第13話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 4
柚木玲奈が旧校舎の廊下を駆け出していってから、およそ二十分が経過していた。
作法室の小窓から入り込む春の風が、部屋の空気を静かに循環させている。雅先輩が手元の香炉で焚いている白檀と龍脳の練香は、時間が経つにつれてさらに深く、澄んだ和の香りを部屋の隅々まで行き渡らせていた。先ほどまでこの空間を一時的に汚染していた柚木のシトラスフローラルの香水は、澄が素早く行った換気と拭き掃除のおかげで、すでに一ミリの痕跡すら残っていない。
他人の嘘や見栄、過剰な同調圧力といった感情の波が渦巻く本棟の教室に比べれば、こうして静寂の中でただ手がかりを待つ時間は、ひどく平和で心地よいものだった。
「慧くん、お茶、冷めちゃったね。もう一回、温かいのを淹れようか?」
定位置の畳で気怠げに頬杖をついていた俺に、澄が柔らかい声で尋ねてきた。
「いや、いい。これくらいがちょうどいいから」
「そっか。……玲奈ちゃん、きっと本棟から走って戻ってくるよね。おしぼりは、少し冷たくしておいた方がいいかも」
澄は一人で納得したように頷き、新しく用意したおしぼりを丁寧に絞り直している。次にやってくるであろう客のために、彼女は決して手を抜かない。俺は湯呑みを手に取り、その淀みのない気遣いに甘えながら、静かに目を閉じた。
「それにしても、神崎くんも人が悪いわね」
香炉の灰を優雅な手つきで整えながら、雅先輩がくすくすと笑い声をこぼした。
「自分はここから一歩も動かずに、女の子をあんなに必死に走らせるなんて。ずいぶんと横暴な王様ね」
「人聞きの悪いことを言わないでください。俺は探してこいと命令したわけじゃありません。『俺はここから動かない。探してほしければ証拠を持ってこい』と条件を出しただけです」
「ふふ、同じことよ。でも、彼女のあの切実な様子……あなたが解決してあげなければ、そのグループは本当に壊れてしまうかもしれないわね」
雅先輩の言う通りだ。柚木から放たれていた「嘘のない悲鳴の匂い」は、彼女が限界まで神経をすり減らしていることを証明していた。だが、他人の人間関係の摩擦など俺には関係ない。俺はただ、持ち込まれたパズルを解いて、彼女のあのうるさい焦りの匂いを黙らせたいだけだ。
――パタパタパタッ!
やがて、古い木造の廊下の奥から、慌ただしい足音が急接近してきた。ガラッ、と勢いよく引き戸が開けられ、肩で激しく息をする柚木玲奈が飛び込んでくる。
「お、待たせっ……! 神崎、持ってきたよ!」
柚木は息を切らし、額に汗を浮かべながら畳の上へと歩み寄ってきた。彼女の体温は校内を走り回ってきたことで急激に上昇しており、シトラスフローラルの香水が再び暴力的な勢いで揮発し始めている。それに加えて、焦りと疲労が入り混じった生々しい汗の匂いが、作法室の静謐な空気を一瞬にして掻き乱そうとした。
「お疲れ様、玲奈ちゃん。はい、冷たいおしぼり。外、少し暑かったでしょ?」
だが、その匂いが俺のパーソナルスペースに届くよりも早く、澄が流れるような動作で柚木の前に立ち塞がった。
「あ、ありがと、澄ちゃん……助かるぅ……」
澄がすかさず差し出した冷たいおしぼりを受け取り、柚木は首筋や額の汗を拭う。冷たい布が肌に触れたことで柚木の不自然な体温上昇がすっと落ち着き、香水の過剰な揮発が抑え込まれる。澄の行動は、ただ「走ってきた客をねぎらう」という純度百パーセントのおもてなしだ。しかし、その無駄のない完璧な対応のおかげで、俺の鼻を殴りつけようとしていた不快なノイズは、強烈な悪臭に変わる手前で綺麗に無害化されていた。
(……本当に、気が利く幼馴染だ。助かった)
俺は内心で澄の完璧なサポートに深く感謝し、少しだけ姿勢を正して柚木と向き合った。
「で。それが、手がかりになりそうなものか」
俺が視線を向けると、柚木は畳の上に二つのものを慎重に置いた。一つは、派手なピンク色をした大きめのメイクポーチ。もう一つは、少しシワが寄り、端が折れ曲がった一枚のレシートだった。
「そう。莉愛のやつ、まだプンスカ怒ってたけど、『一緒に探してくれる友達がいるから』って言って何とかポーチごと借りてきた。莉愛、メイク道具は絶対にこの中に入れてるからさ」
柚木はまだ少し息を乱しながら、ポーチの横にあるレシートを指差した。
「こっちは昨日の放課後、みんなで行った駅前のカフェのレシート。莉愛がまとめて払ってくれた時のやつだから、時間も合ってるはず。莉愛は昨日、このカフェの中でリップを取り出して使ったから、その時は絶対にあったって言ってたし」
柚木の目には、「現場にも行かずにこんなもので本当に見つかるのか」という疑念と、「どうか見つけて、最悪なクラスの空気を救ってほしい」という切実な期待が入り混じっていた。彼女から放たれる匂いも、その二つの感情の狭間で小さく揺らいでいる。仲間のために必死に校内を走り回り、プライドの高い星川莉愛から何とか私物を借りてきたのだろう。その苦労の痕跡が、レシートについたわずかな指の汗の匂いから痛いほど伝わってきた。
俺は黙って、畳の上に置かれたポーチとレシートを見つめた。顔を近づけるまでもない。ポーチからは、星川が常日頃から教室中に撒き散らしている強烈なバニラの香水と、ココナッツのヘアオイルの匂いがべったりと染み付いているのがわかる。そしてレシートからは、深く焙煎されたコーヒー豆と、甘いフラペチーノのクリームの匂いが、紙の繊維からかすかに漂ってきている。
圧倒的な情報量だった。バニラ、ココナッツ、コーヒー、クリーム、そしてわずかな汗とファンデーションの粉っぽさ。これらが複雑に絡み合った匂いは、今の俺にとってはただの「強烈な悪臭とノイズの塊」でしかない。特に星川のバニラの匂いは、俺の過敏な嗅覚をゴリゴリと削ってくる圧倒的な外界の暴力そのものだった。油断すれば、たちまち頭痛と吐き気に襲われ、思考がショートしてしまうだろう。
俺はゆっくりと息を吐き出し、制服のズボンのポケットに手を入れた。指先が、冷たいプラスチックケースの感触を捉える。親指で蓋を弾き開け、中から一粒のミントタブレットを取り出した。
それを無造作に口の中に放り込み、奥歯で一気に噛み砕く。
――ガリッ。
硬い糖衣が砕けるくぐもった音が、静寂に包まれた作法室に響いた。次の瞬間、強烈なペパーミントの清涼感が口内から鼻腔へと一気に突き抜ける。氷のように冷たく鋭いミントの香りが、俺の過敏な嗅覚を覆っていた不快な人工香料のノイズを、力技で強制的にクリアリングしていく。
脳内を支配していた嫌悪感が薄れ、思考が恐ろしいほどに澄み渡っていくのを感じた。俺の嗅覚が、「不快な受信」から「情報の解析」へと完全に切り替わった証だった。
俺は冷たいミントの息を細く吐き出し、気怠げだった姿勢を正して、畳の上の証拠品へとわずかに身を乗り出した。
「……神崎?」
俺のまとった空気が一変したのを感じ取ったのか、柚木が戸惑ったような、少し怯えたような声を漏らす。俺はそれに答えることなく、ただ静かに視線を伏せた。
持ち込まれた圧倒的なノイズの奥底に隠された、微細な真実の痕跡。他人の見栄や嘘が複雑に絡み合ったこの匂いのパズルを解き明かすため、俺は作法室の定位置から一歩も動くことなく、畳に置かれた二つの証拠が放つ匂いのレイヤーの底へと、ゆっくりと意識を潜らせていった。




