【巫女編】・崩れゆく日々の中で
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村に広がる奇妙な病。
祈りと薬草に奔走する巫女たちの中で、
いつも支えてくれていた稲人の姿が見えなくなります。
静かに近づいていた“別れ”の気配を描いた回です。
——穏やかな日々が、静かに崩れ始めていた。
境内の空気は重く沈み、どこか湿った冷気が漂っていた。 巫女は祈祷を終えた帰り道、境内の入り口で稲人の姿を見つける。
「稲人様……村の皆は、今……どのような状況なのですか?」
巫女の声は疲労と不安を隠しきれず、かすかに震えていた。 稲人は眉を寄せ、苦しげに答える。
「病の勢いは増すばかりです。 子どもたちが次々と倒れ、老人たちも……息をするのさえ苦しそうで。 村の者たちは、不安と恐れで張り詰めています」
巫女は息を呑み、胸元をそっと押さえた。
「……もっと、祈らなければ…… どうにかしなければ……皆が……」
稲人は一歩近づき、静かに頭を下げる。
「巫女様。どうか……ご自身を追い詰めすぎないでください。 村は、巫女様に頼りすぎています。 お身体を壊してしまっては、元も子もありません」
巫女はかすかに微笑み、首を振った。
「私は、皆を守るためにここにおります。 祈ることをやめるわけにはいきません。 稲人様こそ……どうかお気をつけください。 病の気は……もう村全体を覆っています」
稲人は驚いたように目を見開き、やわらかな声で返した。
「巫女様こそ……。 どうか、ご無理をなさらないでください」
そのやり取りを、少し離れた場所から見つめていた巫女見習いが歩み寄る。
「姉様……大丈夫です!今は、私もおります!」
抱える祈祷具を胸に、凛とした眼差しで言う。
「まだまだ新米ではありますが…… 姉様のお側で、必ずお役に立ってみせます!」
巫女は驚きに目を瞬き、そして静かに笑みを浮かべた。
「繋……ありがとう。心強い言葉です」
稲人も深く頷く。
「巫女様には、強い味方が付いておられる。 どうか……その背を預けてください」
小さな沈黙が訪れる。 境内を冷たい風が通り抜け、落ち葉がひらりと舞った。
三人の影がゆっくりと重なる。
——この時、誰も知らなかった。 この小さな支え合いが、やがて大きな別れの前触れになることを。
村で奇妙な病が流行りだしてから—— 祈祷に薬草の調合、病床を巡る日々が続いた。
巫女たちは休む間もなく、夜も灯を絶やさず動き続けていた。
冷たい水で手を清めながら、巫女は隣に立つ繫へ目を向ける。
「繫、疲れは出ていませんか……? 体調に、変わりはありませんか?」
繫はぱっと顔を上げ、明るい声で微笑んだ。
「大丈夫です!姉様。 私、まだまだ元気いっぱいです! 姉様こそ……無理をなさっていませんか?」
巫女はかすかに微笑み、首を振った。
「私は大丈夫です。ただ……」
声が少しだけ曇る。
「……ここ数日、稲人様のお姿を見かけていなくて。 若者衆が姿を見せないのも、気にかかります」
繫も表情を曇らせ、そっと目を伏せる。
「……そうですね。 何か、良くないことが起きていなければ良いのですが」
その瞬間——
境内の門が、勢いよく開かれた。
「巫女様っ!! 頼みます、どうか!!」
息を切らしながら、若者衆の稲人の幼馴染が駆け込んできた。 顔は涙でぐしゃりと濡れ、肩は大きく震えている。
「た、頼みます……! あいつが……稲人が……倒れたんです……! 高い熱がずっと下がらなくて…… 流行り病の症状が、急にひどくなって……!」
巫女の血の気がすっと引く。
(稲人様が……?)
幼馴染は声を震わせながら続ける。
「巫女様と話すのは、本来は許されないと分かっています……! でも……もう、呼んでも答えてくれなくて…… どうか、どうか助けてください……!」
巫女は凍ったように立ち尽くしていた指を、 ゆっくりと動かし、幼馴染の肩にそっと触れた。
「——大丈夫です。 あなたの友は、必ず私がお守りします。 どうか、落ち着いてください」
その声は震えていたが、瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
——ここから運命が、大きく動き始める。
幼馴染の呼吸を整えさせていると—— 繫がまっすぐな瞳で巫女を見つめた。
「姉様……行きましょう。稲人様のもとへ」
巫女は強く頷き、棚から薬包みを掴む。
「案内を……お願いします」
「は、はい……! こっちです!」
幼馴染は涙を拭う暇もなく走り出し、 巫女と繫はその後を急いだ。
冷たい風の中、息を切らしながら山道を駆け上がる。
やがて——若者衆の集まる家屋の前に辿り着く。
中へ入ると、刺すような薬草と汗の匂い、 荒い息づかいの音が満ちていた。
「稲人……! 聞こえるか!」
布団に横たわる稲人は、 顔は真っ赤に焼けるようで、 息は浅く、目の焦点も合わない。
「……っ……は……はぁ……」
返事をしようとして、声にならない。
巫女は膝をつき、そっと稲人の手を取った。 その手は、驚くほど熱く、震えていた。
(……こんなにも……弱って……)
巫女は薬を口元へ運ぶが、 稲人はうまく飲み込む力も残っていない。 ただ、苦しげに息を繰り返すだけだった。
巫女は稲人の手を包み込み、そっと額へ寄せた。 指先に、ぽたりと涙が落ちる。
「稲人様…… 稲人様……どうして…… どうしてこんな……」
震える声で、何度もその名を呼ぶ。 熱に浮かされた稲人の浅い息づかいだけが、 静かな部屋に響いていた。
その時—— 稲人の指先が、かすかに動いた。
「……み……こさま……?」
巫女は息を呑み、身を乗り出した。
「稲人様! 目を……! よかった……本当によかった……!」
稲人は朧げな視線で巫女を捉え、苦しげに息を絞り出す。
「……近くに……来ないで……ください…… 病が……移って……しまう…… あなたが……倒れてしまったら……」
巫女は首を振り、手を離そうとしない。
「大丈夫ですよ、稲人様…… 私は神に仕える身です。 人より少しだけ、丈夫にできているのです。 だから……恐れずに、私の手を握っていてください」
稲人は残された力を振り絞り、巫女の手を強く握った。
「……俺は……巫女様のお側にいられて……幸せでした…… あなたに出会えたことが……生涯の誇りです…… ありがとう…… 本当に……ありがとう……」
巫女の喉が震え、熱いものがこみ上げる。 声にならない息が漏れた。
(そんな…… そんなこと……言わないでください…… 私だって……私だって——)
胸の奥で押し殺した言葉が、鋭く突き刺さる。 涙だけが静かにこぼれ落ちた。
巫女は震える息を整え、無理に微笑みを浮かべる。
「……それほど想ってくださるなんて…… ありがとうございます、稲人様……」
その言葉を最後に、 稲人の瞳から光が抜け落ち、 握った手から力がすっと消えていく。
「稲人様……? 稲人様……!! 返事を……返事をしてください……!」
返事はなかった。
(どうして…… 私は……こんなにも無力なの……)
その時。
「姉様……!」
背中を支えるように、繋が声を震わせた。
「姉様! 私たちが挫けてはなりません! 災禍は……神に仕える者の心が折れる瞬間を待っているのです! どうか……立ち上がってください……!」
繋の声が、震えながらもはっきりと部屋に響いた。
巫女はその言葉を胸の奥で受け止めるように、そっと目を閉じた。 しばらく、深い沈黙が流れる。
灯の火が小さく揺れ、かすかな光が頬を照らした。
巫女の肩が、ゆっくりと上下する。 震える息を長く吐き、胸の奥に沈んでいた重いものが、 じわりと熱へと形を変えていくのを、自分でも感じた。
こぼれ落ちた涙を指先でそっと拭う。 巫女はゆっくりと息を吸い込んだ。
その指先には、まだ稲人のぬくもりが残っていた。
そして、繋の目をまっすぐに見つめ、短く頷いた。
「……取り乱しました。申し訳ありません、繋。 ——本殿へ戻りましょう。 今、私たちがすべき務めを果たす時です」
言葉は静かだったが、揺るぎなかった。
巫女は稲人の幼馴染へ向き直った。
「看病の手は足りていますか?」
幼馴染は涙をこらえきれず、首を振った。
「ぜ、全然足りません…… 皆、倒れていってしまいます…… どうしていいのか……」
巫女はそっと肩に手を添えた。
「大丈夫です。すぐに本殿から人を送ります。 あなたは稲人様のそばにいてあげてください」
幼馴染の瞳から大粒の涙が溢れた。
「……ありがとうございます……っ…… 本当に……ありがとうございます……!」
巫女は静かに頷いた。
「稲人様をお願いします。 どうか——そばを離れないであげてください」
巫女は繋に目を向ける。 何も言わなくても、二人の気持ちは同じだった。
「行きましょう、繋」
返事を待たず、巫女は走り出した。 繋もすぐに追いかけ、二人は夜道を駆け戻った。
夜風が頬を切り、足音が闇を裂く。 袖が揺れ、息が白く散る。
社殿の灯が遠くに見えた時、 その光が——涙越しに滲んで見えた。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。(*´∀`*)
面白く読んでいただければ嬉しいです。
次回も丁寧に紡いでいきますので、どうぞよろしくお願いします。




