らされた彼女の顔には、一瞬だけ素の小心者な部分――突然声をかけられたことへの純粋な驚きと怯え――が浮かび上がったが、俺の顔を認識した瞬間、すぐに分厚い仮面を被り直した。


「な、なんだ、神崎じゃん! 急に出てこないでよ、マジでビビったし!」


「……お前が勝手に驚いただけだ。カラオケに行くと言っていなかったか」


「あー、うん。でもその前に、ちょっとだけ作法室寄ってから行こうかなって。昨日の今日だし、雅先輩たちにもちゃんとお礼言っときたいしさ」


 柚木は片手をひらひらと振りながら、ノリの良いギャル語で明るく答えた。表面上の態度は、教室で星川たちに見せているものと全く変わらない。だが、俺の嗅覚は、彼女の言葉の裏にある決定的な矛盾を、すでに丸裸にしていた。


 彼女の体温は、俺に声をかけられた瞬間から不自然に急上昇し、纏っている香水が激しく揮発している。俺への本能的な警戒から生じた匂いだが、それ以上に深刻なのは、その香料の奥からダダ漏れになっている『限界近い疲労と冷や汗』の匂いだ。雅先輩たちにお礼を言うため、などというのは完全に建前だ。彼女は、星川たちとの息が詰まるようなカラオケに向かう前に、どうにかして深呼吸をするための「一時的な避難所」として作法室を頼ろうとしていたのだ。


「お礼なら不要だ。俺の書いた筋書き通りに動いて、リップの一件は波風立てずに片付いただろ」


「まあね! マジで神崎サマサマだよ。莉愛も超機嫌直ったし、クラスの空気もサイコーになったし!」


 柚木はにこっと笑い、自分の手柄でもないのに大袈裟にピースサインを作ってみせた。その空回ったテンションの高さと、香水の奥から立ち上る「強がり」の匂いが、俺の嗅覚をチリチリと苛立たせる。


「クラスの空気が最高になったのなら、なぜお前の匂いは昨日よりひどくなっているんだ」


「……は?」


 俺が冷たく事実を突きつけると、柚木の顔に貼り付いていた笑顔がピキリと凍りついた。


「に、匂いって……あー、あたしの香水、ちょっとキツかった? ごめんごめん、なんか今日暑かったからさー、汗かいたかもって思って、さっきトイレで足しちゃったんだよねー。やっぱつけすぎたかな」


 柚木は視線を泳がせながら、自分のブレザーの襟元をパタパタと煽る仕草をした。それは、本質から目を逸らすための、ひどく不器用で透明な言い訳だった。


「ごまかすな。俺が言っているのは香水の量のことじゃない」


 俺は一歩、彼女の方へと歩み寄った。夕日が二人の影を長く伸ばし、渡り廊下の床に色濃く落とす。距離が縮まったことで、彼女のパーソナルスペースから放たれる「焦り」の成分が、より鮮明に俺の鼻腔へと流れ込んでくる。


「トラブルはすべて解決したはずなのに、お前の体温は不自然な高さを維持している。そして、その強い香料の匂いを突き抜けて、俺の鼻にはお前の『限界近い疲労と過剰な気遣いによる冷や汗』の匂いが届いているんだよ。……いったい何にすり減っている?」


 俺が理詰めで退路を塞ぐと、柚木は息を呑み、無意識のうちに半歩後ずさった。自分の隠し通しているはずの内面を、まるで透視でもされているかのように正確に言い当てられ、彼女の心拍数が跳ね上がるのがわかる。


 だが、彼女は極度に空気を読み、自分を守るためにギャルを演じ続けてきた少女だ。そう簡単に、自ら着込んだ重い鎧を脱ぎ捨てることはできないらしい。俺は夕日が差し込む渡り廊下の中央で、逃げようとする彼女の前に、完全に立ち塞がった。

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