【静まるお社で感謝を】
人が神社を訪れる理由は、それぞれに違います。
願いを届ける人もいれば、
静かに感謝を伝えに来る人もいます。
この物語は――
母を見送り、時を経て“ありがとう”を伝えに来たひとりの女性の祈りのお話です。
あなたの心もそっと癒やされますように。
---
出勤してロッカーに荷物をしまい、
最後にスマホの通知を確認しようとした時、着信が鳴った。
画面に表示されたのは、
昨日入院したばかりの母の病院からの番号だった。
「お母様の容体が急変して、とても危険な状態です。
今すぐご家族の方皆さんで来ていただけますか?」
電話の向こうの医師の声に、頭が真っ白になる。
震える手で父に連絡を入れ、職場の同僚に事情を説明して早退した。
車のエンジン音さえ、遠くの世界の出来事のように聞こえた。
---
病院に着くと、主治医は静かに告げた。
「ここ2、3日が山場でしょう。」
モニターに映る酸素濃度の数値を指さしながら、
「この状態から持ち直すことは、正直かなり難しいです」
と先生は言った。
私は思わず尋ねた。
「……先生、これくらいの状態から回復された方って、今までにいらっしゃいましたか?」
先生は少し間を置き、静かに首を横に振った。
「私の経験上では、ありません。」
そして、言葉を選ぶようにして続けた。
「もし今後、容体がさらに悪化した場合、延命処置を行うかどうかをお伺いします。
人工呼吸器をつければ命をつなぐことはできますが、
日本では安楽死が認められていないため、一度装着すると外すことはできません。
意識が戻らないまま、植物状態になる可能性が高く、
その場合は高額な医療費が継続的にかかります。」
先生の言葉が、一つ一つ胸に刺さるように感じた。
---
お母さんに元気なうちに言われていた。
――『もしもの時、望みが薄いなら延命はしないでほしい』と。
私は静かにうなずき、そのことを主治医に伝えた。
先生は少し目を伏せ、穏やかに言った。
「……ちゃんと決めていらっしゃったんですね。」
その言葉を聞いても、まだ実感が湧かなかった。
目の前で何かが起きているのに、
それが自分の現実だと理解できないまま、
私は無意識のように病院を後にしていた。
---
帰宅しても、現実感は戻らなかった。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
そんなとき、再びスマホが鳴った。――病院からだった。
「……お母様の呼吸が弱まっています。できれば、すぐに来てください。」
私は何も考えず、車を走らせた。
冷たいハンドルを握る手が震えているのに、涙はなぜか出てこなかった。
---
病院に着くと家族待合室に案内され、主治医の先生が告げる。
「本来なら、今の時期はご家族の方も病室には入れないんですが……」
少し目を細めて、静かに続けた。
「ずっとお母様と二人で、ここまで頑張ってこられましたからね。
最後は一緒にいてあげてください。」
その言葉に、胸の奥が震えた。
私は何度も頭を下げ、病室へ向かった。
---
扉を開けると、先生が他のスタッフに小さく告げた。
「……少しの間、二人にしてあげてください。」
そして私に向き直り、
「きっと、聞こえています。話しかけてあげてください。」
そう言って病室を出て行った。
私はベッドのそばに立ち尽くした。
母の呼吸は浅く、胸がかすかに上下している。
看護師さんがそっと近づいて、
「椅子に座ってください。……落ち着いて。」と声をかけてくれた。
その瞬間、看護師さんの声が少し震えていた。
「――もう、まもなくお別れになります。」
私はゆっくり母の手を握り、耳元で囁いた。
「お母さん……ここまで育ててくれて、ありがとう。」
その言葉に、母のまぶたがわずかに動いた気がした。
そして、穏やかな静けさの中で、母は静かに息を引き取った。
病室の空気が止まり、時の流れが遠くへ消えていくようだった。
---
葬儀も終わり、四十九日も済んだ頃。
ようやく気持ちの整理がつき、私は神社にお礼参りに訪れた。
その日は、風が強く吹いていた。
参道の幟がはためき、木々がざわめく音が絶えない。
本殿の方をゆっくり見つめ、目を閉じる前に深く息を吸った。
風も音も止まった境内の静けさに、胸のざわめきが少しずつ収まっていく。
視線を降ろし、手のひらを合わせると、自然に心が落ち着いていくのを感じた。
「お母さんを見守ってくださってありがとうございました。」
そう神様に手を合わせ、帰ろうとした瞬間――異変が起きた。
風が、止んだ。
幟は一枚の絵のように静止し、木々の葉も動かない。
耳をすませても、鳥の声も、遠くの車の音も消えていた。
世界が息をひそめている。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
私はもう一度本殿の方を向き、目を閉じて神様にもう一度感謝を伝えた。
「長い間、お母さんと私を見守ってくださりありがとうございました。
神社に来ることが心の支えになっていました。
神様のおかげで、最後までお母さんを支えられました。」
深く一礼し、ゆっくりと息を吸って頭を上げると――
音が、戻ってきた。
木々のざわめき、幟のはためき、現実の色が境内に流れ込む。
まるで、時間が動き出した世界に帰ってきたかのようだった。
---
真白と紡ぎは、社務所の中から参拝者の様子を静かに見守っていた。
境内の風は止まり、時間までもがゆっくりと流れているかのように見えた。
その中で、参拝者の胸の奥にある祈りと感謝が、静かに空間に溶け込んでいく瞬間を、二人は目の当たりにした。
「……真白様、今のは……?」
真白はそっと紡ぎに囁く。
「彼女は、お母様のためにこの神社へ通い続けていたんだ。
自分のことではなく、ただお母様の安らぎを願ってね。
だから主神様も、ずっと見守ってくださっていた。」
紡ぎは静かに頷く。
真白は穏やかな声で続けた。
「今日、主神様が彼女をあの静寂の中に招かれたのは――
お母様を想い続け、最後まで支えたその優しさへの“労い”なんだよ。
彼女が悔いや悲しみを抱えたままではなく、
感謝の心で前へ進めるように……
ほんのひととき、特別な時間を授けられたんだ。」
真白の言葉が、境内の静寂に柔らかく溶けていく。
参拝者の手がゆっくりと合わせられ、目を閉じるたびに胸の奥が静かに震える。
努力と愛情が神様に届き、報われた瞬間――
それは目には見えないけれど、確かにそこに光のように息づいていた。
---
お参りを終えた女性は社務所を訪れ、お守りを購入した。
「どうぞ温かいお抹茶を」と勧められ、ありがたくいただいた。
湯気の向こうに、真白が柔らかく微笑んでいる。
「お母様のために、よく参拝に来られていましたね。」
女性は小さく頷き、少し目を伏せた。
---
「はい……でも亡くなってしまった今、思うことがあるんです。
病気の治療を続けさせたのは、私の自己満足だったのではないかと。
あんなに辛いから辞めたいと言っていた時に、
治療をやめさせて、好きに過ごさせてあげればよかったのでは……と。」
その声は力なく、どこか迷子のように揺れながら、空へと消えていった。
真白は静かに目を細め、優しい声で言った。
「最後まで治療を続けると選ばれたのは、お母様ご自身です。
貴方が生きてほしいと願ったように、お母様もまた、貴方のために生きようと決意されたのではないでしょうか。
その選択は苦しみではなく、“愛する家族のために生きようとした覚悟”なのだと思います。」
女性は小さく俯き、呟く。
「……そうだったら、いいな……」
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「――あっ……でも、亡くなった次の日の夜に夢を見たんです。
お母さんがおばあちゃんと一緒に出てきて、笑顔で手を振っていて……。
私は川の向こうには行けなかったんですけど、久しぶりに、あんなに元気に笑っていて。
きっと、最後の挨拶に来てくれたのかなって……。」
真白は静かに頷き、柔らかく答えた。
「それはきっと、お母様があなたに“ありがとう”を伝えに来られたのでしょう。
――一緒に頑張ってくれて、ありがとうと。」
少し間をおいて、真白はそっと続ける。
「人が旅立つ時、よく“近しい人が迎えに来る”と言われます。
お母様の場合は……お祖母様がその手を取られたのでしょう。
だからきっと、その笑顔は全ての苦しみから解放された笑顔だったのでしょう。」
女性は静かに目を閉じ、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……そう、ですよね。そうだといいな。」
その言葉に、境内の木々がそっと揺れ、やわらかな風が二人の間を通り抜けた。
お茶の湯気がゆらめく中で、女性の心にはようやく、静かな温もりが戻っていた。
---
女性が立ち上がり、静かに縁側を後にすると、神社には再び静けさが戻った。
参拝者も少なくなり、社務所の業務がひと段落した頃、真白と紡ぎは顔を見合わせる。
「今日も、無事に終わりましたね。」
紡ぎの言葉に、真白は頷きながら小さく息をつく。
「そういえば、縁様が紡ぎを探していましたよ。」
「……えっ」
紡ぎの顔が一瞬で青ざめる。
(ま、まさか……さっきのお茶碗……!)
真白は静かに微笑んだ。
「心当たりがあるんですね?」
「……あの、な、ないとは言い切れません……」
「早く謝ってきましょう。縁様、優しいですから。」
「……(それは真白様の前限定なんですけど…)
(今、世の中で一番行きたくない場所だ…)」
夕暮れの社務所に、紡ぎの小さなため息だけが残った。
---
人生には、どうしても避けられない別れがあります。
それでも、見守り続けた時間や、
伝えたかった想い、そして“ありがとう”の気持ちは、
決して消えることはありません。
物語の中で描かれた静かな神社の風景が、
少しでも誰かの心をやわらかく包みますように。
そして――
ここまで読んでくださった皆様に
心からの感謝を込めて。
本当に、ありがとうございました(*´∀`*)




