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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第14話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 5

ペパーミントの鋭い清涼感が、俺の鼻腔から脳髄へと一気に駆け抜ける。


 先ほどまで俺の嗅覚を鈍らせ、苛立たせていた強烈なバニラとココナッツの不快な甘さが、氷点下の風に吹き飛ばされたようにクリアになった。脳の処理領域を占拠していた不要な感情のノイズが後退し、純粋な『情報の解析』だけを目的とした冷徹な思考回路が立ち上がる。


 俺のまとった空気が一変したのを感じ取ったのだろう。対面に座る柚木玲奈は、口を半開きにしたまま戸惑ったようにこちらを見つめている。彼女から発散されていた焦りと疲労の匂いが、今は強烈な「困惑」へとシフトしていた。


「……神崎? 急に黙り込んじゃって、どうしたのさ。まさか、やっぱりこんなのじゃ何もわかんないとか言わないよね?」


「静かにしろ。今、余計な情報を消しているところだ」


 俺が低く、理詰めの声色で告げると、柚木はビクッと肩を揺らして押し黙った。俺は視線を伏せ、まずは畳の上に置かれたピンク色のメイクポーチへと意識を集中させる。顔を近づける必要はない。この距離でも、ポーチが放つ情報量は多すぎるほどだ。


 一番外側を覆っているのは、持ち主である星川莉愛が常日頃から撒き散らしている強烈なバニラ系の香水と、ココナッツのヘアオイルの匂い。俺は脳内で、その重く粘着質な匂いのレイヤーを一枚ずつ剥がし、意識の端へとミュートしていく。次に現れたのは、ポーチの素材であるナイロン特有の化学的な匂いと、持ち主の手垢の匂い。これも不要だ。


 俺は黙ってポーチに手を伸ばし、ジッパーの金具をつまんでゆっくりと開いた。


 ジーッ、という小さな音が響く。開かれたポーチの内側から、化粧品特有の複雑な匂いが立ち上ってきた。ファンデーションの粉っぽさ。使いかけのアイシャドウから漂う、微かな鉱物の匂い。俺はそれらの匂いを一つずつ分類し、頭の中の棚にしまっていく。


 だが、どれだけ探っても、そこにあるはずの『肝心の匂い』が見当たらなかった。


「柚木」


「ひゃっ、は、はい!?」


 静寂の中で唐突に名前を呼ばれ、柚木は変な声を上げた。俺の集中した空気に当てられ、彼女の心拍数がわずかに跳ね上がっているのが匂いでわかる。


「星川がなくしたという限定のリップは、どんな香りのするものだ?」


「どんなって……あー、たしか『ピーチティーの香り』って言ってた。莉愛、そういう甘ったるいフルーツ系の匂いが好きだから、買う前からずっと自慢してて」


 ピーチティーの香り。俺はもう一度、ポーチの内側から立ち上る匂いのレイヤーを細かく分解した。日曜に朝から並んで買ったばかりの限定品。しかも、星川のような生粋のギャルが好むフルーツ系のリップであれば、香料の匂いはかなり強烈なはずだ。昨日までこのポーチの中に入っていたのなら、化粧品の粉っぽさの中に、確実にその甘い芳香が染み付いて残っていなければおかしい。


「……奇妙だな」


「奇妙って、何が?」


「このポーチの内側からは、ピーチティーの匂いが一切しない」


「え……?」


 柚木は目を丸くした。


「日曜に買ったばかりの限定品で、香りが強いものなら、密閉されたポーチの中に匂いがこもっているはずだ。もし星川が昨日、そのリップを使ってからこの中にしまったのならな」


「で、でも、莉愛は絶対にポーチに入れたって……」


「人間の記憶など、都合よく改ざんされる不確かなものだ。俺の鼻が捉えた物理的な痕跡の方が、はるかに信用できる」


 俺はポーチから手を離し、もう一つの証拠であるレシートへと視線を移した。


 レシートからは、深く焙煎されたコーヒー豆の匂いと、甘いフラペチーノのクリームの匂いがする。それ自体はごく普通の、チェーン店のカフェの匂いだ。だが、俺の嗅覚は、その紙の繊維の奥に染み込んだ『別の匂い』を明確に捉えていた。


「柚木。お前たちは昨日の放課後、みんなで駅前のカフェに行ったと言っていたな」


「う、うん。行ったよ。駅前の、よく行くチェーン店」


「その後は? すぐに帰ったのか」


「えっと……カフェで一時間くらいダベって、そのあとは駅ビルの服屋とか雑貨屋を何軒か冷やかして、それで解散したけど」


 俺は納得して、小さく鼻を鳴らした。頭の中のパズルが、カチリと音を立てて組み上がっていく。


「お前はさっき、『昨日のカフェでは絶対にリップがあったと星川が言っている』と言ったな」


「うん。写真撮る前に、莉愛が『メイク直すー』って言ってたし」


「星川は本当に、そのリップを使った後、『このポーチの中にしまった』のか?」


 俺が核心を突くように問いかけると、柚木の表情がわずかに強張った。彼女の体温が上がり、シトラスフローラルの香水の奥から、記憶を必死に手繰り寄せるような焦りの匂いが立ち上ってくる。


「えっと……しまった……はず。でも、そう言われると……」


 柚木は視線を泳がせ、言い淀んだ。


「ポーチの内側に匂いがないということは、星川はそもそも、昨日カフェでリップを使った後、それを『このポーチの中に入れていない』可能性が極めて高い」


 俺はレシートを指先で軽く叩いた。


「そして、このレシートだ。紙という素材は、周囲の環境の匂いを驚くほど簡単に吸着する。このレシートのコーヒーの匂いの奥には、真新しい布地の染料の匂いや、アパレルショップ特有のフローラル系の芳香剤の匂いが付着している。これはカフェのものではない。お前たちがその後に行った、服屋の匂いだ」


「えっ……? でも、それってただ、莉愛がレシートを持ったまま服屋に行っただけじゃ……」


「もし星川が、会計の後にレシートをきちんと財布の中にしまっていたり、カバンの奥深くにしまっていれば、服屋の匂いはここまで濃く紙の繊維には染み込まない。このレシートは、服屋の空気に直接触れるような場所――例えば、制服のブレザーのポケットや、カバンの外側の浅いポケットなどに、無造作に突っ込まれていたはずだ」


 俺は一度言葉を切り、喉を潤すために湯呑みを手にした。中に入っているのは、俺の過敏な嗅覚を一切刺激しない、穏やかで優しい香りのお茶だ。熱すぎずぬるすぎない完璧な温度の液体が、回転し続ける脳を心地よくクールダウンさせてくれる。隣に座る澄は、俺の集中を邪魔しないよう、ただ静かに微笑みを浮かべて待っていてくれている。雅先輩もまた、俺のプロファイリングを面白そうに眺めながら、手元の香炉の灰を優雅に整えていた。


「星川はカフェの席でリップを塗り直した後、それをポーチにはしまわず、手っ取り早い制服のポケットかどこかに突っ込んだ。そしてその後、会計で受け取ったレシートも財布にはしまわず、リップが入っているのと同じポケットに無造作に放り込んだんじゃないのか」


「あっ……!」


 柚木が短い悲鳴のような声を上げた。香水の揮発速度が落ち着き、代わりに驚きと納得が入り混じった体温の変化が彼女を包む。


「莉愛、よくやるの! メイク直したあと、ポーチにしまうの面倒くさくて、とりあえずブレザーのポケットとかにリップ突っ込むの。で、あとでカバンの中で迷子になるって騒ぐんだよ……!」


 彼女の中で、星川のずぼらな性格と俺の推理が完全に合致したのだろう。柚木の顔に、明確な『気づき』の色が広がっていく。


「じゃあ、莉愛のリップは服屋で落としたってこと!?」


 柚木は身を乗り出し、畳の上のポーチとレシートを食い入るように見つめた。その瞳には、自分の友人のずぼらな癖を完璧に言い当てられたことへの衝撃が走っていた。


「現場に行かずとも、この持ち込まれた証拠の匂いだけで、星川の『使った後にポーチにしまった』という記憶が完全に間違っていることくらいは証明できる」


 俺が淡々と告げると、柚木は信じられないものを見るような目で俺を見つめ返した。


 過酷な教室にも、放課後の駅前のカフェにも、彼女たちが立ち寄ったアパレルショップにも、俺は一切足を運んでいない。ただこの作法室の定位置に座り、持ち込まれたポーチと紙切れの匂いを嗅いだだけだ。それなのに、現場にいた彼女たち自身よりも正確に、友人の行動の矛盾を突きつけてみせたのだ。


「……マジで、神崎って何者なの」


 柚木の震えるような呟きには、先ほどまでの「本当に見つかるのか」という疑念は完全に消え去り、代わりに俺の解析に対する確かな畏怖の色が混じっていた。


 作法室の静寂の中、雅先輩が手元で焚いている白檀の香りと共に、事件の真相へと繋がる見えない道筋が少しずつ浮かび上がろうとしていた。だが、まだすべてのピースが揃ったわけではない。俺は空になった湯呑みを置き、次なる思考の海へと静かに潜っていく準備を整えた。

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