第11話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 2
その日の放課後。本棟の喧騒から遠く離れた旧校舎の奥深く。作法室の引き戸を開けると、今日も変わらず静謐な時間が流れていた。
部屋の中央では、雅先輩が香炉の灰を静かに整えている。今日焚かれているのは、白檀の甘さに龍脳の清涼感を利かせた練香だ。少し汗ばむような春の生ぬるい空気と、生徒たちの見栄や嘘が混ざり合った教室のノイズから逃れてきた俺の肺に、その上品で涼しげな和の香りが染み渡っていく。
「ふふ。神崎くん、今日はずいぶんと疲れた顔をしているわね」
「……教室の空気が、少し重くて。先輩の焚くお香が身に沁みます」
「そう。ゆっくり休んでいきなさいな」
俺が定位置の畳に腰を下ろして小さく息を吐くと、水屋からお盆を手にした澄が現れた。
「お疲れ様、慧くん。はい、お茶」
「ありがとう、澄」
差し出された湯呑みからは、俺の過敏な嗅覚を一切刺激しない、穏やかで優しい香りが立ち上っている。一口すすると、熱すぎずぬるすぎない絶妙な温度が、すり減った神経を芯から解きほぐしてくれた。今朝、クラスメイトの柚木玲奈から明確な『ロックオン』の視線と期待の匂いを向けられて以来、俺はいつ厄介事が持ち込まれるかと身構えていた。だが、この作法室という絶対的な聖域にいる間だけは、そんな警戒も不要に思えた。
――ガラッ。
不意に、古い引き戸が遠慮がちに、だが確実に開け放たれた。
「あのさー、ここって香道部の部室であってる?」
作法室の空気が、一瞬で張り詰めた。入り口から顔を覗かせたのは、少し明るく染めた髪に、短く着崩したスカートという派手な出立ちの女子生徒――柚木玲奈だった。彼女が一歩足を踏み入れた瞬間、作法室に満ちていた白檀と龍脳の香りを切り裂くように、強烈なシトラスフローラルの香水が暴力的な勢いで拡散した。
「ええ、そうよ。見学かしら?」
雅先輩は少しも表情を崩さず、優雅な微笑みを浮かべて尋ねた。
「あ、いや、見学っていうか……ちょっと神崎に用があって」
柚木は室内をぐるりと見渡し、部屋の隅で気怠げにお茶を飲んでいる俺を見つけると、少しだけホッとしたように口角を上げた。
「おっ、いたいた。探したんだからね、神崎」
「……俺に何の用だ、柚木」
俺は湯呑みを畳に置き、面倒くさそうに視線を向けた。彼女はいつもの「ノリの良いギャル」の仮面をしっかりと被っている。だが、俺の鼻は、彼女が放つ強烈な香水の下から、ひどく重い『SOSのサイン』を受信していた。彼女の体温は不自然なほど高く、香水が急激に揮発している。その奥からダダ漏れになっているのは、人間関係のプレッシャーによる激しい焦りと、俺に断られたらどうしようという怯えの入り混じった冷や汗の匂いだった。
「いらっしゃい、玲奈ちゃん。よく来てくれたね」
柚木が俺の方へ歩み寄ろうとした瞬間、俺の隣にいた澄がふわりと立ち上がった。
「あ、澄ちゃん。やっほー」
「まずは手を綺麗にしてね。はい、おしぼり」
澄は流れるような動作で柚木の前に立ち塞がり、ほんのりと温かいおしぼりを手渡した。柚木が「あ、うん、サンキュ」と戸惑いながら手を受け取って拭いている間に、澄は無香料の除菌シートを取り出し、柚木が座ろうとしていた周辺の畳を、サッと、拭き清めた。
「さあ、座って。今、お茶を入れるから」
「えっ、あ、うん……ごめんね、なんか気を遣わせちゃって」
柚木のギャル特有の勢いが、目に見えて削がれていく。澄の行動には、ただ「お客さんをもてなす」という純粋な善意だけが溢れている。澄のその徹底した清掃のおかげで、柚木が持ち込んだ強烈なシトラスフローラルの匂いは、俺のパーソナルスペースに届く前に中和されていた。
(……相変わらず、徹底した綺麗好きだな)
俺は心の中で感心しながら、事の成り行きを静観していた。だが――俺の鼻は、対面に座った柚木の匂いが、唐突に別の成分へと変化したのを見逃さなかった。
柚木は、目の前で完璧な笑顔を浮かべる澄と、綺麗に拭き清められた自分の周囲の畳を交互に見比べた。その瞬間、柚木の首筋から、焦りや怯えとは全く違う、動物的な『本能的な恐怖』に近い冷や汗の匂いがふわりと立ち上ったのだ。
対人関係の空気を読むことに異常なほど長けている柚木は、澄の純度100%の完璧な『おもてなし』に、完全に圧倒されてしまったらしい。常に周囲の顔色を窺って軽薄なギャルを演じている彼女にとって、一切の隙も嘘もない澄の態度は、自分の薄っぺらさを浮き彫りにされるようでひどく居心地が悪いのだろう。柚木の心拍数がわずかに跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
「はい、玲奈ちゃん。外から急いで歩いてきたから、少し汗ばんでいるみたいだね。空調で体が冷えないように、しっかり温まるお茶にしておいたよ」
水屋から戻ってきた澄が、柚木の前に湯呑みを置いた。
「あ、ありがと……いただきます。……あっつ!?」
湯呑みに口をつけた柚木は、ビクッと肩を揺らして急いで湯呑みを離した。澄は「ごめんなさい、熱かったかな?」と申し訳なさそうに小首を傾げている。澄の気遣いは時に相手を恐縮させてしまうほど徹底しているが、俺にとってはそれこそが彼女の美点だ。だが、柚木から漂う萎縮の匂いはさらに濃くなり、彼女は借りてきた猫のように小さく身をすくませていた。
「あらあら、火傷はしなかった? 冷めないうちにお菓子と一緒にゆっくり楽しんでね」
雅先輩がくすくすと笑いながら、老舗の和菓子を勧める。
「あ、はい……いただきます……」
完全に作法室の空気に飲まれ、すり減った様子の柚木。だが、彼女は熱いお茶を少しだけ口に含むと、意を決したように深く息を吸い込み、再び俺の方へと向き直った。
「あのさ、神崎」
彼女の視線が、真っ直ぐに俺を射抜く。シトラスフローラルの強い香料の奥で、彼女の震えるような本音が、静かに、だが確かな切実さを持って俺に助けを求めていた。
「ちょっと相談なんだけど……あたしの友達が、大事なものをなくしちゃって。このままだと、クラスの空気がマジで最悪になりそうなの」
彼女の体から、朝からずっと彼女を苦しめ続けていた過剰な気遣いと、重い疲労の匂いが漂ってくる。星川莉愛のなくした限定リップ。それが引き金となって壊れかけているグループの平和を維持するために、彼女は限界まで神経をすり減らしているのだ。
「お願い。神崎の探し物を見つける力で……うちのグループを、助けてくれない?」
静寂に包まれた作法室に、柚木の切実な声が響く。雅先輩は興味深そうに目を細め、澄は静かに俺の横顔を見つめていた。
俺はズボンのポケットに手を入れ、プラスチックケースの冷たい感触を指先でなぞった。他人の人間関係のノイズなど、俺には何の関係もない厄介事だ。だが、この静謐な聖域にまで持ち込まれた彼女の「嘘のない悲鳴の匂い」を前に、ただ無視を決め込むことも、ひどく後味が悪いように感じられていた。




