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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第10話 春の陽気と、持ち込まれた証拠 1

 作法室での静かな事件解決から数日が経ち、四月も下旬に差し掛かろうとしていた。春の陽気は日を追うごとに強さを増し、少し動くだけで汗ばむような気温になりつつある。それに比例して、教室内を満たす「匂い」の密度も、俺の許容量を優に超えるレベルで悪化の一途を辿っていた。


 新学期が始まって数週間。クラス内のグループはすでに固定化され、今度はその小さなコミュニティの中で自分の立ち位置を維持するための、ヒリヒリとした「見えない探り合い」が始まっている。誰の機嫌を取るべきか。誰に同調するべきか。表面上は明るく談笑していても、その笑顔の下には過剰な気遣いによる「冷や汗」や、自分を良く見せようとする見栄から生じる「不自然な体温上昇」が隠されている。俺の過敏な嗅覚は、それらの『本音と建前の乖離』から生じる感情の淀みを、嫌でもすべて受信してしまっていた。


 俺は窓際の後ろから二番目という定位置で、机に頬杖をつきながら浅い呼吸を繰り返していた。今朝も、隣室に住む幼馴染の澄が、俺のためだけにかすかな朝露のような柔軟剤の香りでシャツを完璧に洗ってくれていた。襟元から漂うその無刺激で穏やかな匂いだけが、俺がこの情報の濁流の中で呼吸を保つための唯一の命綱だった。


「おーい神崎! お前、なんか職員室で凄いことしたらしいな!」


 不意に、鼓膜を揺らすような大きな声と共に、背中をバンッと叩かれた。振り向かなくてもわかる。強烈な汗の匂いと、それを力技で誤魔化そうとする安価で刺激の強いシトラス系の制汗剤の匂い。同じクラスの悪友、遠山太陽だ。


「……朝から声がでかいぞ、遠山。凄くも何ともない」


「いやいや、隠すなって! さっき職員室に日誌取りに行ったら、長谷川先生が他の先生に『うちの神崎は現場に行かずに探し物を当てる名探偵だ』って自慢してたぜ? お前、山田先生の無くなった進路のプリント、一瞬で見つけたんだろ?」


 遠山は無邪気に白い歯を見せて笑いながら、周囲に聞こえるような声量でまくしたてた。俺は小さくため息をついた。長谷川先生が作法室に持ち込んだ裏紙の束の匂いから、鈴木先生の置き忘れを指摘したあの出来事。他言無用とは言わなかったが、まさかあのズボラな顧問が職員室で言いふらしているとは思わなかった。


「ただの偶然だ。たまたま心当たりがあったから教えただけだ」


「へえー、そうなのか? まあでも、お前昔から変なところで勘が鋭いからな!」


 遠山はそれ以上深く追求することなく、「じゃあ俺、購買で早弁用のパン買ってくるわ!」と嵐のように去っていった。相変わらず匂いはうるさいが、彼からは陰湿な企みや裏の匂いが一切しないため、適当にあしらっても俺の精神がすり減ることはない。


 だが、遠山のその無神経な大声は、静かに、しかし確実に教室の空気に一石を投じていた。


「ねえ、今の聞いた? 神崎くんが探し物見つけたって」


「あのいつも一人で本読んでる人だよね。なんか意外……」


 遠山の言葉を耳にした周囲の生徒たちから、わずかな「好奇心」の匂いが立ち上り始める。俺は面倒なことになったと思い、ポケットからミントタブレットのケースを取り出して指先で転がした。


 その時だった。教室の中央付近から、ひときわ強い『プレッシャーの匂い』が放たれているのを、俺の鼻が捉えた。


「もー、マジ最悪なんだけど! なんで日曜に買ったばっかの限定のやつ、もう無いの!?」


 甲高い声で不機嫌を撒き散らしていたのは、クラスの中心グループにいる女子、星川莉愛だった。彼女が苛立たしげに自分のカバンを漁るたび、彼女がこれでもかと纏っている強烈なバニラ系の香水とココナッツのヘアオイルの匂いが、暴力的な勢いで教室中に拡散していく。星川には悪気も陰湿な見栄もない。ただ純粋に自分の欲求のままに動き、不機嫌を隠そうともしない生粋のギャルだ。


 だが、問題は彼女ではなく、その隣にいる少女だった。


「莉愛、落ち着きなよ。最後に使ったのいつ? 一緒に探すからさ」


 星川の隣で、同じグループの柚木玲奈が必死になだめている。柚木は星川のテンションに合わせるようにノリの良いギャル語を使っているが、彼女の顔に貼り付いた明るい笑顔の裏側から、俺の鼻は凄まじい「SOSのサイン」を受信していた。


 柚木は今日、いつも以上に強いシトラスフローラルの香水をつけている。それは彼女が、このグループ内で浮かないように、そして少しの摩擦でも壊れてしまいそうなクラスの空気を保つために、自分を守るための分厚い「鎧」だ。星川の不機嫌がグループ全体に波及することを極端に恐れている柚木は、三百六十度の全方位に気を遣い、神経をすり減らしている。彼女が星川の機嫌を取ろうと声をかけるたび、極度のプレッシャーによって彼女の体温が不自然に急上昇し、香水の揮発速度が異常に早まる。強い香料を突き抜けて俺の鼻に届くのは、彼女の首筋から滝のように滲み出ている「激しい焦りと冷や汗」の匂いだった。


(……相変わらず、重い鎧を着てすり減ってるな)


 俺は他人の厄介事に首を突っ込むつもりはない。柚木がどれほど疲弊していようが、俺には関係のないことだ。そう思い、視線を窓の外へ向けようとした瞬間だった。


 ピタリ、と。教室の中央で星川をなだめていた柚木の動きが、一瞬だけ不自然に止まった。


 彼女の耳が、先ほどの遠山の大声――『神崎は探し物を当てる名探偵だ』という言葉の余韻を、確かに拾い上げたのがわかった。


 俺は窓際から動かないまま、手に持っていたミントタブレットを一粒、口の中に放り込んだ。奥歯で一気に噛み砕く。


――ガリッ。


 強烈なペパーミントの清涼感が口内から鼻腔へと突き抜け、俺の嗅覚を「不快な受信」から「情報の解析」へと切り替える。俺は視線を伏せたまま、教室の中央から漂ってくる柚木の匂いの変化だけに、静かに意識を集中させた。


 星川の強烈なバニラの匂いと、周囲の生徒たちの生活臭を、脳内でレイヤーごとにミュートしていく。最後に残った柚木のシトラスフローラルの香水の奥底で、明確な『感情のシフト』が起きていた。


 先ほどまで彼女からダダ漏れになっていた「グループの空気が悪くなることへの怯え」と「冷や汗」の匂いが、わずかに引いていく。代わりに立ち上ってきたのは、急激な心拍数の上昇に伴う、熱を帯びた「期待」の匂いだった。


 柚木は今、自分が入手した『神崎が職員室の揉め事を解決した』という不確かな噂と、目の前で起きているグループの危機を、頭の中で猛スピードで結びつけている。そして――彼女の視線が、教室の中央から窓際の俺の席へと、真っ直ぐに向いたのを感じた。


 俺は顔を上げない。直接目を合わせなくても、彼女から放たれる匂いがすべてを物語っている。柚木の体温が、さらに一段階上がった。それは恋心や下心などではない。極限まで空気を読みすぎて溺れかけている少女が、自分を救い上げてくれるかもしれない「都合の良い浮き輪」を見つけた時の、すがるような『打算と計算』の匂いだ。


 柚木玲奈は今、俺を単なる目立たないクラスメイトから、「自分のグループのトラブルを解決するための相談相手」として、完全にロックオンしたのだ。


 彼女はすぐにはこちらへ歩いてこなかった。今はまだ、星川の機嫌を取るのが最優先だからだ。だが、彼女の視線に込められた重い期待の匂いは、俺のパーソナルスペースをじっとりと侵食し始めていた。


「……はあ」


 俺は誰にも聞こえないように、小さく、ひどく重いため息をついた。ただ平穏に息がしたいだけなのに、どうやらこの過酷な教室は、俺を透明なままではいさせてくれないらしい。俺は首元に鼻を近づけ、澄が洗ってくれたシャツの心地よい柔軟剤の香りを肺の奥深くまで吸い込みながら、近いうちに必ず持ち込まれるであろう「面倒なノイズ」の襲来に向けて、静かに覚悟を決めた。

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