第20話 葉桜の夕暮れと、強がりの素顔 1
翌日の朝。
春の陽気は日を追うごとにその強さを増し、少し動くだけで汗ばむような気温になりつつあった。地下鉄の密室地獄とアスファルトの熱気にすり減らされた俺の神経は、今朝も隣室に住む幼馴染の澄が完璧に調律してくれたシャツの襟元の匂いによって、どうにか限界の手前で繋ぎ止められていた。
引き戸を開けて二年三組の教室に入ると、真っ先に遠山太陽の熱気を含んだ体臭と、それを誤魔化そうとする安価なシトラス系制汗剤の不快な匂いが飛び込んできた。
「お、神崎おはよう! 今日も気怠そうだな!」
「……お前が朝からうるさすぎるんだ」
背中を叩いてくる遠山を適当にあしらい、俺は窓際の後ろから二番目の自分の席へと向かう。相変わらず彼の放つ匂いは暴力的にうるさいが、そこには「自分を良く見せようとする嘘」の成分が含まれていないため、適当に聞き流す分には問題ない。
鞄を下ろして教室の中央に目をやると、昨日まで張り詰めていたヒリヒリとした空気とは打って変わって、華やいだ笑い声が響いていた。
「マジ長谷川先生神なんだけど! 廊下で拾って、職員室で預かっててくれたんだって!」
星川莉愛が、昨日大騒ぎして探していた限定のピンク色のリップを片手に、周囲の女子たちに興奮気味に語っている。彼女が身振り手振りを交えて話すたび、強烈なバニラの香水とココナッツのヘアオイルの匂いが教室中に撒き散らされる。だが、そこに不機嫌や怒りの成分は一切含まれておらず、純粋な歓喜だけが弾けていた。
「よかったねー、莉愛! 限定のやつだし、見つかってほんと安心したー!」
その隣で、柚木玲奈が手を叩いて同調している。少し視線を動かすと、星川の隣の席に座る水野栞の姿があった。彼女は静かに文庫本を読んでいるが、その首筋から昨日漂っていたような極度の萎縮やパニックの匂いは完全に消え去っている。かすかな無香料のハンドクリームの匂いだけが、穏やかにそこにあった。
窃盗犯扱いされる恐怖から救われた水野。お気に入りのリップが無事に戻ってきて機嫌を直した星川。そして、グループの亀裂を防ぎ、クラスの平和を守り抜いた柚木。
俺の描いた筋書き通りに動き、面倒な人間関係のすれ違いは、誰一人傷つくことなく一番波風の立たない形で見事に処理されたのだ。
(……これで、厄介なノイズから解放される)
俺は気怠げに頬杖をつき、小さく息を吐いた。俺の日常を脅かしていた火種は消えた。これ以上、他人のドロドロとした感情に付き合わされる筋合いはない。そう思い、視線を窓の外の桜の葉へと移そうとした。
だが。俺の過敏な嗅覚は、教室の中央から絶え間なく放たれている『不自然な匂いの揺らぎ』を、無視しきれずにいた。
俺はズボンのポケットからプラスチックケースを取り出し、ミントタブレットを一粒口に放り込んだ。奥歯で一気に噛み砕くと、強烈なペパーミントの清涼感が鼻腔を突き抜ける。遠山の制汗剤や星川のバニラの匂いを脳内でミュートし、特定の匂いのレイヤーだけを抽出する。
(……なぜだ)
俺はわずかに眉をひそめた。柚木玲奈の体から放たれているシトラスフローラルの香水の匂いが、昨日俺が作法室で嗅いだ時と全く同じ強さで、彼女の全身を分厚く覆い隠していたのだ。事件は完全に解決したはずだ。グループ崩壊という最悪の危機は去り、彼女は昨日作法室から出ていく際、心からの安堵の匂いを放っていた。
それなのに、今この瞬間の彼女の体温は依然として不自然な高さを維持しており、強い香料の匂いを突き抜けて、「過剰な気遣いによる冷や汗」の匂いがじわりと滲み出続けていた。
「でもさー、昨日うちのリップのこと疑っちゃった子たちには、ほんと申し訳なかったよね。ちょっと謝ってくるわ」
星川はリップをポーチにしまうと、昨日疑いの目を向けてしまった別のグループの女子たちの席へと歩いていった。柚木が慌ててその後を追う。
「ごめんねー! リップ、落とし物で届いてたわ。うちの勘違いだった、マジごめん!」
星川は悪びれる様子もなく、明るく言い放った。声をかけられた女子たちは、表面上は「あ、そうだったんだ。見つかってよかったねー」と笑って返している。だが、俺の鼻は彼女たちの体温がわずかに下がり、「なんだよそれ、人にあんだけキツく言っといて」という反感と苛立ちの匂いが生じたのを見逃さなかった。
当然、三百六十度の空気を読んでいる柚木も、そのわずかな空気の淀みを瞬時に察知したのだろう。彼女は弾かれたように星川の隣へと駆け寄り、女子たちに向かって大袈裟に手を合わせて頭を下げた。
「ほんとごめんね! 莉愛、限定のやつだったからめっちゃ焦っててパニクっちゃってさ。嫌な思いさせちゃってごめん! 今度お詫びに、購買の新作パン奢るから許してー!」
柚木がノリの良いギャル語で必死にフォローを入れると、女子たちから漂っていた苛立ちの匂いがスッと霧散し、「えー、マジで? じゃあメロンパンね!」と和やかな空気が戻った。
「もー、玲奈が大袈裟なんだってば。でもメロンパンならうちも食べるー」
「莉愛は奢らないから! もう、ほんとお騒がせしました!」
笑い合いながら自分の席に戻ってくる星川と柚木。だが、席に着いた瞬間、柚木は笑顔を貼り付けたまま、誰にも気づかれないように小さく、ひどく重い息を吐き出した。
その一連のやり取りを観察し、俺は理解した。
柚木が神経をすり減らしていたのは、今回の「リップ紛失事件」という単発のトラブルのせいではなかったのだ。
星川莉愛という、悪気なく自分のペースで周囲を巻き込む生粋のギャル。彼女の行動一つ一つが、クラスのあちこちに小さな火種を生み出していく。その火種が炎になってクラスの空気を焼き尽くす前に、柚木が先回りして必死に消火活動を行っているのだ。彼女の気分を害さないように同調し、周囲との摩擦が起きないように常に全方位の空気を読み続ける。
その終わりのない人間関係のメンテナンス作業そのものが、繊細な柚木にとっては極限のプレッシャーなのだ。
この息苦しい教室で、自分の立ち位置と平和を維持し続けるための終わらない耐久戦。その根源的な恐怖とストレスがある限り、柚木玲奈が自分を守るための『香水の鎧』を脱ぐことは決してできない。事件を一つ解決したところで、彼女の魂から発せられている見えないSOSの匂いが消えることはないのだ。
(……救いようがないな)
俺は誰にも聞こえない声で低く息を吐き、机に突っ伏した。他人がどんな重い鎧を着ていようが、どんなにすり減っていようが、俺の知ったことではない。これ以上深く踏み込めば、俺自身の精神が面倒なノイズに巻き込まれて疲弊するだけだ。彼女の過剰な気遣いも、強烈な香水も、俺にとってはただの不快な情報でしかない。
だが、俺の鼻は、彼女の首筋から絶え間なく滲み出るその不器用で痛切な冷や汗の匂いを、無視しきれずにいた。
このまま彼女が無理をして強烈な香水を振りまき続ければ、いずれ俺のパーソナルスペースまで不快な匂いで完全に汚染される。昨日のように作法室にまであんな匂いを持ち込まれれば、俺が静かに読書をする時間すら奪われてしまう。それは非常に腹立たしい、俺自身の死活問題だった。
予冷のチャイムが鳴り、騒がしかった教室の生徒たちがパラパラと自分の席に戻り始める。俺はシャツの襟元を引き寄せて澄の柔軟剤の香りを深く吸い込みながら、この根本的なノイズを発生源からどう処理すべきか、冷たく澄み渡った頭で静かに思考を巡らせ始めた。




