【稲人編】・薬包に込められたもの
お読みいただきありがとうございます。稲荷寿司です
(*´∀`*)
今回は、豊穣祭のあと——
巫女と稲人、それぞれの胸に芽生えた想いが
静かに形を帯びはじめる回となります。
ほんの一瞬の笑顔、
そっと差し出した薬包、
胸の奥に走った小さな痛み。
どれも言葉にできないまま、
ふたりの心はすれ違いながら近づいていきます。
この後編では、
巫女が自分の想いと向き合い、
稲人は“恋”という名の熱に気づき始めます。
どうか、ふたりの想いの行方を
そっと見守っていただけたら嬉しいです。
夕日が差す帰り道。
先を歩く稲人の背を、
巫女はそっと見つめながら歩いていた。
稲人の歩幅は、巫女の足に合わせるように
いつもより少しだけゆるやかだった。
やがて、巫女がふいに足を止めた。
その気配に気づき、
稲人は歩みを緩めて振り返る。
どこか不思議そうに、
「……どうなさいましたか?」と目で問いかけるような表情。
しかし、巫女の視線は
まっすぐに稲人の左腕へ向けられていた。
「……その傷の具合は、大丈夫ですか?」
胸の奥をそっと撫でるような、やわらかな声だった。
稲人は一瞬だけ目を瞬かせる。
意図せぬ気遣いを向けられた驚きと、
その優しさがまっすぐ胸へ落ちていく。
「……巫女様のおかげで、平気です。」
思わず息を飲み込みながら言葉を紡ぐ稲人の声は、
どこか照れと安堵が滲んでいた。
社の鳥居が見えてくる頃には、
陽は傾き、森の影が境内に長く伸びていた。
巫女と童女、そして稲人は
ゆっくりと神社へ戻ってきた。
境内に足を踏み入れた瞬間、
巫女はふと立ち止まり、稲人へ向き直る。
「……今日は、本当にありがとうございました。
あなたがいてくださらなければ、どうなっていたか……」
深く頭を下げる巫女。
稲人は慌てて首を振り、胸の前で手を振った。
「い、いえ! 巫女様をお守りできて……
本当に……よかったです!」
稲人は少しだけ照れたように、
それでも真っ直ぐで温かな笑顔を向けた。
その瞬間——
巫女の胸の奥で、“何か”が跳ねた。
まるで心臓が一拍、強すぎるほど跳ね上がり、
息がふっと止まったようだった。
視界の色がわずかに変わる。
耳に入っていた周囲の音がすっと遠ざかる。
(……なに……いまの……?)
胸の内側で小さく光が灯るような、不思議な熱。
その一瞬が過ぎても、鼓動の余韻だけが残り、
巫女は思わず視線をそらした。
自分の体が、自分の知らない理由で揺さぶられた。
触れたこともない感情が胸に広がり、
巫女は息を整えようと静かに深呼吸した
稲人は巫女の変化に気づくことなく、
ふと思い出したように背筋を伸ばす。
「自分は……この後、夜回りの当番にございます。
巫女様はどうか安心して、お休みください。」
巫女はわずかに頷き、震えを隠すように言った。
「……はい。ありがとうございます……」
その声は、
たった一瞬の胸の跳ねにまだ囚われているように、
触れれば消えそうにかすかだった。
巫女舎へ戻った巫女は、
そっと襖を閉めると、しんと静まり返った部屋に小さく息を吐いた。
(……まだ……胸の鼓動が……落ち着かない……)
自分の掌を、そっと心の上に置く。
その下では、まだ落ち着かない鼓動が小さく跳ねていた。
あの一瞬の強い跳ねの余韻が、
まだ胸の奥に残っている。
ふいに脳裏に浮かぶのは、
稲人が見せた、あの真っ直ぐな笑顔。
胸の奥が、じん……と熱を帯びる。
(……あの方……傷は……大丈夫だろうか……)
心配を振り払うように、巫女は棚へ向かい、
薬草と清潔な布を取り出した。
「……童女、お願いがあります。」
呼びかけると、童女がぱたぱたと駆け寄り、
丸い瞳で巫女を見上げる。
「はい、巫女さま!」
巫女は薬草を丁寧に包みながら、
その指先に込められた想いを悟られないよう、静かに微笑んだ。
「これを……先ほどの若者衆へ届けてください。
傷が深くならぬよう、どうか早めに手当てを……」
童女は胸の前で両手をぎゅっと合わせ、
しっかりとうなずいた。
「はいっ! すぐに行ってまいります!」
その勢いに、巫女はほっと微笑んだ。
童女が出ていくと、巫女舎にふたたび静寂が戻る。
巫女はひとり、揺れる灯りを見つめながら、
胸元に置いた手をそっと握りしめた。
(……早く傷が癒えますように……)
風が障子を軽く揺らし、
夜の空気がほんの少し流れ込んだ。
その頃、境内の端にある若者衆の詰所で
夜回りに使う松明の準備をしていた稲人は、ふと手を止めた。
昼に巫女が見せた、あの一瞬のやわらかな微笑みが、
たきぎの香りとともに、胸の奥でふわりと揺れたのだ。
松明の先に巻く布をきゅっと締めながら、
気づけば指先の力がわずかに緩む。
(……あの方の笑みを見るたびに、
どうして胸がこんなにも熱くなるんだ……)
詰所の小さな明かりが揺れ、
稲人はそっと目を閉じる。
昼下がり、黄金の稲穂の中で舞った巫女の姿が
静かに脳裏に蘇る。
白衣が風に揺れ、
光に溶けていくように舞った、あのひととき。
(……俺は、あの方を……)
胸にそっと当てた掌が、
自分でも気づかぬほど熱を帯びていた。
その時——
「若者衆さまっ!」
小さな足音とともに、童女が駆け寄ってきた。
稲人は驚き、思わず姿勢を正す。
「どうされましたか?
そんなに急いで……」
童女は息を整えながら、
大切そうに抱えていた薬包を両手で差し出した。
「巫女さまから……お薬です。
怪我がひどくならないように……って。
とても……心配しておられました。」
稲人の目が大きく見開かれた。
「巫女……様が……?」
声が震える。
童女がこくりと頷いた。
「はい。すぐに渡してほしいって……
何度も、確かめておられました。」
稲人はそっと手を伸ばし、
薬包を受け取った。
その瞬間——
胸の奥で、ぽうっと火が灯ったように温かさが広がった。
じん、とした熱が腕からではなく、
もっと深い場所から溢れてくる。
(巫女様が……俺のために……)
言葉にならない想いが胸に満ちる。
薬包を胸にそっと抱きしめると、
夕風が境内を横切り、稲穂の香りを運んできた。
世界が少し、静かに見えた。
(叶わぬと分かっていても……
それでも……惹かれてしまう……)
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
豊穣祭の舞を経て、
巫女と稲人の胸の奥に、小さな光が灯る回になりました。
互いを想っていながら、
立場ゆえに言葉にできない二人の距離。
それでも、心だけは静かに寄り添っている——
そんな “すれ違いの優しさ” を書きたいと思っていました。
巫女がそっと薬を包んだ瞬間や、
稲人が胸の奥に広がる熱を自覚する瞬間に、
なにか少しでも温かさを感じていただけたら嬉しいです。
次回からは、
この想いがどのように形を変えていくのか、
そして村に忍び寄る影が二人に何をもたらすのか——
ゆっくり描いていきますので、面白く読んでいただけたら嬉しいです(*´∀`*)




