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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第18話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 9

「慧くん、お待たせ。少し落ち着くように、玉露を少しぬるめに淹れてみたよ」


 作法室の静かな空気を縫うように、澄が俺の前に新しい湯呑みをそっと置いた。彼女の顔には、極限まで張り詰めている柚木玲奈の重苦しい空気を少しでも和らげようとする、純粋な気遣いが浮かんでいる。俺は湯呑みを手に取り、完璧に調律されたまろやかなお茶を一口飲んだ。優しく甘みのある香りが、思考の輪郭を冷たく、そして明確に形作っていく。


「柚木」


 俺が静かに名前を呼ぶと、両手で顔を覆っていた柚木がビクッと肩を揺らし、すがるような目で俺を見つめ返した。


「水野を追い詰めたくない。星川も納得させたい。そして、自分のグループもクラスの空気も壊したくない。……そういうことだな」


「……うん。でも、そんな都合のいい方法なんて……」


「ある。俺の言う通りに動けばな」


 俺は湯呑みを畳に置き、ミントタブレットのケースを指先で弄びながら、頭の中で組み上げた筋書きを淡々と提示し始めた。


「まず、大前提として俺はここから一歩も動かない。直接行って説明するような面倒なことはしないから、お前自身が動くんだ」


「あたしが……?」


「そうだ。まずは、お前が一人で水野のところへ行け。放課後なら、図書委員の仕事で図書室にいるはずだろ。そして、一対一で話しかけるんだ」


 柚木は戸惑ったように目を瞬かせた。


「話しかけるって、なんて……? 『リップ盗んだの見てたよ』なんて言えないよ」


「だから、お前は人の話を全く聞いていないな。水野の行動の起点は親切心だと言ったはずだ」


 俺は呆れたように息を吐き、彼女の目を見据えた。


「お前の方から先に、水野の善意を肯定してやるんだよ。『莉愛が落としたリップを、拾ってポーチにしまってくれようとしたんだよね。あの時、莉愛が急に怒鳴っちゃってごめん。怖かったよね』と、お前が星川の代わりに謝罪と感謝を伝えるんだ」


「先に……謝る?」


「ああ。水野がパニックになって隠してしまったのは、『盗んだと誤解されるのが怖い』からだ。ならば、その誤解を最初から解いてやればいい」


 俺は気怠げに頬杖をつき、言葉を続けた。


「人間の過剰な防衛本能を解除するには、まず相手の善意を肯定し、安全な逃げ道を用意してやることだ。そうすれば、水野は『自分は泥棒扱いされていない』と安心し、手元に持て余しているリップを差し出す理由ができる」


 柚木の目が見開かれた。シトラスフローラルの香水の下で、彼女の脳内が猛スピードで俺の筋書きを処理していくのが、匂いの揺らぎから手に取るようにわかる。


「そっか……。それなら、栞ちゃんも傷つかずに済むし、あたしも素直に謝れる……」


 柚木の顔に、かすかな希望の光が差した。だが、すぐにまた不安げな表情へと逆戻りする。


「でもさ、それを受け取った後、莉愛にどうやって返すの? 『栞ちゃんが持ってた』なんてバカ正直に言ったら、莉愛は『やっぱりあいつが隠してたってことじゃん!』ってまた騒ぐかもしれないよ」


 柚木の懸念はもっともだった。星川莉愛は悪気こそないが、複雑な事情や配慮をすっ飛ばして、思ったことをストレートに感情のまま爆発させる傾向がある。水野が持っていたという事実を知れば、いくら柚木が「親切心だった」と説明しても、再び波風を立てる可能性が高い。


 水野からリップを回収した後の、もう一つのクッション。俺がその「最も波風の立たない着地点」をどう構築するか考えていた、まさにその時だった。


――ガラッ!!


 作法室の古い引き戸が、乱暴な音を立てて勢いよく開け放たれた。


「あー、疲れた……! 雅ちゃん、今日のお菓子なにー!?」


 気怠げな声と共に足音を立てて入ってきたのは、香道部の名ばかりの顧問である長谷川志乃先生だった。手には採点途中の小テストらしき束を抱え、作法室の中央へとずかずかと歩み寄ってくる。


「ふふ、お待ちしておりましたよ、長谷川先生。今日は春らしく、老舗のうぐいす餅をご用意しております」


 雅先輩が優雅な手つきで重箱の蓋を開けると、長谷川先生は目を輝かせた。


「マジで!? やった、今日一日職員室で耐えた甲斐があったわ……」


 長谷川先生は俺の隣にどっかりと座り込み、さっそくうぐいす餅に手を伸ばした。彼女の体からは、かすかなチョークの粉っぽさと、激務による疲労、そして目の前の和菓子に対する純粋な食欲の匂いだけが漂ってくる。


「先生、お疲れ様です。お茶が入りましたよ」


 水屋から戻ってきた澄が、完璧な笑顔でお盆から湯呑みを差し出す。


「おお、澄ちゃんサンキュ! ……あつっ!?」


 湯呑みに口をつけた長谷川先生は、ビクッと肩を跳ねさせて湯呑みを置いた。


「ごめんなさい。先生、とてもお疲れのようでしたから、少し熱めに淹れておきました」


 澄は申し訳なさそうに小首を傾げる。疲労しきった大人には、熱いお茶でシャキッと目を覚まさせるくらいが丁度いいと判断したのだろう。長谷川先生も「そっか、ありがとな」と疑う様子もなく、ふうふうと息を吹きかけながら少しずつお茶をすすり始めている。


 俺は、無防備にうぐいす餅を頬張る長谷川先生を見て、小さく鼻を鳴らした。パズルの最後のピースが、これ以上ないほど完璧なタイミングで手の中に転がり込んできた。


「長谷川先生」


「んん? なんだ神崎。お前も食うか?」


「いえ、結構です。それより、先日の山田先生の進路プリントの一件……俺に貸しがありましたよね」


 俺が静かに問いかけると、口の周りにきな粉をつけた長谷川先生は「ん?」と瞬きをした。


「ああ、お前が匂いだけで鈴木先生の勘違いを当てたやつな。おかげで職員室のピリピリが収まって助かったけど、なんだよ急に」


「星川莉愛が、限定のリップをなくして騒いでいるの、知っていますか」


「ああ、朝からうるさかったからな。それがどうかしたか?」


 俺は気怠げな姿勢のまま、淡々と『手回し』の指示を出した。


「後で柚木が、先生のところにそのリップをこっそり持っていきます。それを、先生が放課後に廊下で拾って預かっていたことにして、星川に渡してやってくれませんか」


「はあ?」


 長谷川先生は間の抜けた声を出し、俺と、隣で呆然としている柚木を交互に見た。


「なんでわたしがそんな嘘を……もぐもぐ……まあ、職員室の面倒事をお前が片付けてくれた借り返しだと思えば、それくらい安いもんか。どうせ落とし物の処理なんて、わたしの仕事の範疇だしな」


 長谷川先生は深く追及することなく、二つ目のうぐいす餅に手を伸ばしながらあっさりと承諾した。これだから、この大人は話が早くて助かる。


「これで外堀は埋まったな、柚木」


 俺は視線を戻し、呆気に取られている柚木を見据えた。


「水野からリップを受け取ったら、先生のところへ持っていけ。その後で、星川には『長谷川先生が廊下で拾って預かってくれてたんだって』と言って先生から直接渡してもらえばいい。そうすれば、水野は誰にも疑われずに救われ、星川も落とし物が見つかって納得する。お前のグループも、クラスの空気も壊れない。……これで満足か」


 作法室に、深い静寂が落ちた。雅先輩は面白そうに目を細め、澄は静かに俺の横顔を見つめている。


 柚木は、信じられないものを見るような目で俺を見つめていた。自分ではどうしようもなかった複雑な人間関係の絡まりと、善意からのすれ違い。それを、この気怠げな男子生徒は、作法室の畳から一歩も動かずに、わずかな言葉の配置と大人の手回しだけで、完璧に解きほぐしてしまったのだ。


 柚木の体から放たれていた、極限の冷や汗と焦りの匂いが、嘘のようにスッと消え去った。代わりに立ち上ってきたのは、香水の匂いすらも押し除けるような、胸の奥底から湧き上がる『心からの深い安堵と感謝』の匂いだった。それは、教室で彼女が振りまいているような薄っぺらい建前の匂いとは全く違う、純度が高く、そして不器用な本音の匂いだ。


「……神崎」


 柚木は両手を膝の上で固く握りしめ、震える声で紡いだ。


「あんた、マジですごいよ。……ほんとに、ありがとう」


「用が済んだならさっさと行け。匂いがうるさい。水野もまだ不安なまま、図書室で怯えているはずだろ」


 俺がぶっきらぼうに追い払うと、柚木は弾かれたように立ち上がった。


「うん! 今すぐ行ってくる!」


 彼女の顔には、もう「ノリの良いギャル」の仮面は貼り付いていなかった。あるのは、一人のクラスメイトを傷つけてしまったことを真摯に謝ろうとする、本来の彼女の素直な表情だけだ。


 柚木は雅先輩と澄にも「お邪魔しました!」と深く頭を下げると、勢いよく引き戸を開け、旧校舎の廊下へと駆け出していった。パタパタという足音が、本棟の方へと遠ざかっていく。


「ふふ、神崎くんもずいぶんと粋な手回しをするのね。長谷川先生まで巻き込んでしまうなんて」


「買い被りですよ。俺はただ、一番波風が立たない合理的な配置をしただけです。他人の感情のドロドロに巻き込まれるのはごめんですからね」


 俺が冷めたお茶を飲み干すと、澄が「お疲れ様、慧くん」と完璧な笑顔で、俺の使っていた湯呑みを下げてくれた。長谷川先生は「なんの話か全然わかんないけど、雅ちゃん、このお菓子もう一個いい?」と呑気に重箱を覗き込んでいる。


 過酷な外界から持ち込まれた不快なノイズの塊は、これで完全に処理された。俺はミントタブレットのケースをポケットの奥深くへとしまい込み、一切の嘘が存在しないこの聖域の、平穏な時間へと再び深く身を委ねた。

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