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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第19話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 10

 作法室の古い引き戸が、少し乱暴な音を立てて閉められた。


「じゃあな、雅ちゃん、澄ちゃん! 神崎も、柚木が来たら上手いこと星川に渡しといてやるよ!」


 香道部の名ばかりの顧問である長谷川志乃先生は、三つ目のうぐいす餅を綺麗に平らげると、抱えていた小テストの束を小脇に抱え直し、嵐のような足音とともに本棟へと去っていった。遠ざかる足音が完全に聞こえなくなると、作法室には再び、外界から隔絶された完全な静寂が舞い戻ってきた。


 長谷川先生が放っていた、チョークの粉っぽさとブラックコーヒーのかすかな生活臭。それは決して不快な匂いではないが、この洗練された和の空間においては、わずかなノイズであることに変わりはない。俺が小さく息を吐いたのとほぼ同時に、隣に座っていた澄が音もなく立ち上がった。


「慧くん、少しだけ風を通すね」


 澄は流れるような動作で小窓をわずかに開け、春の生ぬるい風を部屋の対角線へと流す。そして、長谷川先生が使っていた湯呑みと小皿を素早くお盆に回収し、先生が座っていた周辺の畳を無香料の除菌シートでサッと拭き清めた。その一切の無駄がない徹底した手際のおかげで、作法室の空気は瞬時に浄化され、雅先輩が香炉で焚いている白檀と龍脳の、上品で涼しげな和の香りが再び部屋の隅々まで行き渡っていく。


「ふふ、長谷川先生が来ると、本当に嵐のようね。でも、これで準備はすべて整ったのかしら」


 雅先輩は手元の香炉の灰を優雅な手つきで整えながら、面白そうに目を細めて俺を見た。


「ええ。盤上の駒はすべて配置しました。あとは、柚木が俺の書いた筋書き通りに動くだけです」


 俺は定位置である畳に深く腰を下ろし直し、読みかけだった文庫本を開いた。ここから先、柚木が図書室で水野にどう声をかけるか、長谷川先生が教室で星川にどうリップを渡すか。そんな他人の感情の機微が絡む面倒な過程に、俺がこれ以上関心を払う必要はない。最も波風が立たない合理的な手順はすでに提示したのだから、あとは当人たちが勝手に収めるだろう。


 作法室の小窓から入り込む風が、時折、文庫本のページを静かにめくる。俺は活字の羅列を追いながら、時が過ぎるのをただ気怠げに待った。


 やがて、三十分ほどが経過した頃だろうか。開け放たれた小窓の向こう、遠く離れた本棟の教室の方角から、微かな音の揺らぎが風に乗って運ばれてきた。


『マジで!? やば、長谷川先生マジ神!』


 距離があるため言葉の輪郭は曖昧だが、鼓膜を劈くような歓喜の悲鳴は、間違いなく星川莉愛のものだ。同時に、俺の鼻は春の風に混じって届いた、微量だが圧倒的に強烈な「バニラの香水とココナッツ」の匂いを受信した。


 そこに不機嫌の成分は一ミリもなく、純粋な喜びの熱量だけが弾け飛んでいるのがわかる。つまり、星川は長谷川先生の嘘のクッションによって落とし物が見つかったと完全に信じ込み、水野は誰にも疑われることなく窃盗犯の汚名から救われたということだ。そして柚木は、自分のグループの崩壊を防ぎ、クラスの平和を維持するという最大の目的を果たした。


「……終わったようだな」


 俺は文庫本を閉じ、小さく息を吐き出した。誰も傷つかず、誰も悪者にならない。そして何より、これによって俺の周囲をうろついていた「柚木の過剰な焦りの匂い」や「星川の不機嫌なバニラの悪臭」という厄介なノイズの発生源が、ようやく黙ってくれたのだ。


「神崎くんは、本当に綺麗に糸を引くのね」


 雅先輩が、袖口で口元を隠しながらくすくすと笑った。


「まるで、盤上のチェスでも動かすように、人の立ち位置をコントロールしてしまうのだから」


「買い被りですよ、先輩。俺はただ、一番波風が立たず、かつ俺自身が動かなくて済む解決策を提示しただけです。他人のドロドロした感情に巻き込まれて、これ以上嗅覚をすり減らすのはごめんですからね」


 俺が無愛想に返すと、先輩は「そういうことにしておいてあげるわ」と優しく微笑んだ。


「慧くん、お疲れ様。頭を使って、少し疲れちゃったでしょ」


 隣から、澄の淀みのない声がした。見れば、彼女は俺の空になった湯呑みをすでにお盆に乗せ、新しいお茶を淹れてくれているところだった。


「これで、明日からは教室も少し静かになるね。慧くんがゆっくりできるといいな」


 差し出された湯呑みを受け取ると、淹れたての新茶特有の、青々とした清々しい香りが鼻をくすぐった。舌触りの滑らかな液体が喉を通り抜け、冷たく張り詰めていた思考をじんわりと解きほぐしていく。


「ああ。……澄の言う通りだ」


 事件は解決した。柚木が作法室に持ち込んだ、強烈な香水と冷や汗の入り混じった不快なノイズの塊は、俺の提示した筋書きによって完全に無害化されたのだ。明日からの教室には、少なくとも星川の理不尽な怒声が響き渡ることはないだろう。


「……やはり、ここが一番息がしやすい」


 俺は誰に聞こえるでもなく小さく呟き、湯呑みを両手で優しく包み込んだ。外界の悪臭から完全に遮断され、雅先輩の提供する上質な和の香りと、澄が俺のためだけに用意してくれる完璧な調律に満ちたこの空間。俺は、一切の嘘が存在しないこの究極の聖域の心地よさに、再び深く、無防備なまでに身を委ねていくのだった。

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