【稲人編】・稲穂と舞その胸に残して
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
皆さまの応援や感想が、物語を紡ぐ力になっています。
今回は【稲人編・中編】をお届けします。
豊穣祭へ向かう道の中で起こる“ある出来事”──
そして、巫女の舞をきっかけに、稲人の胸に静かな変化が訪れます。
守りたいという想いと、まだ名前のない痛み。
その狭間で揺れる稲人の姿を、どうぞ見届けていただけたら嬉しいです。
心を込めて書き上げました。
それでは本編へどうぞ。
豊穣祭の昼下がり。
木々がそよ風に揺れ、
葉影がこまかく揺れ模様を地面へ落としていた。
巫女は童女を伴い、
舞を奉納するため森の小道を歩いていた。
その前を歩くのは、
若者衆の青年──稲人。
落ち葉を踏みしめるたび控えめな音が響き、
稲人は周囲の気配を確かめながら静かに歩いた。
(今日は村中が楽しみにしている豊穣祭だ……
巫女様を無事に広場へお連れしなくては)
巫女の白衣が、風にそっと揺れる。
その清らかな揺れを見て、稲人は胸の奥に役目への誇りを刻んだ。
──そのとき。
森の空気が、ひたりと張りつめた。
ガルルルルッ……!
乾いた唸り声が、静寂を鋭く裂いた。
木陰から、痩せた野犬の群れが飛び出した。
荒れた毛並み、飢えた瞳が三人を捉える。
「危ない!」
稲人は気配を感じた瞬間、
巫女と童女を背へ隠し、体を前へ差し出した。
腰に携えていた樫の棒を握り直し、
獣の前に静かに立ちはだかった。
その刹那──
一匹の野犬が低く唸り、稲人へと跳びかかった。
ガブッ!!
鋭い牙が左腕をかすめ、皮膚が裂ける。
「……ッ!」
痛みが走るが、稲人は退かない。
右手の樫の棒を振り上げ、獣の顔元を正確に打ち払った。
怯んだ野犬が下がり、わずかな隙が生まれる。
そこへ、他の若者衆が駆けつけた。
「稲人、大丈夫か!」
左腕を押さえたまま、稲人は叫ぶ。
「こっちは問題ない! 巫女様と童女様を安全な所へ!」
「分かった!」
若者衆二人が巫女と童女を護りながら後方へ下がり、
もう一人が稲人の横に並んで棒を構えた。
「こっちは任せろ!」
残っていた野犬は数匹。
若者衆たちは連携し、棒と石を使って追い払っていく。
やがて野犬たちは森の奥へ散り、静寂が戻った──。
安全が確認されると、巫女は駆け戻ってきた。
「稲人さん!」
巫女の視線はすぐに、稲人の左腕へ。
袖の隙間から、赤い線が細く流れている。
「……血が……」
白衣の袖を揺らす風が、巫女の胸の不安を静かに映し出した。
稲人は慌てて一歩下がる。
「だ、大丈夫です……
巫女様のお召し物まで汚してしまいますから……」
しかし巫女は首を横に振り、童女へ目配せした。
「布を……お願いします」
童女は懐から清潔な布を取り出し、両手で差し出した。
巫女は布を受け取り、
稲人の傷口にそっと当てながら言う。
「少し……沁みますよ」
優しく布を巻くと、
その上に両手を重ね、目を閉じて祈った。
「……どうか、この傷が早く癒えますように」
ふわりと通り抜けた風が、
張りつめていた空気をそっとほどく。
祈りを終えると、
稲人は深く息をつき、胸の奥から礼をこめた声を漏らした。
「……ありがとうございます」
横で童女もほっと息をつき、
胸の前で布の端をぎゅっと握りしめた。
「……ひどい傷じゃなくて……よかったです……」
巫女は童女へ微笑み、
次に他の若者衆のもとへ歩いていった。
「皆さま……怪我はありませんか?」
「俺らは平気だ」「巫女様も無事でなによりだ」
その声に、巫女は胸をなで下ろした。
一行は再び歩き出し、
巫女と童女は稲人を気遣って歩調を緩めたが、
稲人は背すじを伸ばし、役目をまっとうするように前を歩いた。
──そしてほどなくして。
黄金の稲穂が一面に広がる豊穣祭の舞台へとたどり着いた。
青空は高く澄み、
風が吹くたび稲穂が波のように揺れ、
光を吸い込んではまた吐き返す。
稲人は巫女を見送り、
人々の視線が集まらぬよう少し離れた位置へと控えた。
だが、その視線だけは巫女の姿をそっと追い続けていた。
巫女は深く息を吸い、胸の奥に祈りを満たす。
足元の稲穂がさらりと揺れ、
白衣が淡い光をまとって透ける。
ゆっくりと腕を広げ──
鈴の音が澄んだ空気を割った。
その一音を合図に、舞が始まった。
稲穂が風に歌うようにざわめき、
巫女の動きに寄り添うように揺れる。
白衣の袖が風に乗り、やわらかく広がる。
村を包む黄金の海の中で、
その姿はひときわ静かで、そして強かった。
指先まで行き届いた所作は、
まるで稲穂と見えない糸で結ばれているようで、
腕を上げれば風が呼ばれ、
下ろすたびに大地が息をつく。
光が散り、
巫女の周囲に小さな粒となって舞い続ける。
——祈りそのもの。
——優しさそのもの。
——光そのもの。
黄金の稲穂は、ただ揺れているだけではなかった。
まるで巫女の舞に耳を澄ませているかのように、
その一挙一動に寄り添うように揺れていた。
巫女が腕を広げると稲穂の海がふわりと波を立て、
袖を下ろすと同じ速度で静かに揺れを収める。
ひとつの呼吸を分かち合っているようだった。
太陽を受けた穂先がきらめき、
その反射が巫女の白衣に淡く重なる。
鈴の音が透き通るほど響くと、
稲穂の波はさらにやわらかく膨らみ、
巫女の周囲だけ風の通り道が生まれたように見えた。
舞が進むほど、
稲穂の揺れは静かで優しいものとなり、
祈りを受け止め、大地へ届けているかのようだった。
祈りが舞となり、
舞が風と稲穂を動かし、
自然すべてが巫女に寄り添う——。
その美しさに、
稲人はただ立ち尽くし、瞬きさえ忘れていた。
(……なんと……美しい……)
胸の奥に広がるあたたかい熱。
それが何かは、まだ言葉にならない。
けれど——。
舞の終わり際、巫女がふと見せた微笑みが
夕風に揺れた瞬間。
胸の奥が、しん、と深く震えた。
苦しさにも似た温かさが広がり、
稲人はそっと胸へ手を添えた。
鼓動が──
いつもより静かに、それでいて確かに強かった。
風の匂いも、光の揺れも、
世界のすべてが少しだけ澄んで見えた。
やがて舞が終わり、拍手が広場に満ちた。
巫女は深く頭を下げ、
稲穂の輝きの中を静かに歩いて舞台を後にした。
ここまでお読みいただき、心からありがとうございます(*´∀`*)
皆さまが読んでくださることが、何よりの力になっています。
中編では、野犬との遭遇、そして巫女の舞──
稲人が初めて胸を揺らす瞬間を書かせていただきました。
「守りたい」という役目の気持ちだけでは説明できない、
静かで温かな“初恋の芽生え”。
次の【後編】では、
巫女自身が“胸の痛みの理由”に気づく大切な夜が描かれます。
続きも読んでいただけたら、とても嬉しいです。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。




