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塔から見る

作者: 雅 清
掲載日:2026/01/17

 決定的に欠けている。それでいて何が足りないのか、僕は依然として分からなかった。空白が、隙間が、埋めようのない穴が。漫然として、まるで平原に突然刻み込まれた深い谷のように僕の中にあって、明確に本来あるべきものが無いということだけがはっきりと自覚できていた。


 母上が呼ぶ。その声は優しくあたたかな声で、草原の緩やかな丘の上から、草のすれる音や鳥のさえずりの隙間を縫うようにして、心地よく耳に滑り込む。母上の声はよく通る声だ。どんなばしょでもそれは変わらない。市場の賑わいの中でも、車の往来の激しい中でも、まるで直接、頬に触れられ、顔を向けさせられたように、僕の意識を向けさせる。


「また、遠くを見ていたわね」

「はい」

「何を見ていたの」

「雲を見ていました」


 平原で隣に立ち、僕は正面を向いたまま。

 何を見ていたか。何も見ていない。意識は遠く方へいっていたから。自分の考えの中で何かを考えていて、全てが散漫としていた。それで、たまたま目に入ったから雲とこたえだだけ。ただ偶然目についた雲は、もうすでに形を変え、消えかかっている。空白、隙間、足りないもの。掴みようのない何か。そこにあって、ないような。


 遠くで光が炸裂した。そして爆発的な炎と白い煙がもうもうと、まるで夏の入道雲のように立ち上る。わずかに遅れて轟音が草原を駆け抜けた。


「あの人も行ってしまったわ」


 草原のはるか先に眩く輝く光。銀に輝く塔が、太陽を塗りつぶさんばかりの光と音とを放ちながら空へと上っていく。手をかざし、仰ぎ見ると、丁度手のひらに収まるほどの大きさだ。ここからでもその巨大さがわかる。


 母上の声は相変わらず澄んでおり、轟音と風の中であってもはっきりと聞こえた。けれども、哀愁と疲労と喪失感が声からは滲んでいた。その年齢不詳気味な横顔もまた澄んで透き通っていたが、表情からは何も読み取ることはできなかった。まるで感情の全てを声に乗せているがために表情を作ることを忘れたかのよう。


「僕も次の便で」


 母は目を伏せたようだ。


「そうだったわね。そう、そうだった」


 母は自分の言葉を噛みしめるように静かに繰り返す。僕は空へ空へと上がっていく銀の塔から視線を逸らそうとはしなかった。それは母の顔に何か表情が浮かぶのを見たくなかったのかもしれない。銀の塔は重力を振り払い、なおも上昇を続けている。尾を引く白い煙は濃く、けれども次第に薄れていって、もうしばらくすれば、散漫で、またあってないような。そんなものになっていく。


 丘を吹く風が冷たくなり始めた。馬が丘の下に現れた。一頭でない数頭の群れだ。先頭をいく黒い馬にゆっくりと率いられているようだ。見事なたてがみが風に揺れ、瞳は黒曜石のように深く暗い黒。毛並みもまた柔らかな漆黒のベルベット。その皮膚の下より盛り上がる筋肉は逞しく、美しい。まさに生ける宝石といえる。しかし、このあたりに野生の馬は本来はいない。すべてはるか昔に絶滅したからだ。そしてあの種類の馬もまた野生にはいない。人が人の思う理想の自然の原風景を求めたが故に産まれた人工的な美だ。


 一頭の馬がちらりとこちらを見やる。おそらくは群れのリーダーだろう。しばらくするとリーダーらしき馬は首を振り、ゆっくりと歩き出した。群れもそれに続いて森へと消えていった。



 一週間が経ち、僕は銀の塔の中にいた。席番号E246-8。幸いにして僕の座席からはあの丘を見ることができた。まったくの偶然とも、もしくは母がそのように心遣いを忍ばせたか。それはわからない。

 遠く、遠くに見える小さな丘。母上はきっと一週間前のようにあの場所に立っていることだろう。どこにいても聞こえる、透き通るような声もここには届かない。だがきっと僕の名を呼んでいるのだろう。


 ここからは顔は見えない。暖かな声色と違う、表情の薄く乏しい顔。でも見えたとして、僕は母上の顔を真っすぐと見れただろうか。今にして思えば、きちんと顔を見たことがあまりなかったのではないか、と。


 それが僕の中の何か欠落したもの、あるようで無いようなものの一端のような気が、今は思えた。一生埋まることのない欠落した空間、隙間の、空いたままの穴。そしてそれこそが母上の生きた証なのだと、気が付くのはずっと後のことだった。


 群れだ。馬の群れが見える。銀の塔が揺れる。密閉され遮蔽された空間にも振動は届き、窓からは銀の塔が吐き出す光と煙が見え、揺れと重力とが体を押さえつける。群れの一頭が竿立ちになり、駆ける。深く黒い馬。

 やがて重力は振り切られ、体からその残滓さえも消え去ったころ、僕は母なる大地を、地球を見下ろしていた。


 それからさらに一か月すぎ、新たな大地へと降り立った。地球よりも軽い重力と、乾いた空気と慣れないにおいが開け放たれたドアより入り込み、肺を満たす。ガイドが一人ひとりに挨拶する。新天地、第二の故郷となる場所だ。


「ようこそおいでくださいました。お忘れ物なきよう、足元に気を付けてお降りください」


 僕は置いてきた。僕の何かを、遠い小さな丘に。この隙間には確かに、今、欠落があり、その欠落こそが……さぁどうだろうか。今もわからない。今も散漫であり続けている。

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