雫は葵の記憶へ還る ― 愛しているよ
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―――
その姿を見た瞬間、祠の空気が変わる。
もうそこにいたのは、悪鬼でも、穢れに蝕まれた魂でもない。
約八十五年ぶりに、本来の姿を取り戻した "雫" だった。
雫は、自分の手を見下ろし、小さく震える息を吐いた。
雫
「……ああ……体が軽い、戻れたのですね……」
その声には、安堵と、
信じられないというような戸惑いと、長年抱え続けた苦しみがすべて滲んでいた。
雫
「葵様、私、ずっと苦しかった……
葵様が道を踏み外すのを留めることもできず、ただ傍にいることしかできない自分が、
ずっと、苦しかった……」
その言葉に、葵は息を呑む。
箱の中から見つめるその瞳には、すでに憎しみはなかった。
雫の声を聞いた葵の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
葵
「……雫……」
震える声で名を呼ぶ。
目の前にいる。
あの日、失ったはずの、心の底から愛した人が、確かにそこにいた。
雫はゆっくりと葵へ向き直る。
雫
「葵様……申し訳ありませんでした……あなた
を禁忌に落としてしまったこと……」
雫
「静音様と澪斗から、大切なお兄様を奪ってしまったこと……誓約の一族として役目を果たせず、途絶えさせてしまったこと……」
一つひとつ、噛みしめるように謝罪を重ねる。
静音は唇を噛み、澪斗は目を伏せた。
責めたいわけではない。
けれど、失ったものが決して小さくなかったことも、また事実だった。
その時、
静寂を切り裂いて龍神の鎖が解かれた。
雫は驚き、目を見開いて龍神を見上げる。
長い年月を魂のまま彷徨い、
悪鬼にその身を裂かれ、
それでも自我を保ち続けた代償は、
あまりに重かった。
すでに雫の魂には、
輪廻の輪へと還る力さえ残されていない。
その残酷な真実を、龍神だけが静かに悟っていた。
龍神の慈悲を受け、雫は深く、深く一礼する。
雫
「龍神様……ありがとうございます」
震える声で感謝を伝えた雫は、ゆっくりと
真白と紡の方へ向き直った。
魂を穢れから救い出してくれた二人へ、
感謝の思いを込めて言葉を紡ぐ。
雫
「穢れを祓ってくれて、ありがとうございます。それから、葵様を止めてくれて、ありがとうございました」
その微笑みは、見ている方が痛くなるほど、穏やかで清らかだった。
だが、代償を払い続けた魂は、すでに限界を迎えていた。
雫は葵のもとへ歩み寄る。
拘束された箱の前に立ち、
やわらかく微笑んだ。
雫
「……やっと、元の自分に戻れました、葵様と共にいた日々は……とても幸せで、そんな毎日をくれて、ありがとうございました」
その一言ごとに、葵の瞳からぽろぽろと涙が溢れていく。
雫
「私の弱さが、あなたを闇へ落としてしまった……」
その言葉に、その場の誰もが息を止めた。
雫
「でも、葵様との日々を、無かったことにはしたくないんです。だから……葵様……」
「いつか、日向のもとへ帰れる日がきたら……私のことを思い出して、生きてください」
雫
「葵様、あなたを愛せて――幸せな一生でした」
そう言って雫は、満開の花のような笑顔を見せた。
その笑顔は、あまりにもやさしく。
あまりにも美しく。
あまりにも儚かった。
次の瞬間、雫の輪郭が光へとほどけていく。
きらきらと、春の陽に溶ける雪のように。
頬を伝う涙の雫さえ光の粒になって、空へ散っていく。
葵
「雫……っ、待って……!」
伸ばしたくても、届かない。
鎖に縛られたまま、葵はただ泣き崩れることしかできなかった。
雫の体は、透き通るような黄金の粒となって宙を舞う。
それは消滅という残酷な結末でありながら、まるで彼女自身が祝福を纏っているかのような、美しい最期だった。
雫の姿は、もうどこにもなかった。
残された静寂の中で、葵がかすれた声を落とす。
葵
「私は、間違えていたのか……? 雫のためと言いながら……私は、自分のために雫を苦しめていたのか……っ」
その懺悔のような言葉を、真白は静かに受け止めた。
真白
「……いいえ」
真白
「雫様も、葵様と同じ気持ちだったからこそ……悪鬼に魂を削られながらも、葵様を守るために自我を保っていた。あなたの心が完全に壊れてしまわないようにと」
葵がゆっくりと顔を上げる。
真白
「悪鬼へ落ちてもなお、葵様の傍にいたことが……雫様にとって幸せだった日々ではなかったのなら」
真白
「きっと、最後にあんな笑顔は見せなかったと思います。その魂をすべて使い切ってでも、あなたに『幸せだった』と伝えたかった。」
真白
「――あの笑顔が、すべてですよ」
葵の目から、また涙が溢れる。
すると龍神が、重く、しかしどこか哀しみを滲ませた声で告げた。
龍神
「長き時を魂のまま過ごし……悪鬼に千切られながらも、お前を守るために自我を保ち続けていた」
龍神
「それほどまでに、お前が大切だったのだろう」
龍神
「代償に、その魂は消滅し、輪廻にさえ帰れなかった」
龍神
「……だが最後、自分に戻れた時の波動は、穏やかで安らかであったぞ」
その言葉に、葵は深く俯いた。
龍神
「だからといって――お前の罪が消えるわけではない」
空気が張り詰める。
龍神の双眸が、まっすぐ葵を射抜いた。
龍神
「哀れな我が子よ。そちに裁決を言い渡す」
龍神
「禁忌に落ち、他の眷属に危害を加え、世に混乱を招こうとした」
龍神
「よって――禁錮三千年を言い渡す」
三千年。気の遠くなるような時間。
龍神
「だが葵よ。この三千年の間に、そちが悔い改めることを望んでいるぞ。そちの大切なものは……雫だけではないはずだ」
龍神の視線の先には、
泣き崩れる二人――
静音と澪斗がいた。
静音
「兄様、立ち直ってください……雫の最期の願いのためにも……」
澪斗
「兄様が戻ってくるまで、僕が姉さんと神社を守ります。いつか日向に帰れる日まで、ここでずっと、待ってますから……っ」
その言葉に、葵は目を見開いた。
信じられないものを見るように。
そして、
胸の奥に押し込めていたものが、
一気に溢れるように。
葵
「……静音……すまなかった……弱くて、愚かだった私を……許してくれ……」
静音は泣きながら、何度も頷いた。
葵は澪斗にも目を向ける。
葵
「澪斗……本当に立派になったな。静音と、龍神神社を……頼む」
澪斗は唇を引き結び、涙を堪えながら、しっかりと頷いた。
そして――
龍神による封印の儀が始まる。
祠の前に青い光の陣が広がる。
無数の水の紋様が重なり合い、神域そのものが深い蒼に染まっていく。
鎖に繋がれた葵の箱が、
ゆっくりとその光の中へ沈み始めた。
意識が遠のく中、
葵は遠いあの日――
まだ何も壊れていなかった頃の記憶を思い出していた。
――ねぇ、雫。私は眷属だから……
――人の子が、とてもとても好いていると伝えるとき、なんて伝えたらいいのか……教えてくれるかい?
あの時、雫はぱちりと瞬きをしたあと――
にっこりと、幸せそうに笑ったのだ。
――それはですね……
――“愛してる”って言うんですよ
青い光の中へ沈みながら、葵は目を閉じる。
そして、もう届かない相手へ。
それでも確かに存在した愛へ。
噛みしめるように、その言葉を口にした。
葵
「……雫」
葵
「愛しているよ……」
葵
「これからも……ずっと……」
その声は、光に溶けていく。
例え愛すべき魂が消えても、
この愛だけは――雫は葵の記憶へ還る ― 愛しているよ
青い光が収まった後、
祠の前には、ただ穏やかな風だけが吹き抜けていた。
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次回もお付き合いいただけたら幸いです。
(人´∀`).☆.。.:*・゜




