その知らせは、あまりに静かで
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、
八十五年前の、とある冬の朝の出来事を描いたお話です。
静かな境内に訪れた、
小さくて、けれど取り返しのつかない「知らせ」。
少し重たい内容になりますが、
彼らの記憶のひとつとして、
見届けていただけましたら幸いです。
八十五年前――三月。
朝の空気は、まだ冬だった。
白い息が、ゆっくりとほどける静かな朝だった。
その日も、
いつもと変わらない一日になるはずだった。
吐く息が白く、
境内の石畳には、薄い霜が残っている。
鳥の声さえ、やけに遠い。
その静けさを破るように――
石畳を踏む、
乾いた二人分の足音が澪斗の耳に届いた。
規則正しい足取りが、
静かな境内にやけに大きく響く。
誰か来たのだろうかと顔を上げると――
参道の先に、
見慣れない二つの影が立っていた。
二人は辺りを見回し、
やがて澪斗の姿に気づく。
目が合った瞬間、
迷いのない足取りで、まっすぐこちらへ歩いてきた。
そして。
澪斗の前まで来ると、二人は足を止めた。
片方の男が、
一歩だけ前に出る。
年の頃は三十代半ばほどだろうか。
きちんと整えられた服装に、
どこか落ち着いた空気をまとっている。
「おはようございます。朝早くに失礼します」
軽く頭を下げ、
穏やかな声で名乗った。
「私は、役場の者です」
それから、
隣に立つ男へ視線を向ける。
「こちらは、在郷軍人会の方です」
簡潔な紹介だった。
隣の男も、
無言のまま、深く一礼する。
背筋だけが、
不自然なほどまっすぐだった。
そして――
役場の職員は、
澪斗へと視線を戻し、
少しだけ声をやわらげて、
静かに問いかける。
「……ごめんね。
雫さんは、いるかな?」
穏やかな声だった。
けれどその奥に、
どこか悲しみが混じっている。
澪斗は一瞬だけ首をかしげ、
それから素直に頷いた。
「はい。呼んできます」
ただそれだけの、ありふれたやり取り
――のはずだった。
澪斗はくるりと踵を返し、
拝殿のほうへ駆け出す。
いつもと同じ朝。
だけど今日は知らない来客。
澪斗
(なんでだろう……胸の奥がざわりと落ち着かない)
冷たい水を飲み込んだみたいに、
喉の奥が、ひやりとした。
雫の元へ向かう足が、
ほんの少しだけ鈍り、
澪斗はもう一度振り返る。
石畳の上、
悲しそうな表情で立つ役場の男と、
微動だにしない、もう一人。
二人から僅かに感じる疲労と、痛ましい穢……
朝の光の中で、
その僅かな穢だけがやけに黒く見えた。
澪斗の中で胸騒ぎが、
今度ははっきりと形になる。
(……どうしよう……今は僕と雫様しかいないのに……)
――この頃。
葵と静音は、
各地の神社の眷属たちと協力し、
戦や空襲で
望まぬ死を遂げた魂が悪鬼と化し、
各地を彷徨っている件で討伐に出ていた。
穢れが濃くなるほど、
悪鬼は増える。
放っておけば、
人も、土地も、飲み込まれてしまう。
だから二人は、
ほとんど神社に戻れない日々が続いていた。
龍神神社を預かっていたのは――
澪斗と、雫。
まだ若い、
二人だけだった。
いつもなら、
境内のどこかに葵がいて。
本殿の奥には、
静音の気配がある。
それだけで、
この場所は「守られている」と安心できた。
けれど、今日の朝は違った。
胸の奥に、
言葉にできない不安が澪斗に湧き上がった。
だから、
このまま雫だけを呼びに行くのが、
どうしても、正しい気がしなかった。
澪斗は足を止める。
そして、
そっと境内の端に視線を向けた。
石灯籠の陰の落ち葉の下、
「……おいで」
小さく呼ぶと、
かさ、と乾いた音がして、
細長い影がするりと姿を現した。
白蛇だった。
この社に棲みつく小さな使者。
澪斗はしゃがみ込み、
その頭をそっと撫でる。
「兄様と、姉様に伝えて」
「役場の人が来てる。
……なんだか、嫌な感じがするって」
自分でもうまく説明できない。
けれど、
この胸騒ぎだけは、
無視しちゃいけない気がした。
白蛇は、
澪斗の指先に鼻先を寄せると、
するりと身体を翻す。
次の瞬間には、
石垣の隙間へ溶けるように消えていた。
静かな朝。
何も起きていないはずなのに。
心だけが、
ひどく騒がしかった。
澪斗は小さく息を吸い込み、
今度こそ拝殿へ向かって走り出した。
澪斗に呼ばれ、
雫は拝殿の奥から姿を現した。
左手に杖をつきながら、
少しだけ不器用な足取りで。
「来客? 私に?」
首をかしげながら、
澪斗のほうへ歩み寄る。
けれど、
いつもより急ごうとして――
足先が石畳に引っかかった。
ぐらり、と身体が傾く。
澪斗
「危ないっ!」
はっとして駆け寄り、
とっさに雫の肩を支えた。
雫
「わっ……ありがとう、澪斗」
胸をなで下ろすように、
小さく息を吐く。
「……お客さんって、
知ってる人?」
澪斗は首を横に振った。
「ううん……知らない人でした」
それだけ答えて、
そっと雫の手をきゅっと掴む。
小さな手が、
いつもより少しだけ強い。
「……僕が支えますから、
気を付けて行きましょう」
それだけ言って、
今度はゆっくり、歩幅を合わせて歩き出す。
雫は一瞬だけ目を丸くしたが、
「もう、転ばないよ」と
困ったように笑って、
ぎこちない足取りのまま、
澪斗の手に引かれてついていった。
境内の空気が、
いつもより冷たい気がした。
白い息が、
ふたりの間でゆっくりほどけていく。
石畳を踏む足音だけが、
やけに大きく響いた。
澪斗に支えられながら境内に着くと、
そこで待っていたのは見知った役場の職員だった。
何度か顔を合わせたことのある、
穏やかな男。
雫
「なんだ〜中村さんじゃないですか、おはようございます!
今日はどうしたんですか?
あっ!避難者の受け入れならもう家は満員で無理ですよ!」
軽く会釈を交わし、
世間話をはじめた雫に中村は、
中村
「雫さんおはよう。
この間は避難者の受け入れありがとうございました……」
そこで一度、
言葉が途切れた。
中村は視線を落とし、
帽子のつばを、ぎゅっと握りしめる。
その指先が、
わずかに震えていた。
それから中村は、
何かを言おうとして――
けれど、
声が出ない。
ほんの数秒。
それだけの沈黙なのに、
やけに長く感じられた。
中村
「それで、今日はね、その大事な知らせがあってね……」
中村が言いづらそうにしていると、
雫は、ふと
その隣に立つ、もう一人の男に――
視線を向けた。
見覚えが、ない。
この辺りでは見ない顔だった。
年の頃は父より少し上だろうか。
背筋だけが妙にまっすぐで、
表情は固く、
制服の襟元には、見慣れない徽章が光っている。
雫
(……誰だろう?)
中村の隣の人物は
雫と目が合うと、
佐藤
「はじめまして、私は
在郷軍人会の佐藤と申します。」
静かな声だった。
言い終えると、
背筋を伸ばしたまま、
深く、きれいな一礼。
その所作があまりに無駄のない動きで、
雫は思わず慌てて頭を下げる。
雫
「失礼致しました!
私はこの神社の者で水島雫と申します。」
雫は頭を上げると、
佐藤は真っすぐに雫を見つめていた。
逃げ場を与えないほど、
まっすぐな視線だった。
佐藤
「水島雫さん、落ち着いて中村の話を聞いてください――」
その声音は、
低く、静かで、
感情を押し殺したように平坦だった。
それから佐藤は中村に目配せをすると、
中村は意を決したように話し出した。
―――
中村の話を聞き終えた雫は、
すぐには理解できなかった。
言葉が、
音として耳に入ってきただけで、
意味にならない。
胸の奥が、
すう、と冷えていく。
何かを言われたはずなのに、
何も残らない。
ただ、
世界の音だけが遠ざかっていった。
雫は、
その場に立ったまま、固まった。
隣で支えていた澪斗も、
同じように動けない。
信じられないものを見るような顔で、
ただ佐藤を見上げている。
誰も、言葉を発せなかった。
重たい沈黙が、
境内に落ちる。
風の音さえ、
やけに遠い。
その空気に耐えきれなくなった中村は、
唇をきつく結び、
震える手のまま、
ゆっくりと、読み上げた一枚の紙を、両手で雫へ差し出す。
薄くて、
あまりにも軽いはずなのに。
それを受け取った雫は、
紙を持つ指先が、小さく震えていた。
そしてもう一度自分の目で確かめる……
それは、
『第32軍歩兵第89連隊所属
水島洋殿
水島洋一殿
右、☓月☓日、戦闘において戦死されました。
ここに謹んでご通知申し上げます。』
雫がずっと帰りを待ちわびていた父と、
兄の戦死公報だった――
呆然と立ち尽くす雫と澪斗に、
中村と佐藤は小さく声をかけ、
そのまま帰って行った。
二人の背中が、
鳥居の向こうへ消えていく。
完全に見えなくなったところで――
雫は、
膝から崩れ落ちるように、
その場に尻もちをついた……。
支えていた澪斗も、
もつれるように倒れ込む。
自分の鼓動が、
やけに耳に響く。
雫
(えっ……お父様とお兄様が、戦死……?)
雫は、
もう一度、戦死公報を見る。
何度見ても、
そこには
水島洋・洋一
の名前が、
はっきりと書かれていた――。
そして雫は、
ようやくこれは嘘ではなく、
ほんとうのことなのだと、
理解し始めた、その時。
手の甲に、
ポタリと一粒の滴が落ちる。
落としたのは、
必死に雫を支える澪斗だった。
澪斗
「ふっ……ぐっ……雫様……ごめっ……なさ……
洋様と……洋……一……様が……っ」
澪斗の様子を見て、
雫の瞳にも一気に涙が湧きあがる。
雫
「っ……ふっ……ぐっ……澪……斗!
お父……様と……っお兄様が……っぐ……」
澪斗
(必ず帰ってきてくれるって……
また遊んでくれるって……
二人とも約束してくれたのに……)
洋は、
幼い眷属の澪斗をよく気遣い、
神具の磨き方や箒の使い方などを、
いつも優しく教えてくれた。
洋一は、
静音や葵が外任務に出た際、
澪斗が淋しくならないようにと、
よく雫と一緒に遊んでくれた。
雫
(なんで……
帰ってきてくれるって言ったのに、お父様……
どうして……?
やだ……やだ……やだっ……!)
雫の頬を、
涙がとめどなくこぼれ落ちる。
それから、
雫は隣の澪斗を見る。
雫
「み、澪斗……
お父様も……お兄様も……
もう……会えな……い……」
そうこぼしながら、
雫は澪斗を抱きしめ、
声を上げて泣いた。
澪斗もまた、
雫を抱きしめ返しながら、
声を上げて泣いた。
二人の悲痛な泣き叫ぶ声だけが、
静かな境内に、
いつまでも、
いつまでも響き続けたのだった――。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。
戦火の時代には、
大きな出来事の陰で、
こうした「静かな別れ」が
数えきれないほどあったのだと思います。
少しでも心に残る回になっていましたら嬉しいです。
これからも物語を、
あたたかく見守っていただけたら幸いです(*´ω`*)




