第17話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 8
作法室の静寂の中、かすかに聞こえていた柚木玲奈の浅い呼吸音が、ふいに止まった。
「嘘って……」
柚木は畳の上のピンク色のメイクポーチを見つめたまま、絞り出すように呟いた。
「じゃあ、やっぱり栞ちゃんは莉愛のリップを盗もうとして……それを隠すために、嘘をついてるってこと?」
「お前は俺の話を聞いていたのか。盗むつもりなら、わざわざ他人のポーチのジッパーに触るというハイリスクな行動をとる理由がないと言ったはずだ」
俺はミントタブレットのケースをポケットにしまいながら、気怠げに視線を落とした。
「水野の行動の起点は、間違いなく『親切心』だ。だが、その善意が、ほんのわずかなタイミングの悪さによって『自己防衛のための嘘』へとすり替わってしまったんだよ」
「タイミングの悪さ……?」
「ああ。謎を解く鍵は、すべて今日お前自身が俺に教えてくれた証言の中にある」
俺がそう告げると、柚木は戸惑ったように目を瞬かせた。シトラスフローラルの香水の奥から、必死に記憶を手繰り寄せる焦りの匂いがかすかに立ち上ってくる。
「あたしが教えた証言……?」
「今朝の教室で、星川がリップがないと騒ぎ出した時の状況だ。もう一度、時系列に沿って正確に思い出してみろ」
俺は出されたばかりの温かいお茶に口をつけ、喉を潤してから静かに言葉を紡いだ。
「今朝、星川は教室に着いてカバンを机に置いた。そして、メイクポーチを取り出して机の上に置いた。だが、その直後にはリップがないと騒いではいなかったはずだ」
「あ……うん。ポーチを出したあと、莉愛はすぐにこっちを向いて、昨日見たテレビの話をしてきたから」
「そして、ひとしきりお前と話した後、再び自分の机に向き直って……カバンの中を漁り、『嘘、なんでないの!?』と大声を出したんだな?」
「う、うん。急に大声出して……」
「その時、隣の席の水野はどうしていた?」
俺の問いかけに、柚木はハッとしたように息を呑んだ。彼女の脳裏に、今朝のヒリヒリとした教室の光景が鮮明に蘇ったのだろう。香水の揮発速度が一瞬だけピタリと止まり、直後に、極度の緊張と嫌な予感を示す冷や汗の匂いが、じわりと滲み出してきた。
「栞ちゃんは……莉愛が急に騒ぎ出した時、ビクッて肩を揺らして、すごく青ざめてた。手は、莉愛の机の方に伸びてて……」
「そして星川は、そんな水野の態度と手の位置を見て、真っ先に彼女を疑った」
「っ……!」
柚木の両手が、膝の上で固く握りしめられる。
「お前は言ったな。『星川は思ったことをすぐ口に出すから、隣の席の大人しい子に、あんた、うちのリップ見てない? とキツめに聞いてしまった』と」
俺が容赦なく事実を突きつけると、柚木の顔から完全に血の気が引いた。彼女の体温が急激に下がり、香水の甘い匂いが、胃がねじ切れるような『強い自己嫌悪』の匂いへと激しく濁っていくのがわかった。
「想像してみろ、柚木。星川がお前の方を向いて話している間、机の上に置かれたカバンの浅いポケットから、無造作に突っ込まれていたリップが床に転がり落ちた」
俺は作法室の空間に、朝の教室の光景を思い描かせるようにゆっくりと語る。
「それに気づいた水野が床のリップを拾い上げた。大人しい彼女は、話の腰を折ってまで星川に直接声をかけるのをためらい、親切心から、机の上にあった星川のポーチにこっそりしまってあげようとした」
「あ……」
「水野がポーチのジッパーに手をかけた、まさにその瞬間だ。お前との会話を終えた星川が唐突に振り返り、リップがないと大声で騒ぎ出した。さらに、自分のポーチに触れようとしている水野に向かって、まるで泥棒扱いするようなキツイ言葉を投げかけた」
柚木は言葉を失い、ただ顔を歪めた。
「いきなり犯人扱いされるような強いトーンで詰め寄られ、しかも自分の手にはまさにそのリップが握られている。他人のポーチに手を伸ばしている最中にだ。……大人しい性格の人間ならどうなる? 完全に萎縮してパニックになるだろう」
俺は畳に手をつき、わずかに身を乗り出して結論を告げた。
「そこで『私が拾いました』と素直に差し出せば、ポーチから盗もうとしていたところを見つかったのだと誤解されかねない。最悪のタイミングだ。結果として彼女は極度の恐怖から、咄嗟に手の中のリップを隠し、言い出せなくなってしまった」
作法室に、ひどく重く、冷たい沈黙が落ちた。
「これが、リップ紛失事件の全貌だ」
俺は気怠げに頬杖をつき、視線を窓の外へ逃がした。春の生ぬるい風が、旧校舎の木々を静かに揺らしている。
「窃盗でも陰湿なイジメでもない。ただの星川のずぼらな不注意と、配慮のない言葉。そして、水野の『自分を守るための小さな嘘』が引き起こした、くだらないすれ違いだ」
対面に座る柚木は、畳の上の一点を見つめたまま、まるで石像のように動けなくなっていた。彼女から放たれる匂いは、事件の構図がわかったという安堵では決してなかった。自分のグループの軽率な行動が、親切にしようとしてくれた大人しいクラスメイトを一方的に追い詰め、恐怖させていたという事実に対する、強烈な罪悪感の匂いだ。
極度に空気を読み、少しの摩擦も起きないように三百六十度に気を遣ってクラスの平和を維持しようとしている柚木にとって、誰かが自分のグループのせいで傷ついているという状況は、自分が非難されるよりもずっとダメージが大きいのだろう。彼女の顔からは、普段被っている「ノリの良いギャル」の仮面が完全に剥がれ落ちていた。
「……あたし、なんてバカなんだろ」
柚木は両手で顔を覆い、絞り出すような声で呟いた。
「莉愛が怒り出した時、栞ちゃんの顔……すごく青ざめてて、震えてた。それなのにあたし、莉愛をなだめることばっかり考えて、栞ちゃんのこと、ちゃんと庇ってあげられなかった……! 最悪だ……あたしたちのせいで、あの子にそんな思いを……」
シトラスフローラルの香水の奥から、胸を締め付けるような後悔の念が痛いほど伝わってくる。彼女の繊細すぎる精神は、自責の念によって限界まで削り取られようとしていた。
「柚木さん、顔を上げなさいな」
重苦しい空気の中、雅先輩が穏やかで、しかし凛とした声で紡いだ。
「人間関係のボタンの掛け違いは、誰にでも起こることよ。でも、あなたは今、その間違いに気づいて、心から悔やんでいる。……あなたのその後悔には、何の嘘も混じっていないわ」
雅先輩は優しく微笑むと、小皿に乗せた美しい細工の和菓子を、すっと柚木の方へ押しやった。
「まずは甘いものでも食べて、少し落ち着きましょう。自分の非を認められる素直な子には、きっとまだ結び直すチャンスがあるはずよ」
先輩の余裕と、嘘のない本音を包み込むような優しさに触れ、柚木は「……はい」と小さく鼻をすすった。
「でも、神崎くんは本当にすごいわ。現場に行かずとも、持ち込まれた匂いと証言だけで、人の心の機微まで読み解いてしまうのだから」
「買い被りですよ。俺はただ、物理的な痕跡から推理を組み立てただけです」
俺が無愛想に返すと、隣に座っていた澄が、すっと立ち上がった。
「玲奈ちゃん、お茶がすっかり冷めちゃったね。温かいのに替えてくるから、少し待っててね」
澄の顔には、いつもと変わらない穏やかな微笑みが浮かんでいた。彼女は流れるような手つきで湯呑みを下げ、柚木が落ち着くための新しいお茶の準備を始めている。澄はただ、いつものように自然な気遣いで、落ち込んでいる柚木をもてなそうとしているだけだ。俺が外界のノイズで疲弊しないよう、常にこの作法室を綺麗に保ってくれる彼女の生まれ持った優しさに、俺はまたしても無防備に救われていた。
「俺は事実をプロファイリングしただけだ。それをどう受け止め、どう処理するかはお前の勝手だ」
俺が冷たい声で告げると、顔を覆っていた柚木が、ビクッと肩を震わせた。これ以上、他人のドロドロとした感情のノイズに関わるのはごめんだ。だが、現場にも行かず、こうして持ち込まれたパズルを最後まで解き明かしてしまった以上、この極限まで怯えきっているギャルが次にどんな行動を取るのか、その結末を見届けるくらいの義理は生じてしまったらしい。
「どうしよう……神崎、あたし、どうしたらいいの……。今さら『落とし物でした』なんて言ったら、栞ちゃんが嘘ついて隠してたのがバレて、余計にクラスの空気が……」
柚木はすがるような目で俺を見つめてきた。星川に真実を伝えれば、パニックになって隠してしまった水野が責められるかもしれない。かといって黙っていれば、水野はずっと罪悪感を抱えたままになる。どちらに転んでも、クラスの人間関係にヒビが入る。その板挟みに、彼女は完全に身動きが取れなくなっていた。
俺は、澄が新しく淹れてくれるであろう完璧な温度のお茶を待ちながら、この面倒なすれ違いを「最も波風を立てずに」終わらせるための、次なる筋書きの組み立てを静かに始めるのだった。




