第16話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 7
作法室の静寂の中、かすかに聞こえるのは、対面に座る柚木玲奈の浅く乱れた呼吸音だけだった。
「誰かが、莉愛のリップとポーチを勝手に触った……?」
柚木は両手を膝の上で固く握りしめ、畳の一点を見つめたまま顔面を蒼白にしている。極度に空気を読み、少しの摩擦も起きないよう三百六十度に気を遣ってクラスの平和を維持している彼女にとって、「クラスメイトによる窃盗」や「悪意ある隠蔽」という可能性は、自分のグループが原因でクラスに決定的な亀裂が入ることを意味する最悪のシナリオだった。
「どうしよう……もし本当に誰かが莉愛のリップを盗んでたなら、クラスの空気、完全に終わる……」
柚木は震える声で呟き、胃の痛みに耐えるように身を屈めた。極度のストレスとプレッシャーにより、彼女の首筋からじっとりと冷や汗が滲み出ている。彼女が防具として纏っているシトラスフローラルの甘い香水が、その重苦しい感情の匂いに引きずられるように、ひどく濁っていくのがわかった。
「勝手に最悪の想像をして自滅するな、柚木」
俺は空になったミントタブレットのケースをポケットにしまい、気怠げな声で彼女の思考を遮った。
「俺は『誰かが盗んだ』とは一言も言っていない。むしろ、お前の言う窃盗という仮説には、決定的に不自然な点がある」
「不自然って……だって、莉愛以外の誰かがポーチのジッパーに触ってるんでしょ? それって、カバンの中を勝手に漁ったってことじゃ……」
「仮に、その『見知らぬ第三者』の目的が、限定のリップを盗むことだったとしよう。なら、なぜわざわざ星川のポーチのジッパーに触れる必要がある?」
俺が静かに問いかけると、柚木はぽかんと口を開けた。
「もし犯人が床に落ちているリップを拾って、そのまま盗もうとしたのなら、自分の制服のポケットにでも隠して持ち去れば済む話だ。わざわざ星川のカバンに手を伸ばし、ポーチを開けようとするようなハイリスクな行動をとる理由がどこにある?」
「あっ……!」
「他人の持ち物に干渉するリスクを負ってまで、ポーチのジッパーに触れる理由があるとしたら、ただ一つだ」
俺は畳に置かれたポーチのピンク色の金具を指差した。
「『拾ったリップを、元あった場所にしまってあげようとした』からだ」
俺の言葉に、柚木の目が見開かれた。香水の濁りが一瞬だけ止まり、驚きの成分が空気に混ざる。
「しまってあげようと……? じゃあ、その人は盗もうとしたんじゃなくて……」
「ああ。純粋な善意からの親切心だ」
俺は小さく息を吐き、頭の中で整理されたロジックを順番に提示していく。
「昨日、星川はカフェでリップとレシートを一緒に無造作に突っ込んだ。それは服屋の空気に触れる場所、つまり『制服のポケット』だったはずだと言ったな」
「う、うん」
「もし制服のポケットに入れたままなら、今朝ブレザーを着た時に気づくか、家に忘れてきているはずだ。だが星川は『今日、学校に着いてカバンを開けたら無い』と騒ぎ出した」
「あっ……!」
「つまり、家に帰ってからか今朝の慌ただしい時間の中で、制服のポケットからカバンの中……おそらく外側の浅いポケットなどに、適当に移し替えたんだろう」
「あ……うん。莉愛、朝はいつもギリギリだから、とりあえずカバンにポイって適当に入れたのかも」
「そして今日、教室に着いてカバンを机に置いた。星川は朝一番に鏡を見るために、カバンの中からこのメイクポーチを取り出して机の上に置いたんだろう。その拍子に、カバンの浅いポケットに無造作に入れられていたリップが、床に転がり落ちた」
俺は作法室の空間に、朝の教室の光景を思い描かせるようにゆっくりと語る。
「それを、誰かが拾った。その人物は親切心から、星川の机の上に置かれていたこのメイクポーチにこっそりしまってあげようとした。だから、彼女の指先についていたリップの香料とハンドクリームの匂いが、ジッパーの金具にだけ付着したんだ」
そこまで一気に語り終えると、隣で静かに見守っていた澄が、絶妙なタイミングで温かい湯呑みを差し出してくれた。
「慧くん、少し喉が渇いたでしょ。どうぞ」
彼女の顔にはいつもと変わらない淀みのない微笑みが浮かんでおり、柚木がどれほど動揺していようと、彼女の関心は俺が心地よく過ごせるかどうかだけに向いている。俺はそんな彼女の徹底した綺麗好きと自然な気遣いに甘え、お茶を受け取った。過敏な嗅覚を一切刺激しない完璧な温度の液体で喉を潤すと、脳内のロジックが冷たく澄み渡っていくのを感じた。
「さて、柚木」
俺は湯呑みを畳に置き、少し姿勢を正して柚木を真っ直ぐに見据えた。
「さっき俺が言った、無香料の『薬用ハンドクリーム』を使っている人物。今日、星川の近くにいた人間の中で、心当たりはないか?」
柚木の香水の揮発速度がピタリと止まり、彼女の脳内で記憶のピースが猛スピードで検索されているのが匂いでわかる。
「薬用の、ハンドクリーム……」
彼女はブツブツと呟きながら、ハッと息を呑んだ。
「……いる。莉愛が今朝、カバンにリップがないって気づいた時、一番に疑ってキツめに問い詰めてた子」
「誰だ」
「莉愛の隣の席の……図書委員の栞ちゃん。あの子、いつも手が荒れてて、休み時間に無香料のクリームを塗ってるのを見たことがある……!」
図書委員の水野栞。大人しく、クラスの目立つグループには属さない生徒。星川莉愛のような声が大きく我が道を行くギャルとは、完全に対極に位置する存在だ。頭の中で、散らばっていたパズルのピースがカチリと音を立てて組み上がっていく。現場に足を運ぶまでもなく、持ち込まれた匂いの痕跡と柚木の証言だけで、事件の構図がはっきりと立体的に浮かび上がってきた。
「なるほど。点と点は完全に繋がったな。星川のリップを拾い、ポーチにしまおうとしてくれたのは、水野で間違いないだろう」
俺が小さく鼻を鳴らすと、柚木が身を乗り出してきた。
「じゃあ、やっぱり栞ちゃんが持ってるの!? でも……」
柚木の顔に、再び困惑の色が広がる。彼女は畳の上のピンク色のメイクポーチを見つめながら、根本的な矛盾を口にした。
「でも、もし栞ちゃんがしまってくれようとしたなら、なんでポーチの中にリップがないの? 内側からは匂いがしないって、神崎が言ったんじゃん」
「ああ。ジッパーの金具に触れた痕跡はあるが、中には入れられていない」
「それに……莉愛が『リップ知らない?』って騒いでた時、栞ちゃんは何も言わなかった。もし親切心で拾ってくれたなら、なんでその時に『私が拾いました』って返してくれなかったの?」
窃盗ではない。親切心から出た行動だった。それなのに、なぜリップは持ち主の手元に戻らず、善意の第三者であるはずの水野が口をつぐんでしまったのか。新たな謎の浮上に、柚木は完全に混乱し、シトラスフローラルの奥から困惑の匂いを濃く漂わせている。雅先輩は手元の香炉の灰を優雅な手つきで整えながら、面白そうにくすくすと笑っていた。
「そこが、この事件の最大の『すれ違い』だ」
俺は気怠げに頬杖をつき、少しだけ意地悪な視線を柚木に向けた。
「善意から出た行動が、必ずしも美しい結果に結びつくとは限らない。ちょっとしたタイミングの悪さと、過剰な防衛本能が絡み合えば、人間は簡単に嘘をつく生き物だからな」
「嘘……? じゃあ、栞ちゃんは……」
「お前の友人のずぼらな不注意が、大人しいクラスメイトをパニックに陥らせ、自分を守るための『小さな嘘』をつかざるを得ない状況に追い込んだんだよ」
現場に行かずとも、残された匂いの痕跡と人間の心理を読み解けば、その時の光景が手に取るようにわかる。俺はミントタブレットのケースを指先で弄びながら、事の真相に近づきつつある柚木が、次にどんな反応を示すのかを静かに待つことにした。




