【母のためのひととき】
毎朝の慌ただしさに追われ、つい感情的になってしまう――
そんな日常の中で、ふと立ち寄った神社で出会ったのは、心をそっとほどく存在。
忙しい日々の中に潜む、小さな優しさと癒しの物語です。
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朝の台所に、トーストが焦げる匂いが漂っていた。
「もう、早くしなさいって言ったでしょ!」
声が思ったより強く響く。
朝食の準備をする傍らで、子どもたちはまだ支度中だった。
片方は靴下を探し、
もう一人は筆箱の中身を床にぶちまけている。
(どうして毎朝こうなるの……?)
心の中でつぶやきながら、手は止まらない。
電子レンジの音が鳴り続けているのに気づき、慌ててドアを開ける。
お弁当の蓋を閉め、ポットのスイッチを切る。
やっと子どもたちは準備を終え、食卓につく。
しかし、二人ともマイペースでトーストをかじる。
一口食べては話し、一口食べては手を止める。
「お願いだから、早く食べて!」
焦りと疲労が胸に広がる。
子どもたちは小さく返事をして、ようやく食べ終える。
母はすぐに皿を流しへ運び、食卓のパンくずを手早く片付けた。
「早く、もう出るよ!靴履いて!」
けれど子どもたちはのんびりと口を拭き、
ランドセルを背負う手もゆっくりだ。
玄関に向かうころには、もう時計の針が出発の時間を指していた。
靴を履く手は遅く、焦る母の声がまた強くなる。
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玄関の扉を勢いよく閉め、息を整える間もなく外へ出た。
階段を駆け下り、子どもを送り出してから駅へ向かう。
途中、ふっと冷たい風に頬を撫でられ、わずかに呼吸を整える。
ようやく改札を抜けたとき、全身から力が抜けた。
(朝からもう疲れた……。)
肩にかけた鞄が、思ったより重い。
息を吐くたび、今日も一日が長く感じられた。
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オフィスのデスクに腰を下ろす。
パソコンの画面に映る数字やメールの通知が、頭の中で混ざり合う。
でも、ふと視線が窓の外の光に触れた瞬間、
朝の光景が脳裏に蘇る――
「お願いだから、早くして!」
子どもたちを急かす自分の声。
片付かない靴下、散らかった筆箱、焦げたトーストの匂い。
昨日もそうだった。
下の子は宿題をやらずにゲームに夢中で、
「やることやってからゲームしなさい!」と叱った。
上の子は遊びに行きたくて片付けもせずに飛び出し、怒鳴ってしまった。
一人で育てているから、余裕がない。
時間も手も足りなくて、感情のままに叱ってしまう自分を責める。
「怒らずに伝えるには、どんな言い方がいいんだろう……」
つい繰り返すその思考に、肩の力が抜ける。
(怒るのも、疲れるな……)
ため息が静かに漏れ、机の上の書類が現実に引き戻す。
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仕事終わりの午後。
朝の後悔を思い出しながら、ゆっくりと歩いていた。
駅から学童へ向かう道は、いつもより少し長く感じる。
街のざわめきの中で、子どもの笑い声がどこか遠くに響いていた。
(あの時、もう少し優しく言えたらよかったのに……)
心の中で繰り返すその言葉が、足取りを重くする。
そんなとき――ふと、視界の端に朱色がよぎった。
小さな路地の先に、鳥居が立っている。
(あれ……こんなところに神社があったっけ?)
何かに引かれるように、足が勝手に動いた。
境内けいだいへの石畳を歩く。
風が頬を撫で、心のざわめきが少しだけ静まった。
手水舎ちょうずやの水面がきらりと光る。
指先を濡らすと、冷たさと一緒に一日の疲れが流れていくようだった。
(こんな静けさ、久しぶりだな……)
本殿の前に立ち、そっと手を合わせる。
願い事をしようとしたけれど、言葉が見つからない。
ただ、心の奥から自然に浮かんできたのは――
(次は、怒らずに伝えられますように……)
その想いを胸の中で静かに繰り返す。
自分を責めるでもなく、誰かに許しを乞うでもなく、
ただ“そうなりたい”という小さな祈りだった。
その瞬間、鈴の音が微かに響いた。
顔を上げると、拝殿の奥に白い衣をまとった青年が立っていた。
穏やかな光に包まれ、まるで空気ごと柔らかくなるような存在。
「……少しお疲れのように見えますが、大丈夫ですか?」
声は風のように静かで、けれど心の奥に届いた。
その一言で、肩の力がすっと抜ける。
久しぶりに、誰かに気遣われた感覚が心に広がった。
(……こんなふうに、優しく声をかけられるの、いつぶりだろう)
「いいえ、大丈夫です」と小さく笑みを浮かべて答えた。
ふっと深呼吸をして、肩の力が少し軽くなる。
一日の疲れや焦りが境内の静けさに吸い込まれていくようだった。
小さな余白に身を置いたことで、心のざわめきが静まり、
自然と歩みは穏やかになった――
(せっかくだし、御守り買っていこうかな…)
御守りを手に入れようと社務所へ向かうと、
拝殿の横には「御守りをご購入の方には、縁側でお抹茶を楽しんでいただけます」と書かれた張り紙が目に入った。
張り紙に視線を向けながら選んだ御守りの代金を渡す。
中では、淡い羽織をまとったあどけなさを残す青年――紡ぎが少し緊張した様子で代金を受け取りながら。
「えっと……こちらをお求めいただいた方には、よろしければ縁側でお抹茶を……楽しんでいただけますがいかがですか??」
手元が少し震え、視線をちらりと落とす。
紡ぎは案内に慣れていないらしく、少し緊張した様子だ。
それでも、女性に安心してもらおうと、笑顔を作る。
女性はそのぎこちないけれど真剣な様子に、ふっと心が和らぐ。
(よかった……なんだか、ほっとするな)
思わず小さく声をかけた。
「…じゃあ、このあと少し縁側でお抹茶をいただいてもいいですか?」
紡ぎは少し声を震わせながらも、元気よく答えた。
「はい!もちろんです、どうぞこちらへ!」
手元をそわそわさせながらも、一生懸命笑顔を作って、女性を縁側へ案内した。
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ほどなくして、白衣に淡い羽織をまとった青年――真白が姿を現す。
「お参り、ありがとうございます。どうぞ、ここで少し休んでいってください」
湯気の向こうで微笑む真白の声が、そよ風に溶けた。
湯気のかなた、境内では数人の子どもたちが遊んでいた。
鬼ごっこをして、笑いながら駆け回る姿。
その無邪気な笑顔が、ふと胸の奥に刺さる。
女性は湯飲みを見つめたまま、小さく息をのんだ。
そして、ぽつりと漏らす。
「……子どもを叱るのが難しくて。
感情的に話しても伝わらないって分かっているのに、つい強く言ってしまうんです。」
言いながら、肩の力が抜けるのを感じ、思わず小さく息をつく。
目の奥が熱くなり、こらえていた涙がにじんだ。
真白は静かに頷く。
「叱るというのは、それだけ真剣に子どもたちと向き合っているということ。
愛がなければ、叱ることさえできません。」
女性は少し驚いたように真白を見る。
「……真剣に、ですか。」
「ええ。真剣に想っているからこそ、時に言葉が強くなる。
でもその後で“しまったな”と思えるなら、あなたの心はまだ優しさを失っていませんよ。」
真白は微笑みながら、そっと御守りを差し出した。
その瞬間、淡い光が一瞬だけ揺らぐ。
気づかれぬように、後悔の影が静かに祓われていく。
「こちら、子どもたちの健やかな成長を祈る御守りです。」
女性は両手で御守りを受け取り、深く息をついた。
胸の奥にあった緊張や焦りが、少しずつほどけていく。
涙がひとすじ頬を伝い、けれどそれは重さではなく、安堵の温もりだった。
「ありがとうございます……少し、心が軽くなった気がします」
真白はやわらかく微笑む。
「小さな“楽しかった”を聞いてあげるたびに、
子どもたちも少しずつ、あなたの声に耳を傾けてくれるようになります」
縁側でひと息ついた女性は、湯気の香りとお茶の余韻にうっとりしていた。
ふと時計に目をやり、顔をぱっと明るくする。
「あっ……!お迎えの時間、過ぎちゃう!」
御守りを手に立ち上がり、子どもたちを迎えに走り出す。
後ろ姿を見送りながら、真白はにっこりと微笑む。
(ふふっ……元気そうで、よかった)
淡い光が彼女の背中に残り、穢れは静かに消えていく。
今日も、誰かの小さな日常にささやかな救いが生まれていた。
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女性を見送り、静かな境内けいだいに戻った真白ましろは、隣に立つ紡ぎに目をやる。
「今日も無事に終わったね」
紡ぎは少し照れくさそうに、でも誇らしげに頷く。
「はい、真白ましろさま。あの方、元気そうでよかったです!」
真白は肩に手を置き、優しく笑う。
「今日のお抹茶、君の神気がしっかり込められていた。
本当に上手にできたね、初めてなのにここまでできるなんて、素晴らしいよ」
紡ぎは胸を張り、力強く答える。
「はい、真白ましろさま!これからも頑張ります!」
境内けいだいに柔らかな風が吹き、今日の小さな祈りが静かに積み重なっていく――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
日常の中で感じる小さな焦りや後悔も、少し立ち止まるだけで、心が軽くなる瞬間があります。
この物語が、皆さまの心にもほっとする余白を届けられていたら幸いです。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。(*´∀`*)




