もし、あの時――
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、
雫の過去と、あの日の選択に繋がるお話です。
静かで穏やかな時間の中に、
少しずつ影が落ちていく――
そんな回になっています。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
そして――
私たちは、雫にすべてを話しました。
雫
「えっ……それじゃ……今の私、
お母様の記憶がないということですか……?」
小さく息を呑む音。
戸惑いに揺れる瞳が、
まっすぐ葵を見つめる。
責めるでもなく、
怒るでもなく。
ただ、
置いていかれた子どものように、
静かに確かめる視線だった。
その優しさが、
かえって胸に刺さる。
けれど葵は、
その瞳を受け止めることができず、
そっと逸らしてしまった。
視線の逃げ場を探すみたいに、
握った拳に、じわりと力がこもる。
葵
「……すまない、雫」
掠れた声。
葵
「私は……
あの時の私は、それが雫にとって最善だと、
勝手に思い込んでしまった」
言葉にするたび、
胸の奥の後悔が形を持っていく。
葵
「静音や澪斗にも叱られて……
今なら分かる。
とても愚かなことをしたと」
喉が、ひどく乾く。
唾を飲み込む音さえ、
やけに大きく響いた。
葵
「瓦礫に埋もれて、
血にまみれて、
混乱しているお前を見て……」
あの日の光景が、
まぶたの裏に焼き付いて離れない。
小さな体。
震える手。
葵
「そこに清の死まで重なったら、
心が壊れてしまうんじゃないかと……」
「それが……
どうしようもなく、怖かったんだ」
守りたかった。
ただ、それだけだった。
守りたかったはずなのに。
結果として、
一番大切なものを、
奪ってしまった。
部屋に、沈黙が落ちる。
誰も責めない。
誰も怒らない。
だからこそ、
痛いほど苦しかった。
静音はそっと視線を伏せ、
袖を握りしめる。
澪斗も、
何も言えずに唇を噛んでいた。
冬の朝みたいな、
静かな空気。
凍えるほど優しくて、
胸の奥だけが、じんわりと熱い。
雫は、
しばらく黙ったまま――
ゆっくりと、
小さく息を吐いた。
雫の様子を見つめていた静音は、
そっと一歩、近づいた。
壊れものに触れるみたいに、
声を落とす。
静音
「……雫。大丈夫ですか?」
名前を呼ばれて、
雫はゆっくりと顔を上げた。
どこか遠くを見ていた瞳が、
ようやく焦点を結ぶ。
けれどそこにあるのは、
涙でも怒りでもなく――
ただ、
静かな戸惑いだった。
雫
「……すみません。
ちょっと、頭の中が……追いつかなくて……」
小さく笑おうとして、
うまく笑えずに、視線を落とす。
指先が、袖をきゅっと握りしめた。
静音は、
胸の奥がちくりと痛むのを感じながら、
言葉を探していた。
すると――
雫
「……どうして、今になって話してくれたんですか?」
小さな声。
責めるでもなく、
ただ理由を知りたい、という響きだった。
その優しさが、
かえって胸に刺さる。
静音は、
そっと息を吸った。
静音
「最初は……
雫が、無理に聞かないようにしているんだと思っていました。
現実から目を逸らしているのかと」
「でも……
最近の雫、少し様子が違っていて」
「だから、兄様を問い詰めたんです。
それで……全部、分かりました」
雫は驚いたように目を瞬かせ、
それから小さく呟く。
雫
「……そう、だったんですね」
しばらく沈黙が落ちた。
風が障子を揺らす音だけが、
かすかに響く。
静音は、
そっと問いかけた。
静音
「……雫。
清様のこと……思い出したい、ですか?」
その一言に、
雫の肩がぴくりと震えた。
視線が揺れる。
唇が、わずかに噛みしめられる。
答えが出ない子どもみたいに、
指先が迷う。
雫
「……正直、
自分でも分からないんです」
「思い出したい気持ちも、あります。
でも……」
声が、細くなる。
雫
「葵様の言う通り……
きっと、受け止めきれない気もして……」
「立ち直れなくなるかもしれないって……
ちょっと、怖くて……」
小さく笑った。
泣きそうなのに、
無理に笑う顔だった。
雫
「……だから。
このまま封じておいてくれたほうが、
いいのかもしれません」
その笑顔は、
どこまでもやさしくて。
どこまでも、切なかった。
笑っているのに、
声の奥だけが、かすれていた。
雫はふと顔を上げた。
雫
「……封じたのは、
母のことだけ、なんですよね?」
葵は静かに頷く。
葵
「誓って。
清のことだけだ」
その一言に、
雫の表情が、わずかにやわらいだ。
ほっとしたように、
胸に手を当てる。
雫
「……よかった」
「お父様とお兄様は……
まだ、生きているんですよね」
「帰ってきていないだけで……」
その声音には、
子どもみたいな安堵が混じっていた。
その様子を見つめながら、
静音はそっと尋ねる。
静音
「……さっちゃんのことは、
覚えていますか?」
雫は驚いたように瞬きをして、
そして小さく頷いた。
雫
「……はい。
覚えてます」
少しだけ、
遠い目をする。
「本当は……
認めたくなくて。
だから、話題にしなかっただけで」
「薄々は……
分かってました」
指先が、ぎゅっと重なる。
「幼馴染のさっちゃんでさえ……
そうなってしまったのに」
「母のこととなったら……私はきっと……」
そこで言葉が途切れた。
代わりに、
寂しそうな笑みが浮かぶ。
雫
「……葵様は、
私のこと、よく分かっていますね」
――現在
静音
「……話し合いの末に、
記憶は封じたままがいいと……
雫自身が、そう希望しました」
一度、言葉が途切れる。
静音は、
胸の奥を押さえるみたいに、
小さく息を吐いた。
「……今にして思えば」
「この選択が……
取り返しのつかない結末に、
繋がってしまったのだと思います」
真白
「取り返しのつかない結末……ですか?」
静音は、
静かに頷いた。
「はい……」
視線が、
遠い過去を見るように揺れる。
「そこから半年ほどは……」
「雫も、
体の使い方の訓練やお勤めを続けながら、
不自由な体でも、
上手く工夫して暮らしていました」
――あの頃は、まだ。
笑うこともできていた。
弱音も吐かず、
『大丈夫です』と、
あの子はいつも先に微笑んでみせた。
静音
「ですが……」
静音の声が、
わずかに沈む。
「本土への空襲が月に一度から、二度へと増え」
「配給も、どんどん少なくなって……」
拳が、
きゅっと握られる。
「人の子である雫には……」
「飢えと、
いつ鳴るか分からない空襲警報が、
想像以上に心の負担になっていました。」
――眷属は飢えない。
――恐怖にも、ある程度耐えられる。
けれど。
雫は、ただの少女だった。
「神経をすり減らす日々の中で……」
「穢れが……
少しずつ、
少しずつ……」
「雪みたいに、
降り積もっていったんです」
境内が、
しんと静まる。
それでも――
雫は、止まらなかった。
空襲で家を失った者。
親を亡くした孤児。
怪我を負い、行き場をなくした人々。
日に日に増えていく人の波を、
龍神神社は、ひとつひとつ受け入れていった。
拝殿には簡易の寝床が並び、
薬草の匂いと、包帯の白が目につくようになり、
夜になれば、どこかで必ず子どもの泣き声がする。
それでも――
弱音ひとつ吐かず、
「大丈夫です」と笑って、
治療を手伝い、
炊き出しをし、
不自由な体をかばいながら、
それでも休もうとしなかった。
まるで、
自分が傷ついていることなど、
忘れてしまったみたいに。
静音は、
ぎゅっと膝の上で手を握りしめる。
静音
「……そんな、ある日のことでした」
視線が落ちる。
過去を思い出すたび、
胸の奥が鈍く軋む。
静音
「主神様から……
日の本の戦況が、激しくなりそうだから」
「契約の一族は……
疎開したほうがいい、と助言があったのです」
あの時の空気が蘇る。
重くて、
嫌な静けさだった。
「私も……葵兄様も……
澪斗も……」
「雫には、その方がいいと……
何度も、説得しました」
助かってほしかった。
ただ、
生きていてほしかった。
「……でも」
声が、かすれる。
「雫は……
首を、横に振ったんです」
縁が、そっと問いかける。
縁
「それは……どうしてなの?」
静音は、
一度だけ目を閉じた。
そして、
ゆっくりと言葉を落とす。
静音
「……清を忘れてまで、生きているのに」
「龍神の誓約の一族として……
救いを求めて来た人たちを置いて、
自分だけ逃げるなんて、できないって……」
「それに、お父様とお兄様が帰る場所はここだからと……」
優羽が、小さく息を呑む。
優羽
「えっ……そんな……」
雫らしい。
あまりにも、
雫らしすぎる理由だった。
でも。
静音の指先が、
白くなるほど力がこもる。
「ほんとうは……違ったんです」
ぽつり、と。
「今なら、分かります」
唇が、震える。
「あの子は……優しかったんじゃない」
「優しすぎたんでも、ない」
「もぅ……壊れて、いたんです」
境内の空気が、
すっと冷える。
「清の記憶を封じたことで……」
「大切な人を失う、あの痛みが……
心のどこかから、抜け落ちてしまっていた」
声が、かすかに揺れる。
「だから……」
「恐怖も、悲しみも……」
「どこか、他人事みたいで……」
「現実味を、持てなくなっていたんです」
――ある日のことです。
裂くような低音が響いた。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥ――――
腹の底に沈むような、
鈍く、重い唸り。
空襲警報の、試験音。
分かっている。
これは訓練だと。
本物ではないと。
それでも。
音が鳴った瞬間、
体の奥がひやりと冷えた。
胸が、
勝手に強く脈打つ。
遠くで、
子どもの泣き声が上がる。
誰かが、
「試験だ、試験だから大丈夫だ」と
繰り返している。
けれどその声さえ、
どこか震えていた。
音は、
容赦なく空を這い、
町中を包み込む。
まるで、
「次は本物かもしれない」と
脅し続けるみたいに。
静音は、
無意識に拳を握っていた。
隣では、
澪斗が耳を押さえ、
わずかに顔を強ばらせていた。
境内の空気は、
ずっと張り詰めたままでした。
葵
「……雫」
珍しく、
兄様の声が硬かった。
「疎開の件だが……
やはり、お前も移動するべきだ」
「主神様のご意志でもある。
これは命令に近い」
雫は、
薬箱を抱えたまま顔を上げた。
きょとん、と。
本当に不思議そうな顔だった。
雫
「……私が、ですか?」
葵
「そうだ」
「ここは、もう安全とは言えない。
空襲の回数も増えている。
配給も底が見えてきた」
「人の子であるお前には……
負担が大きすぎる」
淡々とした説明。
けれど、
その指先は、強く握られていた。
必死に、
感情を押さえ込んでいるのが分かる。
雫は、
しばらく黙っていた。
それから。
小さく、首を横に振った。
雫
「……嫌です」
即答だった。
迷いのない声。
葵の眉が、ぴくりと動く。
葵
「雫。これは我儘を言っていい話ではない」
雫
「我儘じゃありません」
「ここには、
助けを待ってる人が、たくさんいます」
「怪我をした人も、
家族を失った子も……」
「私だけ、安全な場所に行くなんて……できません」
静かな声だった。
ただ、当たり前のことを言うみたいに。
それが、
余計に苦しかった。
葵
「お前が死んでしまったら、元も子もないだろう!」
思わず、
声が荒れる。
拝殿の空気が、びり、と震えた。
雫は、
少しだけ目を丸くする。
怒鳴られたことよりも、
葵が取り乱したことに驚いたように。
葵は掠れた声で、
葵
「清も……
お前の母も……
私は守れなかった」
「これ以上……
お前まで失うくらいなら、
恨まれようとも、嫌われたとしても
雫が生きていてくれれば、それでいい!」
それは、
懇願だった。
命令でも、
説得でもなく。
ただの、
兄の願いだった。
けれど。
雫は、
ゆっくりと首を振った。
雫
「……葵様、それはできませんよ……」
困ったように、
少しだけ笑う。
その笑顔が、
ひどく大人びて見えた。
雫
「私……
お母様のこと、忘れてまで生きてるんですよ」
「それなのに」
「龍神の誓約の一族として、
助けを求めて来た人たちを置いて、
自分だけ逃げるなんて……」
「そんなこと……人として嫌なんです。」
胸が、
ぎゅっと締めつけられる。
雫
「それに、お父様とお兄様が帰ってくる場所は、
ここです」
「だから私は……
ここにいます」
当たり前みたいに、
そう言った。
まるで。
自分の命の重さだけ、
どこかに置き忘れてきたみたいに。
葵は、
それ以上、言葉を続けられなかった。
拳が震える。
怒りじゃない。
恐怖でもない。
どうしようもない、
無力感だった。
静音は、
少し離れた場所で、
ただ二人を見ていることしかできなかった。
あの時――
どうして私は、
もっと強く止めなかったのだろうと。
今でも、
何度も、何度も思うのです。
もし、あの時――
ほんの少しだけ、
違う選択をしていれば、と。
そして、あの日。
雫の父と兄の戦死公報が届き、
その夜。
大空襲が、すべてを焼き払い――
雫が雫でなくなってしまった。
私は、今でもあの日を――
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
守りたかったもの。
守れなかったもの。
そして、選んでしまった道。
雫と静音、そして葵の後悔が、
少しでも伝わっていたら嬉しいです。
次回、あの日の出来事をもう少し詳しく描いていきます。
引き続き見守っていただけましたら幸いです。(*´∀`)




