表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

雨の向こうに

作者: 46(shiro)

 雨が降ってきた。


 窓にポツポツあたっている。間隔はそう短くなくて、ともすれば見間違いと思い直しそうだけれど、確かに降っている。

 壁の時計はちょうど6時。由鷹(ゆたか)が来るまであと1時間をきっていた。

 降水確率80%とテレビが告げていたから安心していたのに、昼を回っても厚く雲が広がっているだけで一向に降らないから心配していたのだが、どうやら間に合ったみたいだ。これでひと安心。


 今日は降ってもらわないと困る。すべての始まりだったあの日――4月1日。ちょうど半年前のあの日から、ひそかに私は由鷹と別れるのは雨の日と決めていた。


 私と由鷹の別れに雨はかかせない。なぜなら、私たちの間に起きたことすべてが雨の中でだったからだ。

 雨で始まった出来事は、雨で幕を閉じるのがふさわしい。ちぎれたフィルム同士をつぎ合わせるように、いつか、この半年も数ある雨の記憶にまぎれて消えてゆくだろうから。


 そう、始まりのあの日も雨が降っていた。





 それまでは春らしく暖かな日が続いていたというのに、突然真冬並に冷えこんだ日。さらに追いうちをかけるように、昼すぎから予定外の雨が降り出した。

 これみよがしに迎えの電話をかける同僚たちで列のできたロビーを抜け、折りたたみの置き傘を開くと外へ出る。


 あいにく私にはこんな日に車で迎えに来てくれるような知り合いはいない。この状態で29にもなるとある程度悟りがつくというか……あせりも嫉妬も起きない。送りを期待できる男の同僚もさらさらいない――いつものこと。そんなことに気を回すよりも、明日の日曜の天気のほうが私には気がかりだった。


 そろそろ部屋の衣替えをしなくてはいけないし、春服ももう少しほしい。新規入社の子たち用のマニュアルも早く完成させないといけないし……。

 何をするにしても、こんな雨では気が滅入る。

 すっかり灰色に染まった空を見上げ、白いため息を吐きながら通りすぎようとした駅近くの踏み切り。


 突然私の傘に由鷹が飛びこんできた。


 「電車を降りたら雨が降ってて。構内でずっと雨宿りしてたんだけど、どうもやみそうにないから」そう言って。

 喫茶店に入るにも持ち合わせがなかったらしい。上着のポケットからは歩くたびに帰りのバス代分という小銭のすれあう音がしていた。

 「傘に入れてもらうお礼」と、強引に傘の柄を奪われる。「濡れるよ」と言って抱き寄せられた肩。


 そんな図々しさを許したのは、由鷹の外面の美しさからだ。


 初めて会ったのだ、内面など知りようもない。

 おそらく180を越えている背丈、痩せた体。袖ロから覗き見えた手首は私より白く、男にしては細かった。鼻先までおりた前髪も軽くて、見苦しさは感じない。

 すっきり通った鼻筋、整った唇。涼し気な目許はくっきり二重で、よく光を吸いこむ明るい色をしていた。


 明るい茶色の髪と長いまつ毛……もしかすると何代か前に西欧の血が入っているのかもしれない。形造るひとつひとつは日本製なのだが、そうして完成された彼自身はどこか、異国的なものだった。

 中性的、とも言える。


 中でも、目だ。眼差し。

 蠱惑的に見つめ、そして挑発的に誘う。

 抗いがたい眼差し。


 出会ってわずか2時間後、由鷹は私のベッドで安らかな寝息をたてていた。


 窓を打つ外の雨はさらに激しさを増していた。ここからはす向かいにあるバス停に来るバスを待つまでの間、濡れないようにちゃんとした傘を貸してあげようとしただけのはずなのに。


 どちらが誘ったかなど、考えたくもない。

 受け入れたのは自分……。


 羽根枕を抱きこみ、隣で眠る美しい由鷹の天使のような寝顔を見下ろして、私は早くも悔やんでいた。こうなってしまったことを。


 このときすでに予想はできていたのだ。まだ学生だと言っていた、どう見積もっても7つは下の由鷹。社会人同士でならともなく……いや、そうであってもうまくいったという話は聞いたことがないのに、その上、由鷹は社会人(大人)ですらない。


 青年というよりは少年に思えるほど、由鷹の体は幼かった。腕も、足も、すべて。

 よくよく見れば、まだ完成しつくされていないようだ。

 だからこそ、こうなってしまったのかもしれない。しっかり男をしていたなら、玄関を開けようなどとは思わなかっただろう。


 ひと晩悔やんで、朝まで後悔して。明け方早くに部屋を出た。目を覚ました由鷹とベッドで正面から目をあわせられるほど、私は強くなかったからだ。

 鍵はスペアがあるから、出たあとポストへ戻しておいてほしい、との置き手紙をして。


 それで切れるはずだった。まともに話したのは駅からの数分間だけだが、ただの行きずりである自分の影を残すような愚かな者ではないとの見当はついていたし。

 だから、さながら熱にでもうかされていたような昨夜の恥ずべき行為を忘れようと、めいっぱい買い物をして戻った夜。見上げた部屋に明かりがついていたのを目にしたときの驚きは、言葉につくせなかった。


 「まだ雨だったから、出るのいやだったんだ」朝と変わらない姿でこともなげに笑って。「体、冷えてる。冷たいよ」と、あの魅惑的な眼差しで私をベッドに誘った。





 その日から由鷹は毎日のように私の部屋を訪れるようになった。仕事から帰ったときはいなくても、部屋にいた形跡があったこともある。

 いけない、これでは深みにはまるだけだ、笑い話にもならないと、何度思ったことだろう。甘い夢を見てもいいのだと素直に信じるには、私は歳を取りすぎていた。


 鍵を取り返し、もう来ないでと言えばいい。ドアの前に立っていようと決して中に入れず、無視して、スマホは着信拒否に――いや、番号を変えてしまえばいいのだと。


 幾度繰り返し考えても、どうしても行動にうつせなかった。


 ときおり見せる、前髪をかき上げる仕草。しかたないなとでも言いたげに梳いて、横から覗き込むように見てくる。

 あの目で見つめられると、いやとは言えなかった。いまいちという、彼の言葉に従って部屋の内装も変えた。床を貼り替え、窓辺に観葉植物を配置し、変えた壁の色にあわせて家具も新調して……入社してからずっと積み立てていた財形貯蓄は半分以下になったけれど、由鷹の満足気な笑顔が見られるならよかった。

 ふと気付くとソファにかけ、クッションを抱いて窓の外を見ている。どうやらそこがお気に入りの場所らしい。

 「居心地がいいんだ」何気なく口にしたそんなひと言で私はほっとし、おびえた胸の不安を(やわ)らげていた。


 まるで聞くに堪えない愚かな話だけれど、由鷹にとって都合のいい、物分かりのいい女でいれば、それだけ長く由鷹をつなぎとめられると思ったからだ。


 ……わずか10日。もうすでに、彼にきらわれることが私にとって、一番の恐れとなっていた。





 最初から、壊れないはずがない関係だった。

 由鷹の好みで埋まったクローゼット。髪型、化粧、アクセサリー。

 訪れた友人たちは部屋と私の変化に驚き、明るくなったと喜んだあとで、だれひとり例外なく眉を寄せてこう言った。


『その様子だと、察するに相手は年下みたいだけど、注意しなさいよ。向こうの若さに流されて、気がついたら何もかも失ってた、なんて話、聞きたくないんだから。

 子どもとの恋愛(あそび)が、そんな甘いものじゃないってあなたも知ってるでしょ。いいかげん、やり直しのきかない歳なんだから。そうやってついた傷をあなた、取り戻せるの?』


 ……私は……答えられなかった。





 そのときのことを思い出すたび、痛みを伴った苦い笑いだけが、薄く胸に広がる。


 傷は、由鷹といる限りついてゆくだろう。

 由鷹は残酷な男だ。おそらく自分の持つ魅力を知りつくしているに違いない。

 仕草、声、視線。何もかもが私を惑わせる。

 向けられる、そのことごとくが計算づくであると分かっていながら、無邪気なのだと錯覚してしまいそうになるほど狡猾でしたたかな由鷹に、どうしても逆らえなかった。


 何ひとつ欲しようとせず、ねだろうともしない。

 ただ気まぐれに訪れ、気まぐれに肌をあわせ、気まぐれに帰って行く。

 すべて、気まぐれ。


 気が向かなければ口をきこうともしないし、持ち込んだ本や音楽に、私の言葉を平然と無視し続けるのもたびたびだ。何日も電話をくれなかったあとで、突然仕事先で出待ちをしていたときもあった。


 いくら夏とはいえ、雨の中、傘もささずロビーにも入らず、私を待っている。


 こっそり引き入れ、暗い所内でびしょぬれのまま互いを抱きしめあった。ぬぐってもぬぐっても頬を伝う雨の滴をなめ合い、貼りついた服ごしに互いを感じ、背に敷いた床の冷たさにこみあげてくる笑いを噛み殺して警備員の通りすぎるのを待つ。


 子どもっぽい遊び。そうしたと思えば、買い物の途中ふらっといなくなり、そのまま置いてけぼりにされたこともあった。

 「気が変わったんだ」「用事を思い出したんだ」こともなげにそう言って肩をすくめて。


 ずいぶんとムラのある、身勝手な優しさだった。

 まるで猫のような由鷹。自分のペースを崩そうとせず、決して彼のすべてで愛してくれようとはしない。


 …………愛?


 はたして私たちの間に愛があったときがあっただろうか?


 私は由鷹を愛していた。それはたしかだ。

 優しくされるたび、泣き出したくなるほどせつなく由鷹を愛していた。その指で髪を梳かれるだけで、息ができなくなりそうなほど胸が苦しくなった。

 その背にすがり、いつまでもここにいて、そばにいてほしいと無理を言いたくなるほどに。


 でも由鷹は違う。

 どれだけ同じ夜をすごし、時間を共有しようと、1度として『愛』を口にしたことはなかった。だからこそ私も愛を口にすることはできなかったのだ。口にしたが最後、おそらく由鷹は二度とこの部屋を訪れようとはしなくなるだろう。

 最初から分かっていた。しょせん、私は雨やどりでしかないことが。





 あんなにも美しく、奔放な由鷹が、どうしてこんな女を真面目に愛するだろう?

 もう29だ。女の盛りはすぎた。由鷹のほめてくれた髪の艶も、肌の張りも、何もかも、これからは衰えるばかりだろう。

 だが由鷹は違う。あの由鷹を愛する女が私だけであるはずもない。そしてきっと、由鷹の周りに集まる女はこんな私よりずっと若く、生気に満ちあふれ、自信に輝いているのだろう……。


 そう考えるたび、鏡の中の私はみにくくゆがんだ。全身を駆け巡るやり場のない憎しみばかりが涙になって流れた。苦しくて、苦しくて。胸を焼き焦がしてしまいそうな熱に、息も止まってしまいそうだった。


 いつかそう遠くない未来、由鷹は私から離れていくに違いない。

 私を忘れ、この部屋を忘れ、私の知らない、由鷹にふさわしい女性とともに生きるのだろう。


 腕をからませ、街を歩く――私では不似合いすぎた行為も、当然のように似合う人。

 ショーウインドに映った、すれ違った影はみんな由鷹を見るために振り返り、隣にいる私など目にも入れてはいなかった。嫉妬も、釣り合ってないと顔をしかめるわけでもない。


 おそらく姉だとでも思われていたのだろう。そういう目ですら見られることのない、まるで対象外の存在。それが私なのだ。


 歳の差はどんなに繕おうとしても隠しきれない。なのに気付けばどうにかしてごまかそうとしている、そんな自分があまりに滑稽(こっけい)に思えて……この部屋も、クローゼットの中も、そういった物に囲まれている自分自身が、たとえようもなくみじめだった。

 それだけに、同僚の女の子たちから由鷹についての情報を忠告として聞かされても、極力考えないようにした。

 女と一緒だったとか、しかもその相手の女の特徴が、聞かされるたびに全く違っていたりなど。

 動揺はしたけれど、本気で取り上げたりはしなかった。


 彼女たちの親切な言葉の出所は多分、私みたいな女にという不満からくる悪意だろうとの見当はついていたし、たとえそれが事実であっても、身も心も震えるような破滅の足音からは目をそむけ、知らぬふりをし、1秒でも長く由鷹とともにいたかったからだ。

 ……9月に入ってからは特に、由鷹からの連絡は途絶えがちになっていたのだけれど……。


 けれど、許せなかった!


 あれだけは……あんな、こと、だけは許せない……!





 インプットするはずだったプログラムを途中入社した子に手違いで完全消去されるという事態が起き、徹夜明けで戻った部屋。たしかに昨日整えて出たはずのベッドには、人の眠ったあとがあった。どうやらすれ違ってしまったらしい。


 最近なかなか会えなくなっていただけに口惜しくて、そのままベッドに倒れこんだ。由鷹を少しでも感じたくて。

 なのに。

 視界に入ってきたのは、床に転がっていたピアスだった。光沢のある、真珠のピアスの片割れ。


 私はピアスなどあけていない。由鷹もだ。ではなぜそれがここに落ちているのか?


 考えなくとも明白だった。由鷹に女がいる、その証明。

 その女が私の存在を知っての故意か偶然かなどそんなことはどうでもいい。私の部屋で、私のベッドで、由鷹はほかの女と愛しあったのだ!


 直後、脳裏を稲妻のように駆け抜けた光景は、すさまじい衝撃となって私を襲った。

 鼓動は一瞬で倍以上に跳ね上がり、頭の奥底を直撃したのちどす黒い怒りとなって全身を凍りつかせた。


 あふれた涙に喉がつまり、激しく咳こむ。シーツを握りしめ、小さく身を丸めた私の口から出るのは由鷹の名ばかりだった。


 いつかこうなるのは分かっていた。分かっていたけれど、でもこれはひどい仕打ちだ。

 私の部屋で、私のベッドで。そうやって裏切るのか。もう私のことなど何とも思ってはいないと、そうして私に見せつける!


 いっそ、死んでしまいたかった。


 私を見つめる由鷹の腕の中で、最後の息を吐きたかった。だがそれももうできない。もう、私を好きだという幻想すら見せてくれない由鷹では。


 好きでいてもらえた間にしておくべきだったのだ。そうしたなら私は、こうして訪れる残酷な裏切りも知らず、幸福なままで逝けただろうに……。





 裏切られていたと分かっても、それでもまだ由鷹を愛していることがさらに私を嘆かせた。

 こんなひどい仕打ちを受けながら、屈辱にまみれながら、私はまだ由鷹を愛しているのだ!


 自分が傷つくことには敏感なくせに、相手を傷つけることは一切かまおうとしない、残酷な子どもそのもののような由鷹を。


 声も、涙も、枯れるまで泣いたあと、腫れたみじめな顔のまま鏡を覗き、ようやく決めた。別れよう、と。


 それが由鷹のためなのだ。初めからこうなると私は知っていたのに、思い切れず今までひきずってしまった、これはその罰を受けただけで、由鷹が悪いわけじゃない。

 だれが見てもあきらかだったではないか、この結果は。こうなるのは。


 この事態を引き起こしてしまったのは由鷹の投げかけてくれていた兆しから目をつぶっていた愚かな自分で、だから、これ以上由鷹を困らせるのはいけない。


 けれど、最後だけはわがままを通させてほしかった。


 何かをきっかけとして私とのことをふと思い出したとき。この別れが一番鮮明に浮かび上がるように。

 せめて、あれはいい女だったと、思い出してもらえるように。

 それが私の、たったひとつの、なけなしの自尊心(プライド)だった……。





 テレビの天気予報の降水確率は80%。

 今日ばかりは飾りたてて。朝から美容室へ行き、服も一番上等のものを選んだ。由鷹が似合うと言ってくれた髪飾りやネックレスをつけ、テーブルには花を飾り、由鷹が好きな物ばかりを作って、由鷹が来るのを待つ。

 室温は快適。BGMもちょうどいい。


 窓に目を向けると、雨はほど良い強さになっていた。


 別れ話の材料はすでに用意している。『結婚』だ。事実、先週田舎に帰って見合いをしてきたし、まだ相手の反応待ちの状態とはいえ、まるきり嘘というわけでもない。

 まだ由鷹以外を愛せるとはとても思えないから、断りを入れるしかないだろう。彼には申し訳ないことをしてしまった。


 いい人だった。しっかりした会社勤めの人で、「こういう場にはなれてないんです」と緊張した様子で浮かべた笑顔が誠実そうで……もし由鷹と同じ仕打ちを受けようとも、あのときほど傷つかずにすむと思えた人。


 もしかすると、一生無理かもしれない。終わりにするにはあまりに唐突すぎる。裏切られ、無理矢理断ち切られた記憶は行き場のない想いとなって胸の底に残り、こうして雨が降るたびによみがえってはいつまでも私を苦しめるに違いない。


 ああ、それでもいい。これ以上愛する存在が現れるよりは。

 そんなことになったら、きっと、いつか裏切られる恐怖におびえて、私は生きていられないだろうから……。



 チャイムが鳴り、ドアの開く音がする。靴を脱ぐ気配。いつものように入ってくる由鷹は部屋の入り口で出迎えた私の着飾った姿を見て驚き、肩越しに覗き見えたテーブルの豪華さに眉を寄せる。

「何かあったの? お祝い事?」

 笑って訊いてくる由鷹を席につかせ、私はつくり笑顔でワインの口をあけた。





 蛇口を全開にして水をためながら、食器をつけこむ。中途半端に残された食事も花も、全部ゴミ袋に入れて口をしばった。

 二度と見ないですむように固く結ぶ。ふうと息をついた一瞬を突いてかすめた由鷹の姿に、直後、手首に熱いものが数滴したたった。


 終わった。本当にこれで、全部終わったのだ。


『結婚が決まったの。あなたの知らない人よ。お医者さん。まだはっきりとした日にちとかは決まっていないけど、たぶん、そう遠くないわ』


 私はちゃんと笑えていただろうか?


『普通に相手を見つけられず、お見合いするような人にはあまりいい人がいないっていうけど、あれって嘘ね。知り合う機会がなかっただけ。とても真面目な人よ。そう、すごくいい人。きっと、幸せになれると思うの』


 由鷹は手を止めて、私を見ていた。無表情も同然の、いつもの仮面の下ではたして何を考えていたのか……驚いているのは分かったから、それでいい。

 驚いて、本当かと見つめてくれた。まだそれくらいには私を想ってくれていたのだ。

 それだけで、私には十分だった。


 結婚するの。

 もう一度繰り返した私に、ひと言も発せず席を立って帰って行く。そのとき、たたきつけるように閉められたドアの音が、今も耳に残っている。

 向けられた背中。

 テーブルクロスに爪を立て、裸足で追いかけ、その背にしがみついて、嘘だと……全部嘘と、言いたい気持ちを必死におしとどめた。


 そんなことをしたならますます嫌われるだけだ。由鷹に迷惑をかけまいと、自分でこの別れ方を選んだくせに。


 あのピアスを引き合いに出して自分の感情を正当化し、由鷹を罵り互いを傷つけあう泥沼のような別れだけは絶対にしたくなかった。

 今さらと言われても、由鷹の口から私への不満を聞きたくなかったのだ。


 向けられた背中……まぶたに濃く焼きついたその姿に、奥歯を噛みしめても殺しきれなかった嗚咽(おえつ)がもれた。

 その場にしゃがみこみ、ひたすら泣き続ける。

 流し台からあふれた水が床を流れてるのが分かっても、立ち上がる気力さえ起きない。


 もういい。もう全部終わった。由鷹と二度と会うことはない。

 そう思うたび、涙は止まらず、引き裂かれそうな胸の痛みもおさまろうとはしなかった。



 翌朝早々に同僚たちの助けを借りて部屋を越した。何もかも由鷹で染まった部屋にこれ以上居続けるのは、自殺行為だからだ。


 家財一式、全部処分して、服も捨ててしまう。全部、全部。由鷹を思い出す物は全部、捨ててしまおう。


 新しい部屋を整えるのに貯金を全部使いきってしまったけれど、そうやって、由鷹と私をつないでいた物すべてを切り捨てて近寄らないようにすることで、私は由鷹への想いを少しでも薄れさせなくてはいけなかった。

 忘れなければ。こんな思いのままでは、生きていけない。


 由鷹と行った店も、由鷹の行きたいと言っていた場所も、簡単には行けないくらい遠くへ越してきた。

 見合いの相手は由鷹とのことを聞き、終わったのならと言ってくれたけれど、由鷹以上に愛することはできないと言う私の言葉で、結末を受け入れてくれた。





 朝がきたら目を覚まし、会社へ行き、仕事を終え、部屋に帰る。待つ者のない、灯の消えた冷たい部屋。

 もとに戻っただけだ。由鷹と出会う前の生活。


 たった半年。その前の10年以上を独りで暮らしてきた。なのにたった半年が、どうしてこんなに恋しいのだろう。3日とすごせないほどに辛い日々を送っていたのだろうか? 以前の私は。


 容赦なく(さいな)んでくる、あまりの孤独感の重さに、ぎゅっとクッションを握りしめた。


 由鷹……由鷹、由鷹、由鷹!


 決して思い出すまいとしたその名を吐き出すごとに、千切れるような息がこぼれる。


 捨てれば忘れられるなんて嘘だ。離れればいつか忘れるなんて、あり得ない。

 そんなものなどなくても思い出せる。あの瞳、あの腕。しなやかな肢体、重なった肌から伝わってきた心地よい体熱。重さ。耳元、甘やかな声でささやかれた私の名前……全部、思い出せる。私を愛しんだ、私の愛しい……!


 由鷹!

 なぜ言ってくれなかったの。あのとき。驚き、信じられないと目を(みは)るくらいなら、なぜ、嘘でもいいから『愛してる』と言ってくれなかった?


 そのひと言を聞けたなら、永遠にだまされていてもよかった。たとえ私以外の女を愛していようと、そばにいてくれさえすればいい、私の元へ戻ってきてくれるならいい、全然会えないよりずっとましだと、私は、あのピアスを窓から投げ捨てたのに。


 ……違う。あれは私が望んだ別れだ。この苦しみは由鷹のせいじゃない。私は由鷹を試したわけじゃない。


 すべて、自分の自尊心(プライド)のせい。


 「……………………あ、いたい……」


 ぽつり、とても自分のものとは思えない、枯れた声が出た。

 会ってどうするとか、そんなこと全然分からない。

 一目見るだけでいいのだ。前のようにあの瞳で見つめられなくても。陰からそっと見守るだけでもいい。とにかくもう一度、由鷹に会いたい……!


 けれどそれすらも、不可能な願いだった。


 私に話させるわりに由鷹自身は何も話そうとしなかったし、私もまた、詮索するうるさい女と敬遠されたくなくて、何ひとつ訊けなかったからだ。

 スマホは捨ててしまった。どこに住んでいるのかも聞いていない。あの部屋で、ただ彼が来るのを待つだけだった。


 学生だということは聞いていた。でもどこの大学なのかは知らない。いや、そもそも大学なのか、それとも専門なのか。それすらも私は知らないでいた……。


 思いあまり、衝動的に前に住んでいたマンションまで行ってみたけれど、会えるはずもなかった。管理人に尋ねても、あれから私の部屋を訪ねてきた者はいないという。


 帰り道、人の行き交う道端だというのに、涙がこぼれそうだった。


 自分で決めたくせに、私はもう後悔している。由鷹がいるよりもいないほうがいいなんて、どうして思ったりしたのか。

 私の部屋へ別の女を引き入れたこと、それは今思い出しても許せないことだけれど、本当に私は、それを絶対に許せないこととして別れを選んだのだろうか?


 毎日そればかり浮かんでくる。

 休暇をとり、由鷹と行った場所を巡りながら考えてみることにした。おりにふれ、まるで白昼夢のように浮かび上がってくる、由鷹との触れあいの思い出を、ひとつひとつ拾い集めるようにして。


 はたして本当に許せないことなどあるのだろうか。


 ……おそらく私は、由鷹と正面から向かいあうのが怖かったのだ。開いた歳の差の負い目もあったし、その自由な性質への嫉妬もあった。言い争い、きらわれることを恐れ、口をつぐみ、由鷹の言うとおりにしていた。それが正しい愛し方であったわけがない。


 もっと本音を言って、話し合って、絆を強めているべきだったのだ。そうしていたならきっとあの件も、詳しく問いただし、由鷹の言い分も聞いて、許せるよう努力できたかもしれない。私はただ、これ以上由鷹のなかの私を失うのが怖くて逃げたにすぎない。


 理解すること、それすら私はしようとしなかった。

 それでは、想い返されなくて当然なのだ。





 激しい自己嫌悪に陥った7日目。空の雲行きが怪しかったけれど、少し遠出をして夏に1泊の小旅行をした日硴のほうまで出てみることにした。


 山の中腹に縁結びの寺があるほかは温泉と、せいぜい周囲の山々の景観を愛でるだけの避暑場だ。といってもあまり広まっていないらしく、特に目立つ出店もなく、どちらかといえばさびれた過疎の村を思わせる、黒ずんだ古い家が道の両側に連ねている。


 電車を乗り継いで約4時間。ようやくたどりついたときには小降りの雨がきていたけれど、日帰りだし、この程度なら大丈夫だろうと判断して、傘は買わないことにした。

 この判断が間違いで、買っておけばよかったと思ったのはもう遅く、石段を大分登りつめていたころだった。


 今は10月も半ば。雨は厳しい。身を切るような雨粒があっという間に服も髪も濡らして肌にくっついてくる。風がほとんどないのが不幸中の幸いだ。もうやめて、下の町で宿をとり、山頂はまた明日にするべきだと理性が訴えていたが、休暇は明日までと思うと足は上を向いていた。


 風邪くらい、ひいたほうがいいのかも知れない。すぐ、そう思った。


 終わってしまうまで気付かない、こんなばかな女は風邪でもひいて、そのまま脱水症状でも何でもおこして死んでしまえばいいのだ。そうだ、いっそ、ここで眠ってみようか。

 雨はやみそうにない。そのままひと晩いれば、明日の朝には立派な溺死体になっているかもしれない。

 傍らに由鷹の名を書いた紙でも置いておけば新聞に載って、傷心旅行の果ての自殺と騒がれるかもしれない。そうしたら、由鷹の目にとまることがあるかもしれないだろう。


 そうして私の訃報を知ったなら、もしかして、1粒くらい、涙を流してくれるかもしれない……。


 そこまで考えて、また馬鹿なことをと自分をたしなめる。


 そんなことをすればますます由鷹に迷惑をかけるだけ。自殺、なんて。由鷹のせいだと責めているも同然の行為だ。


 雨にまぎれて泣き笑って、ふと顔を上げると石段の終わりが目に入った。

 それからは1段上るごと、雨で輪郭ののぼやけた境内が視界に開けてくる。苔むして黒くなった石燈籠が左右に対となって4つあり、みくじをひくための無人小屋が左手のほうに見えた。正面には、ひなびた寺。導き出される記憶。


 ここを訪れたとき、由鷹を困らせようとしたことがあった。たった1度だけれど。

 昔、まだ学生のころつき合っていた少年とよく来た場所だと。それは初めての彼で、だからこそ、それだけに真剣な恋だった。

 その彼を事故で失い、以来、つらいことがあったときに来るようになった場所。彼に話しかけるように……。


 恋が壊れたこと、あの人とよく来たこと。それは嘘ではないけれど、つらいときに来る場ではなかった。

 そうであったなら由鷹と来るはずがない。

 私はただあのとき、由鷹に少しくらい嫉妬してもらいたくて口にしただけだった。

 たわいもない言葉。予想どおり期待は不発に終わり、周囲を見回していた由鷹は何も返してくれずに見つけたみくじ場のほうへ行ってしまった。あれでは、話を耳に入れていたかどうかもあやしい。

 思い出した、今でもため息が出る。


 そもそも別の人を愛して、昔の恋の想いなんて、思い出せるはずもないのだ。

 由鷹でいっぱいになって、由鷹への気持ちだけが大切になって。由鷹の目に自分はどう映っているか、そればかり気になって……。


 もう顔もよく思い出せない、かつて恋した人。

 幼いからこそ真剣だったけれど、やはりそれは、今思えば未熟な恋だった。


 すぎる日々の中、いつか、由鷹もそうなってしまうのだろうか。本当に、そうなってくれるのだろうか? この、自分でも持て余すほどにある想いが。


 髪を伝い、目に入りかけた雨をぬぐって寺を見上げる。正面に設置された賽銭箱に続く石畳を、ちょうど半分ほど歩いたときだ。

 右手奥のほうに動く人の気配を感じてふとそちらへ視線をおとすと、裏から由鷹が現れた。

 見間違いだと、思った。


 雨は先に増して強まっていたし、厚い雨雲と雨粒のせいですっかり風景は水色にぼやけていたし、それに……それに、他人と由鷹を見間違ったのは、これが初めてではなかったから。


 けれど、濡れた前髪越しに寺の鴨居飾りを見上げている、それは間違いなく由鷹だった。


 なぜここにいるのか。

 こうして目にしながら、それでも到底信じられずにずっと立ちつくしていた私に、やがて由鷹も気付いた。

 その場から動こうとしない私に向け、濡れた髪をかき上げて笑うと歩み寄ってくる。

 私を抱きしめるため、その腕を広げて。


「……よかった、会えた。待ってたんだ、ずっと。きっと、栄理子はここに来るって思って、それで……。

 来てほしかったんだ。俺と別れようとしたこと、悔やんで、つらく思って、来てくれますようにって、毎日願ってた」


 おおいかぶさるように私を抱きしめ、やっとのことのようにそれだけを口にする。

 冷え切った体の奥底まで染み入ってくる、熱く熱をはらんだ、少しかすれた声のささやき。


 激しい抱擁だった。隙間なくぴたりと身を触れあわせ、さながらひとつに溶けあおうとしているかのように激しく、そして優しい。


 一体いつからここにいてくれたのだろう。冷え切った体。触れあった箇所から生まれてくるぬくもりは、まるで再び重なろうとしている私たちの想いのようだ。

 半月も離れていなかったのに、まるで何十日も会えなかったかのように懐かしい。


 波のように打ち寄せて胸を満たす心地よいめまいに吐息までもれる。

 いけないことだと思いながらもその背に手を回し、私もまた、由鷹を抱きしめていた。

 

「私も……」


 恐ろしさに震えが止まらない。


 また始めようとするのは間違っているかもしれない。この恋が生むのは苦しみのほうが多いのだと知っている。

 由鷹を愛するのは、不幸だ。きっとまた私は自由奔放な由鷹を憎み、彼を取り巻くすべての者に族妬して、みにくく歪むだろう。永遠に埋まることのない歳の差の年月を嘆き、疑心暗鬼にとらわれるに違いない。これほど苦しい日々を送ったのに、それでも愛を口にしてくれない、残酷な恋人に。


「私、も」


 涙がこぼれる。

 さらに深く傷つくことが分かっていながら、それでも引きはがせなかった。


 あんなにも求めた胸。

 どうして放すことができるのか。こんなにも……失えば生きていけないと思うほど、求めているのに。


「あいたかった」


 つぶやいたのはどちらか。

 離れていた時間をさぐりあうように深く唇を重ねあわせる。


 この、不幸の中の幸せがはたしてどれほど続くかは分からない。

 きっとまた何度も今度のようなことを繰り返すに決まっている。

 由鷹は私を愛してはいない。もっと辛い思いをして、傷つき、別れることになるかもしれない。けれど、それでもこのときだけは信じたかった。このぬくもりは愛だと。


 たとえ、このとき限りの錯覚であろうとも。

 それでも。


 由鷹と再び巡りあった雨の中。そんな、泣きたくなるような悲痛な思いを私はかみしめていた。






【雨の向こうに 了】

ここまでご読了いただきまして、ありがとうございました。


ピアスの件は、栄理子の誤解です。栄理子へのプレゼントとして買っていたのを、尻ポケットに突っ込んでいたせいで片方転がっていたのです。

「あ、片方なくなってる。どこで落としたかな? まあいいや」と、片方だけになったので渡さず部屋で放り投げています。

栄理子がピアスをしていない、イヤリングの人なのも気付かず、「これ似合いそう」と思っただけで買っています。

由鷹は基本、無精人というか、ただズボラなだけです……。

栄理子は恋で目がくらんでいるだけです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ