忘却の守護 ― 守るために奪ったもの ―
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、雫が目を覚ました後のお話。
失ったものと、残されたもの。
そして「守る」という選択についての回になります。
静かな朝の物語ですが、
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
――あたたかい。
最初に感じたのは、
やわらかな温もりだった。
身体の下に、ふかふかとした感触。
どこか懐かしい、
包み込まれるような匂い。
布団の中だった。
薄く閉じた瞼の向こう、
淡い光が、赤く滲んでいる。
朝――だろうか。
遠くで、
規則正しい音がする。
すう……
すう……
静かな寝息。
自分のものか、
それとも、誰かのものかも分からない。
ただ、
その穏やかな呼吸の音が、
「ここは安全だ」と
そっと教えてくれていた。
意識は、
まだ深い水の底のように重い。
浮かび上がろうとしては、
また沈みかける。
けれど――
指先に、
かすかな感覚が戻ってきた。
ぴく、と。
ほんのわずかに、
何かが触れた気がする。
温かい。
誰かの体温。
そっと、
握られているような。
(……あ……)
胸の奥で、
小さな鼓動が跳ねた。
ゆっくりと、
息を吸う。
肺に空気が満ちる。
生きている。
その実感が、
少しずつ、身体に広がっていく。
まぶたが、重い。
それでも。
ほんの少しだけ、
世界を見たくなった。
雫は、
かすかに、瞼を持ち上げる――
薄く、光が滲んでいた。
白い天井。
見慣れた、木目の梁。
ゆらゆらと、
視界の端がまだ揺れている。
雫は、
ただぼんやりとそれを眺めていた。
――どこ……?
考えようとして、
思考がゆっくりと浮かび上がる。
身体は重い。
けれど、
昨日のような焼けつく痛みは、ない。
静かだ。
不思議なくらい、静かだった。
(……あ……)
次の瞬間。
記憶が、波のように戻ってくる。
瓦礫。
炎。
迷子の子。
抱きしめた感触。
落下。
衝撃。
動かない身体。
――死ぬかもしれない、と。
そして。
「雫!!」
葵の声。
雫は、
ゆっくりと瞬きをした。
取り乱す気持ちは、
不思議と湧いてこなかった。
ただ、
事実だけが、
淡々と胸に並んでいく。
(……助かったんだ)
(葵様が……見つけてくれた)
そう理解すると、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
そこで初めて、
視線を横へ向ける。
畳の上。
布団の脇。
そこに――
葵がいた。
壁にもたれるように座ったまま、
眠っている。
腕を組んだまま、
首が少し傾いている。
きっと、
ずっと起きていたのだろう。
少し離れた場所には、
静音と澪斗も。
寄り添うように、
同じ空間で眠っている。
皆、
ひどく疲れた顔で。
それでも、
ここにいる。
雫は、
そっと息を吸った。
肺に空気が入る。
胸が上下する。
指先に、
布団の感触がある。
(……ああ)
(私……生きてる……)
その実感が、
静かに、胸に広がった。
それから――
雫は、
自分の身体へ視線を落とす。
右側。
布団のふくらみが、不自然に途切れている。
包帯。
厚く巻かれた白。
右腕。
少しの沈黙。
雫は、
じっとそれを見つめた。
(……そっか)
(潰れた所……)
痛みはない。
たぶん、
術で止めてもらったのだろう。
葵の顔が浮かぶ。
必死な横顔。
震える手。
それを想像して、
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
悲しい、というより。
申し訳ない、が近い。
(……心配、かけちゃったな)
指を動かそうとして、
右が動かないことを確かめる。
でも。
パニックにはならなかった。
失ったものより先に、
残ったものを数えていた。
(……全部なくなったわけじゃない……
まだ、できることはある)
守ること。
支えること。
形が変わっただけだ。
終わりじゃない。
雫は、
小さく息を吐いた。
そして、
もう一度だけ、
眠っている葵たちを見て、
(みんな……ありがとう……)
そっと、
微笑んだ。
――――――――――
指先が、微かに震えている。
「……すまないっ……雫……」
小さく、呟く。
「……右手は……っ……
龍神の治療術でもだめだった……
残してやれなくて……
すまない……」
雫
(葵様達は何も悪くないのに……それに
右足は残してくれたんだ……)
雫は、少しだけ困ったように笑う。
「……葵様、助けに来てくれてありがとうございます。」
「それに……誰も悪くなんかないです……それに私生きてます……」
布団の中で、
左手を、ほんの少し持ち上げる。
「……帰って、来られました」
その言葉に、
葵は、もう何も言えなかった。
ただ、
そっと。
壊れ物に触れるみたいに、
雫の手を、両手で包み込んだ。
その体温が、確かで。
温かくて。
生きていて。
葵は、目を閉じた。
朝の光が、
二人の間に、静かに落ちていた。
それから数カ月後――
雫は、不自由になった身体と向き合いながら、
静かに日常へ戻ろうとしていた。
社務所の廊下。
片足に体重をかけ、
杖に手を添えながら、
ゆっくりと、一歩。
また一歩。
ぎこちない足取り。
それでも、
歩みは止まらない。
「……大丈夫です。
もう少し、ひとりでやってみます」
差し出された静音の手に、
雫は小さく笑って首を振った。
右袖は、空白のまま揺れている。
それでも、
その背筋はまっすぐだった。
掃除も、
祈祷の準備も、
できることから、少しずつ。
澪斗が重い物を運び、
静音が細かな作業を代わる。
三人で、
当たり前みたいに役割を分け合っていた。
穏やかな時間。
まるで、
あの日の出来事が嘘だったみたいに。
――けれど。
静音だけが、
胸の奥に小さな違和感を感じていた。
(……おかしい)
昼餉の支度中。
何気ない会話。
「昔、清様がよくこの味付けを……」
と澪斗が言いかけて、
ふと口をつぐむ。
雫は、
首をかしげただけだった。
「……清様?」
きょとん、と。
本当に知らないみたいな顔。
静音の手が止まる。
忘れようとして、
忘れられる存在じゃない。
雫にとって、
尊敬する師であり、憧れであり、
誰よりも背中を追い続けてきた母親のはずなのに。
目の前の雫は、
ただ首をかしげている。
知らない名前を聞いた時みたいに。
他人の昔話を聞くみたいに。
その瞳に、
痛みも、
懐かしさも、
戸惑いすらない。
まるで――
母親という存在だけが、最初からこの世界に無かったみたいに。
ぞくり、と。
別の日。
縁側には、やわらかな昼の光が落ちていた。
雫は、柱にもたれながら、
足袋を履く練習をしている。
慣れない左手だけで、
布をつまみ、
ゆっくりと引き上げる。
何度も滑って、
何度もやり直して。
それでも、
どこか楽しそうだった。
「……ここ、持ちにくいですね」
小さく笑う。
その隣で、
静音は黙って見守っていた。
手を貸そうと思えば、
すぐ貸せる距離。
けれど、
あえて何も言わない。
自分で出来るようになることが、
雫にとって大事だと分かっているから。
指先が、そっと膝の上で組まれている。
穏やかな時間だった。
風が、す、と縁側を抜ける。
その時。
雫が、ふっと笑った。
雫
「ふふっ、懐かしいですね」
「昔はよく静音に
『足袋くらい一人で履けるようにならなくてどうするのですか!』
って怒られてましたね!」
――その瞬間。
雫の指先が、ぴたりと止まった。
そして、
自分のものじゃないみたいに、
小さく震え出す。
雫の声だけが、
やけに鮮明に耳に残る。
確かに。
幼い頃の雫は、
足袋がうまく穿けず、
よく小言を言われていた。
泣きべそをかきながら、
縁側に座って。
「難しいです……」と、
情けない声を出して。
だけど。
それは。
静音ではない。
(……雫……)
喉が、ひくりと震える。
(それは……私ではなく……)
(清が……)
雫の前にしゃがみ込んで。
器用な手つきで、
優しく、けれど厳しく。
「巫女たるもの、自分の身支度くらい一人でなさい」
そう言っていたのは。
いつも、
清だった。
静音は、一度も。
そんなふうに、
雫を叱ったことなどない。
胸の奥が、
すうっと冷えていく。
まるで。
誰かが。
思い出をひとつひとつ、
別の人間に貼り替えているみたいに。
音もなく。
気づかれないように。
雫は、
本当に懐かしそうに笑っている。
作り笑いではない。
演技でもない。
心から、
そう信じている顔だった。
(……違う、忘れているんじゃない……)
その夜。
静音は、
社務所の裏手で葵を呼び止めた。
「……兄様」
低い声。
葵が振り返る。
「どうした、静音」
「雫のことです」
その一言で、
葵の表情が、わずかに強張った。
静音は、まっすぐ睨む。
「……なぜ、雫は……
清のことを、一度も聞いてこないのですか」
葵
「……」
夜風が、木々を揺らす音だけが響く。
「母親ですよ?」
「普通なら……
目覚めて、真っ先に確認するはずです」
「最初は……
現実を受け止められず、聞いてこないのだろうと思っていました」
「けれど……」
「もう、数か月です」
「あれから一度も……
清のことを気にする素振りすら、ないのです……!」
「雫は……まるで……」
言葉が、震える。
「……清が……母親が……」
「……最初から、存在しなかったみたいに……」
葵の視線が、
ゆっくりと逸れた。
その瞬間。
確信に変わる。
「……兄様」
声が鋭くなる。
「何を、しましたか」
長い、沈黙。
やがて。
葵は、絞り出すように言った。
「……封じた」
「……は?」
「雫の記憶から……
清のことだけを……一時的に」
空気が凍った。
「……どうして……」
「今の雫には負担が大きすぎる」
即答だった。
「手も失った……清も……」
「これ以上、あいつに何を背負わせろって言う」
「だから俺が――」
「勝手に決めたんですか?!」
静音の声が、
夜を裂いた。
「雫の人生ですよ?!」
「兄様が、選んでいいことじゃない!」
「守るって……!
記憶を奪うことなんですか?!」
葵の目が揺れる。
「俺は!……最善をっ!……」
「最善かどうか決めるのは雫です!」
「もっと……雫を信じてください……!」
どちらも、
雫を想っての言葉だった。
だからこそ、
引くことができない。
同じものを守ろうとしているはずなのに、
その想いは、噛み合わずにすれ違っていく。
静音
「兄様はいつもそうです……!
どうしてもっと雫を信じて上げないのですか……!」
葵
「だが!それで守れてきただろう!」
静音
「でも今回は違う!!」
葵
「静音!お前は分かっていない!
いや!お前には到底分かるまい!
自分の半身のように愛してやまない存在が
目の前で心壊れるさまをただ見ているだけなのが、
どれほど苦しいか!」
静音
「なんと!兄様は半身のように愛しいと仰りながら
何もできない自分の苦しみから逃れる為に
清の記憶を勝手に消してしまっただけではないのですか?」
「それは雫のためじゃなく
兄様自身の自分勝手な恐れのためです!!」
言い争いは、
次第に熱を帯びていく。
その時。
「……兄様?
姉様?」
間の抜けた声。
二人の動きが、ぴたりと止まった。
息を呑み、
ゆっくりと振り向く。
寝巻き姿の澪斗が立っていた。
目をこすりながら。
「……何事ですか……
こんな夜更けに……」
張り詰めていた空気が、
ふっと切れた。
葵と静音は、
はっと我に返る。
互いに視線を逸らし、
荒れた呼吸を押し殺すように、言葉を飲み込んだ。
静音
「……いえ」
葵
「……少し、話をしていただけだ」
ほとんど同時に、
取り繕うような返事が重なる。
ぎこちない沈黙。
澪斗は首をかしげたまま、
まだ眠たそうに瞬きをしている。
澪斗
「……そう、ですか……?」
事情は分からないが、
ただならぬ空気だけは感じ取ったらしい。
静音は、
小さく息を吐いてから、澪斗の背をそっと押した。
静音
「澪斗。冷えます。
中へ戻りましょう」
澪斗
「え? あ、はい……」
素直に頷き、
とてとてと歩き出す澪斗。
その背を見送りながら、
静音は葵の横を通り過ぎる。
すれ違いざま。
立ち止まらず、
前を向いたまま。
低く、静かに。
静音
「……兄様」
「この話の続きは……
また後で」
責めるでもなく、
許すでもなく。
ただ、真っ直ぐな声だった。
足音が遠ざかる。
残されたのは、葵ひとり。
夜気だけが、静かに肌を刺す。
葵は、その場に立ち尽くしたまま、
しばらく動けなかった。
胸の奥で、
静音の言葉が、何度も反響する。
それでも。
葵
「……私は……間違えてなどいない……
すべては、雫の心を守るために……」
言い聞かせるように、
小さく、呟く。
返事は、ない。
夜だけが、
静かに更けていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
守るための優しさが、
ときに別の痛みを生んでしまうこともある。
そんな想いを込めて書いたお話でした。
それでも彼らが選んだ道を、
これからも温かく見守っていただけたら嬉しいです。
また次回も、よろしくお願いします。(*´∀`)




