火の童子、蒼へ託す最後の焔
―――屋上
澪斗が蒼を幻術から救おうとしていた頃。
屋上に吹き荒れる神気の嵐の中、
一瞬の静寂が訪れる。
結界の火花と水の飛沫が舞う中、
水の箱に閉じ込められた雫が、
悲しげな後悔の表情で静音を見つめていた。
雫
「静音さま……お久しぶりですね」
静音は、その声を聞いただけで胸が痛んだ。
八十五年という時間は、
あまりにも長い。
それでも、
目の前の雫は確かに“雫”のままだった。
静音
「……ええ。本当に、久しぶりですね」
短い答えだった。
けれどその声音には、
言葉にしきれない感情が静かに揺れていた。
雫は小さく息を吐き、
意を決したように顔を上げる。
雫
「……お願いがあります……私が、
あの悪しき自分を抑えている間に、
……どうか、私を祓ってください」
その言葉が落ちた瞬間、
屋上の空気が一気に重く沈んだ。
雫の願いは、
自分の死を願う言葉に等しかった。
だが――
真白が一歩、前へ出た。
真白
「雫さま。実は……お伝えしたいことがあります」
真白
「僕たちは――祓うために来たのではありません。葵さまと、あなたを……救うために来ました」
真白の言葉に雫の瞳が大きく見開いた。
だけど、すぐに
雫は力なく首を振った。
その瞳には、かつて龍神の眷属として、
誇り高く生きていた頃の面影が、
わずかに揺らめいている。
雫
「救う……? 悪鬼に堕ちた私と、禁忌を犯した葵様に、そんな道は残されていません。一度穢れた魂は、もう二度と元には戻れないのです」
真白
「いいえ、そんなことはありません。
葵様の封印は免れませんが、あなたの
"悪鬼の部分"
だけを浄化できれば、魂は輪廻の輪へ戻れます。
葵様だって、封印期間中の裁定次第では、いつかまた……」
雫
「……どうして」
雫の瞳から、
大粒の涙がこぼれ落ちる。
雫
「自分たちの身勝手で、多くの眷属を傷つけ、この地に穢れを振りまいた私たちを、なぜそこまで……。ただ祓えば、それで済むはずなのに」
火の童子
「そんなもん――
狐の眷属が、ただ優しい連中なだけや、
他の眷属やったらな、
問答無用で祓われて、封印されて、はいおしまいや」
火の童子の紅蓮の髪が、
夜風に激しくなびく。
真白は少し困ったように目を細めたが、
否定はしなかった。
静音が静かに頷く。
静音
「火の童子様の仰る通りです、
ですから雫――」
葵
「――そんなのは嘘だ! 信じるなッ!!」
葵の瞳には、
切羽詰まった焦りと怒りが宿っていた。
葵
「雫を奪わせはしない! 貴様らのような偽善者に、私たちの何がわかる!」
次の瞬間。
巨大な水柱が、
夜空へ向かって立ち上がった。
龍が咆哮するような勢いで、
火の童子たちへ襲いかかる。
だが――
火の童子が一歩前へ出る。
火の童子
「遅いわ!!」
紅蓮の焔が爆発した。
真正面から噛みつくように放たれた炎が、
水柱を焼き尽くす。
ジュウウウウウッ――!!
凄まじい蒸気が上がり、
白煙が視界を埋めた。
火の童子
「アタイを倒そうなんて、百年早いわ!!」
火の童子が真っ向から迎え撃つ。
大和
「火の童子様!」
同時に、
大和が神気を流し込む。
誓約の一族の加護。
火の童子の焔の色が、
さらに濃く、鋭くなる。
水柱と焔が真正面からぶつかり合い――
ドォンッ!!
爆ぜた衝撃で、
葵の身体が後方へ吹き飛ぶ。
砕けた水柱は
ただの雨となって屋上へ降り注いだ。
豪雨のような水が、
真白の結界へ叩きつけられる。
視界が遮られる中、
大和が火の童子の背に手を当て、
さらに神気を流し込む。
大和
「火力を上げるよ、火の童子! 全てを焼き尽くせ!」
火の童子
「まかせときぃ! 大和! 」
爆ぜた水柱が冷たい豪雨となって降り注ぐが、真白の多重結界に触れた瞬間にジュウと音を立てて消滅する。
雫
「兄様やめてください! 今雫を救わなければ、雫の魂は悪鬼に喰い尽くされてしまう! そうなれば、もう輪廻にさえ帰れなくなってしまうんですよ!」
静音の悲痛な叫びも、
狂乱の渦に呑まれた葵には届かない。
水の箱の中からその光景を見ていた雫が、
悲鳴のように叫んだ。
雫
「葵さま!!」
静音
「雫、信じてください!必ずあなたと兄様を救います!これ以上力を使えば、あなたの魂は消えてしまう!」
静音
「そうなったら輪廻にすら帰れなくなります!」
だが戦いは止まらない。
むしろ、
そこから火の童子は一気に攻め立てた。
葵の攻撃は、
真白の多重結界にことごとく阻まれる。
その隙に火の童子の焔が襲いかかる。
赤い焔が軌跡を引き、
夜空そのものを裂くようだった。
葵は防ぐ。
だが防ぎきれない。
肩を焼かれ、
腕を弾かれ、
ついに膝をつく。
そして――最後の一撃。
火の童子
「終わりや!!」
炸裂した焔が、
葵を雫の箱の近くまで吹き飛ばした。
地面に叩きつけられた葵は、
苦痛に顔を歪めながら、ゆっくり目を開く。
箱の中の雫と目が合った。
葵
「雫……お願いだ、私を助けてくれ……。私を……独りにしないでくれ。雫と離れるなんて、耐えられない……」
葵の、
泣き叫ぶような情けないほどの懇願。
それが、雫の心の堤防を崩した。
雫
「葵様……。私はもう、消えてしまいます。あの邪悪な私に、魂を奪われ続けて……もう、形を保つのが限界なのです」
葵
「何を言っている……! 静音、貴様! この箱に何を仕掛けた!! 雫をどうした!!」
静音
「違います……兄様……あの邪悪な力は、雫の魂を分断して作られた力です……使うたびに……魂が失われていく力です。」
雫が静かに頷く。
雫
「葵さま、私は……もうすぐ消えます。
そしたら、残るのは……ただの悪鬼です」
葵は言葉を失った。
愕然としたまま、
ただ静音を見る。
静音は何も言わず、
まっすぐ見返した。
その時だった。
箱の神気が乱れた。
火の童子
「なんや、この禍々しい気配は!!」
見れば、
葵が密かに水の神気を流し込んでいた。
静音の術式が内側から激しく乱れ、
内側から崩されていく。
静音
「しまった――」
雫
「ごめんなさい、静音さま……。葵様を……どうか、救って……!」
雫の、
今にも消え入りそうな遺言のような叫びと共に、水の箱が内側から内圧に耐えかねて爆散した。
――ドォォォォンッ!!
水と黒い神気が一斉に噴き上がり、
夜空へ広がる。
衝撃波が屋上のコンクリートを砕き、
周囲を黒い霧が覆い尽くす。
邪悪な雫
「……はぁ、全く。さっさと消えればいいのに、最後までしぶとい女だったわね」
黒煙の中からゆっくりと立ち上がったのは、氷のように冷酷な笑みを浮かべた『邪悪な雫』だった。
火の童子が反射的に放った火炎を片手で軽々と弾き飛ばし、
周囲に粘り気のある漆黒の水の防壁を張り巡らせる。
邪悪な雫
「少し大人しくしてなさいよ。……今は、葵様に『本当のこと』を説明してあげなきゃいけないんだから」
葵が呆然と見つめる。
邪悪な雫は、
何事もなかったように微笑んだ。
邪悪な雫
「安心して、葵様 "私" も雫よ、あなたの望む、あなただけの雫……また二人で逃げましょう……永遠に、二人だけの世界へ」
その笑みは、
無邪気であるほど不気味だった。
邪悪な雫は、
倒れた葵の頬にそっと触れる。
次の瞬間、
淡い治癒の光が溢れた。
葵の傷が塞がっていく。
その瞳から、
先ほどまでの動揺がすっと消えていった。
邪悪な雫
「さあ、葵様。あんな邪魔者たちは、もう片付けてしまいましょう」
甘く囁くようなその声に、
葵の瞳がゆっくりと揺れた。
葵
「……ああ、そうだね、雫」
その声音は穏やかだった。
穏やかなはずなのに、
そこにはもう“葵”らしい温度がない。
先ほどまでの苦悩も、
雫を想って必死に抗っていた意志も、
もう感じられなかった。
葵
「……ああ、そうだね、雫。僕たちの仲を邪魔する者は、誰であろうと消さなくては。
……君を傷つける『あの忌々しい女』も、僕がこの手で葬ろう」
そう言って葵が向けた冷徹な視線の先には、実の妹である静音がいた。
実の妹さえも "雫を傷つける外敵" としか認識できていないその言葉に、
静音の顔から、すっと血の気が引く。
そこにいるのは、
兄の顔をした “何か” だった。
静音
「……兄様……?」
かすれた声が、震える。
静音
「私です……静音です……分からないのですか……?」
葵は静音を見つめ返した。
ほんの一瞬、
何かを思い出しかけたように瞳が揺れた――ように見えた。
だが次の瞬間には、
その微かな揺らぎさえ、
黒い水底へ沈むように消えていった。
葵
「静音……?」
葵
「……ああ、そういえば、雫を苦しめていた一族にそんな名の者がいたな。
……目障りだ。雫の視界に、お前のような濁った水は必要ない」
火の童子
「なんや! 葵の様子おかしないか?……って、
あの悪鬼、なんで治療術まで使えとるんや!」
真白
「……待ってください。葵様のあの目は……正気じゃない。
さっきまで雫さんを守ろうと必死だった葵様の目じゃない」
「まるで、都合の悪い記憶だけを根こそぎ削ぎ落とされたような――」
静音は気づいてしまった。
声も顔も、
何ひとつ変わっていない。
なのに、
もう届かない。
もう、
手を伸ばしても帰ってこない場所へ行ってしまったようで――
静音
「兄様……っ」
その声は、
祈りにも似ていた。
けれど葵はもう、
その呼びかけに応えることはない。
火の童子
「……チッ。こりゃあかんわ」
火の童子が吐き捨てるように言う。
けれどその目には、
怒りだけではなく、
痛ましさも滲んでいた。
火の童子
「あの悪鬼、ただ傷を治したんやない」
火の童子
「葵の中身ごと、自分に都合のええように作り替えたようやな……」
そして大和がある可能性を告げる
大和
「あの悪鬼……!吸収したのか?
静音さまの神気を、箱から……だから治療術を?」
静音
「それだけではないようです……。
兄様の記憶が封じられてしまったようです。
あの悪鬼は、龍神の眷属の力をすべて使えるようになったようですね……」
大和が息を呑む。
静音
「雫の意識がなくなった今、あの悪鬼が全部の支配権を手に入れたようです」
静音が唇を強く噛む。
邪悪な雫がくすりと笑う。
邪悪な雫
「まずは先に、あの目障りな焔を排除しなきゃね。ねえ、葵様?」
邪悪な雫の指先から、無数の漆黒の槍が生成される。
一斉に放たれる。
火の童子が応戦する。
撃ち落とし、焼き払う――
だが数が多すぎた。
撃ち漏らした一本の黒槍が、
火の童子へ迫る。
真白が咄嗟に三重の結界を重ねてそれを遮った。
真白
「大丈夫です、火の童子様! 僕の結界で――」
だが――。
パリィィィン!! と、
硬質なガラスが粉砕されるような音が響く。
弾かれるはずの黒い槍が、
真白の結界をまるで硝子のように容易く貫いた。
一瞬、
誰も何が起きたのか分からなかった。
火の童子
「……がはっ……!? げほっ、ごふっ……」
火の童子の胸を、黒い槍が深く、容赦なく貫通した。
真白・大和
「火の童子様!!」
大和と真白が絶叫しながら駆け寄る。
真白
「どうして……」
自らの結界がなぜ無効化されたのか、
必死に考えを巡らせる真白は、
その残酷な理由に気づき、
愕然とした。
真白
(まさか?!……水の箱に込めた僕の『浄化の神気』……あの悪鬼、それを吸収しただけではなく、僕の術式に波長を合わせて、
結界を無効化したのか……!?)
邪悪な雫
「あら、気づかれちゃった? さすがは優秀なキツネさんね」
邪悪な雫が、子供が悪戯をしてバレた時のような無垢な残酷さでくすくすと笑う。
火の童子
「うっさいな、大和……。耳元で、ガタガタ叫ぶな……」
火の童子が、
血を吐きながらも大和の頬に弱々しくビンタを見舞う。
だが、
その右目には、
漆黒の槍が深々と、
眼球を潰す勢いで突き刺さっていた。
火の童子は震える手でそれを掴むと、
歯を食いしばり、
凄まじい気合とともに自ら引き抜いた。
生々しい音を立てて抜けた槍を、
地面へ投げ捨てる。
だが――
穢れの侵食は既に心臓付近まで回り、
血管が黒く浮き上がっていた。
自分はもう、助からない――
その確信が、
火の童子の覚悟を極限まで研ぎ澄ませた。
火の童子
「真白……。結界を、お前の命を削ってでも限界まで重ねて張れ。……あのお嬢ちゃんを、アタイが責任持ってぶちのめす」
「それから大和、お前の残りの神気をあたいに全部送るんや……ええな」
「ほんで静音、アタイが焔ぶつけとる間だけこの胸の傷に治療術施しといてや……」
大和
「火の童子……! その体で―― 」
静音
「っ!わかりました……火の童子様……」
真白
「火の童子様、必ず大和さんと静音様は僕の結界でお守りしてみせます」
火の童子
「頼んだで真白……昔、いつかアタイを守れるくらいに強くなれ言うたけど、ちゃんとなったやないか」
そう言って火の童子はニカッと笑った。
そして、
真白が全神力を絞り出し、
屋上を白銀の光で埋め尽くすほどの幾重もの光の壁を築く。
大和は全神力を火の童子に注ぎ
静音も全力で胸に治療術を施す。
邪悪な雫
(死にぞこないのくせに……何をする気?)
対する邪悪な雫も、
葵の展開する巨大な水の防壁を盾に構え、
嘲笑を浮かべた。
邪悪な雫
「さっさと消えなさいよ! アンタ達さえいなくなれば、この地は私たちの楽園になるの!」
火の童子
「アホが……。例えアタイらがいなくなってもな、ちゃんと後始末してくれる頼もしい奴らがおるんや!」
葵が、
感情の消えた声で嘲笑う。
葵
「お前が可愛がっていた、あの蒼い焔のガキか? 今頃、私の幻術で自分の心を焼き切って、物言わぬ焔になっているよ」
火の童子
「分かっとらんな……。蒼は弱くない。昔のあいつとは違うんや。……今のあいつにはな、背中を預けられる、信じ合える仲間がおるんや!」
激突の瞬間。
ぶつかり合う紅蓮の爆炎と漆黒の濁流。
真白の結界が、
凄まじい圧力にミシミシと悲鳴を上げ、
蜘蛛の巣状のヒビが入り始める。
火の童子は、
死の淵にありながら、
最後に優しく、
誇らしげに笑った。
火の童子
「お前らに一つ忠告や、
火の眷属の焔はな、純度が高くて、強いほど青くなる。……蒼の焔はな、真っ青なんやで……」
火の童子の全身が、
自らの命を燃やし尽くす、
超高熱の白光に包まれていく。
右目から流れる血さえも一瞬で蒸発し、
その立ち姿は神々しいまでの光を放っていた。
火の童子
「アタイの後に、蒼が必ずお前らを倒す。……その時、蒼い焔の恐ろしさを、その身をもって味わったらええ!!」
火の童子
「真白、大和、静音……。すまんな、……限界や……」
――蒼、後は頼んだで
刹那、
屋上の全てを、
そして夜の闇さえも飲み込むほどの大爆発が、天を衝く火柱となって、
夜空を白く染め抜いた。
その光の中に、
火の童子が、
一瞬だけ穏やかに微笑んだように見えた。




