眷属が知った幸福
ただ、隣にいるだけで。
それが、永遠だと疑いもしなかった日々がありました。
これは、
眷属が初めて触れた――
静かな幸福の記憶です。
あの日、雫に思いを伝えたら、
雫はすごく驚いた後に、固まってしまった。
雫
「…………」
葵
「えっと……雫?」
(あれ?
もしかして同じ気持ちって思ってたのは
私の勘違い……?
もし、そうだとしたら
今、雫は返答に困って固まってる……?)
葵
「えっと……雫、ごめんね。
私にそんな事いわれても困るよね。
今のは忘れて――」
雫
「えっ!
そんな、嫌ですよ!
忘れません!」
葵
「えっ……
でも、私の告げた思いに困って
固まってし――」
雫
「違います!
私も葵様と同じ気持です!
ただ、その……と、突然だったので、
驚いてしまって……」
それから雫は、
自分の頬に――ぱん!と平手打ちをした。
突然のことに驚いた葵は、
思わず声を上げる。
葵
「雫!
何してるの?!」
赤く腫れた雫の頬に、
葵はそっと手を添えた。
雫
「痛いです……」
葵
「そりゃ、それだけ強く叩けば
痛いに決まってる。
赤くなってきてるじゃないか……」
そう言いながら、
頬をそっと撫でる葵の手に、
雫は自分の手を重ねた。
雫
「夢ではなかったのですね……
嬉しいです。
葵様が、私と……」
そう呟きながら、
雫は葵の胸に顔をうずめ、
甘えるように額をすりつけてきた。
予想外の雫の甘えに、
今度は葵が固まってしまい、
身動きが取れなくなる。
葵
(えっ……
雫、すごく積極的すぎない?
いや、待て。
人の子は、みんなそうなのか?)
戸惑いながらも、
葵は雫の背にそっと手を回し、
優しく抱きとめた。
すると――
今まで味わったことのない幸福感が、
胸いっぱいに広がっていく。
葵
(愛しい者を胸に抱くと、
こんなにも幸せな気持ちになれるものなんて……)
生まれて初めての感覚に驚きながらも、
葵はただ、その幸福感に身を委ねていた。
すると、
胸元に埋まっていた雫が顔を上げ、
葵を見つめながら言う。
雫
「ふふっ……
葵様、胸がドキドキしてますね」
そう言いながら、
葵の心音を確かめるように、
嬉しそうに耳をすり寄せ、目を閉じた。
葵
(なんだ、今の……
“愛しい”を越えた気がする……)
葵
「ねぇ、雫。
私は眷属だから……
人の子に、とてもとても好いていると伝えるとき、
なんて伝えたらいいのか、
教えてくれるかい?」
雫は葵を見上げ、
ぱちりと瞬きをした後、
にっこりと幸せそうに笑った。
そして、
内緒話をするように、
葵の耳元へ顔を寄せる。
雫
「それはですね――」
――――――
それからの毎日は、
穏やかで、
けれど確かに――
幸せに満ちた日々だった。
雫
「葵様!
お勤めも終わりましたし、
少しお話がしたいです!」
呼びかけながら、
雫は境内の奥へ視線を向けた。
そこには、
澪斗に治癒術を教えている
葵の姿があった。
葵
「雫、もうそんな時間か……
それじゃあ澪斗、今日はこれくらいで――」
澪斗
「嫌です!
まだ少し修行の時間はあります!
それまでは葵兄さんは僕のものです!!」
雫
「いいえ、澪斗……
葵様は、私のものです!」
澪斗
「はぁー!?
兄様は今、僕と修行の時間です!
ですから雫様は、終わるまで
ご自分のお部屋でお留守番していてください!」
言い合う二人を前に、
葵は小さく息を吐いた。
葵
「……二人とも。
そんなに声を荒らげなくてもいいだろう」
だが、その言葉は
二人の耳には、ほとんど届いていない。
澪斗
「兄様は僕の修行を見てくださっている最中です!
雫様は後にしてください!」
雫
「後、ですか?
葵様は“物”ではありません。
澪斗こそ、少しは譲るということを覚えてください」
澪斗
「……っ!」
雫
「それに――
私は、人の子ですから。
葵様と過ごせる時間は、
そんなに長くありません」
その一言に、
澪斗は言葉を詰まらせた。
澪斗
「……それは……」
葵は、
二人の間に流れた微妙な沈黙を感じ取り、
静かに膝を折って目線を下げた。
葵
「澪斗。
今日は、ここまでにしよう」
澪斗
「で、でも……」
葵
「治癒術の型は、
もう十分に身についている。
無理に続けても、身にならないよ」
そう言って、
澪斗の頭にそっと手を置く。
葵
「それに――
お前が真剣に励んでいることは、
ちゃんと分かっている」
澪斗は、
不満そうに唇を尖らせながらも、
やがて小さく頷いた。
澪斗
「……分かりました。
兄様がそう仰るなら」
一方、
雫は葵の言葉に、はっとしたように言葉を失った。
自分が口にした言葉を、
胸の中でもう一度なぞってみて――
ようやく、気づく。
(……私、少し……)
誰かを想う気持ちが強くなるあまり、
周りが見えなくなっていたことに。
雫は小さく視線を伏せ、
指先をきゅっと握りしめた。
雫
「……澪斗、ごめんなさい……
私、少し……大人げなかったです」
その声は、
叱られた子どものようでもあり、
けれど確かに、
自分を省みる静かな響きを帯びていた。
その様子を見ていた澪斗も、
気まずそうに唇を噛んだ。
澪斗
「……僕も、です。
兄様を取られるみたいで……
つい、意地になってしまいました……」
照れ隠しのようにそっぽを向きながら、
ぽつりと零したその言葉に、
年相応の幼さと、
それでも成長しようとする気配が滲んでいた。
葵は二人の様子を見渡し、
困ったように、けれど優しく微笑んだ。
葵
「……謝らなくてもいいよ。
二人とも、私を大切に思ってくれている。
それだけで、十分だ」
その言葉に、
雫は小さく息を吐き、
澪斗も肩の力を抜いた。
互いに顔を見合わせ、
気まずそうに――
けれど、どこか照れたように、
小さく頭を下げ合う。
言葉にしなくても、
ちゃんと伝わっていることがある。
境内には、
先ほどまでの張りつめた空気の代わりに、
穏やかな静けさが戻っていた。
最近――
雫から向けられる
自分への“独占欲”に、
葵は少しばかり悩まされている。
想われている。
必要とされている。
そのことを、
こんなにもまっすぐに向けられるのは――
長い時を生きてきたはずの私にとっても、
ほとんど初めての感覚だった。
雫と出会ってから、
私はいくつもの「初めて」を知った。
名を呼ばれるたびに、
胸の奥がわずかに高鳴ること。
視線を向けられているだけで、
なぜか心が落ち着かなくなること。
言葉のない沈黙の中でさえ、
触れられるのを待つように感じてしまうこと。
葵
(――こんな感情は、
人の子を守り導く者として生きてきた私には、
本来、必要のないものだったはずなのにな……)
それでも雫は、
それらを一つひとつ、私に差し出してくる。
与えられるばかりのその想いに、
私は戸惑いながらも、
少しずつ――
世界が広がっていくのを感じていた。
それに――
澪斗は自分と同じ眷属だ。
その生は長く、
共に過ごす時間は、
この先いくらでもある。
だからこそ、
人の子である雫と、
この短い時を少しでも共に過ごしたくて、
今日もまた、
その傍を選んでいた。
人の子である雫の生が、
いつか短く終わりを迎えるものだと、
知りながらも――
それでも、
その日が来るまでは。
ただ、
隣に在り続けたいと、
そう思っていただけだった。
この時の葵は、
ただ、
幸せだった。
そしてそれは雫にとっても幸せな日々だった……
雫
――葵様、私今お側にいられてとても幸せです――
この時の葵は、
ただ、幸せでした。
その幸福が、
どれほど脆いものかを――
まだ、知らなかったのです。




