7話 守り続けた伝統の味なのよ
「ほーらミレイ! 起きて起きて!」
「う、うぅん……?」
マリナさんに毛布をはぎ取られ、私はベッドの上でぼんやりと目を覚ました。
熱がこもっていた毛布を失い、寒さに身を震わせる。身体を縮こまらせるが、当然それだけでは足りなかった。もう一度眠りにつくのは無理みたいだ。
辺りはまだ薄暗い。夜明けからそう時は経っていないと思われる。しかしもう起きる時間だと言わんばかり(実際そうなのだろう)に、外からはカーン、カーン、と鐘の音が鳴り響いていた。
「リタも! 起きなさーい!」
「うるせぇな……起きてるよ……」
隣のベッドで眠っていたリタさんも強引に起こされ、眠い目を擦りながら文句を言っていた。
私たちは共にこの店で働く見習いとして、建物の二階にある徒弟用の一室を与えられ寝泊まりしている。多い時には三、四人が徒弟として生活していたという広い部屋だったが、今は私とリタさんの二人だけだ。
こうしてここにいるのは、マリナさんの提案によるものだ。騎士団詰め所での居候はいつまで厄介になっていいか分からず、当然だが給料なども出ない。それなら、このお店に住み込みで働いて賃金を稼ぎ、技術も学べば、一石二鳥で今後の生活基盤も作れるだろう、と。
あの時の貧民街の少女――リタさんが同じような立場の同僚だと知った時は驚いた。彼女はボサボサだった赤髪を短く切り揃え身綺麗にしていたのもあって、最初は誰だか分からず、二重に驚くことになった。
ちなみに私の身の上はマリナさんと相談した結果、家出少女が泊まり先と仕事を探していたということにしてもらった。別の世界から来たなどと言っても信じてもらえないだろうと判断してのでっち上げだったが、そんな怪しい子供をこの家の人たちは温かく迎えてくれた。感謝してもしきれない。
「さぁさぁ、二人共。身支度を整えたら顔と手を洗って。そしたら朝食が待ってるわよ。食べたら早速仕事に入るからね」
「ふぁい……」
半分寝ぼけながらも上体を起こし、なんとか返事をする。
寝ぼけまなこに映るのは、こんな早朝からでも元気にテキパキと指示を出すマリナさんの姿。
綺麗な銀のミディアム髪は結わえて背中に垂らされており、頭には三角巾を被っている。深い青の瞳は神秘的に輝き、私たちを見据えている。
背は私より少し高い。160㎝ちょっとぐらいだろうか? 全体的にスタイルが良く、特に胸は衣服(元の世界で言えばドイツの民族衣装、ディアンドル、だっただろうか? あれに近い)で強調されているのもあってより大きく見える。あちこち小さい自分は見劣りしてしまう。
「ふぁ……んん……」
あくびを噛み殺しながら、肌着だけになっていた身体に服を着ていく。ちなみにこちらでは裸で寝ることが多いそうなので脱ぐよう勧められたが、抵抗して下着で許してもらった。
当然だが、まだものすごく眠い。元の世界ではここまで早く起きることはなかったのだ。運動部の朝練や新聞配達でもしていれば違ったのかもしれないが、私はどちらも未経験だった。
着替え終わり、髪を梳く。ベッドの傍に置いておいた荷物からコンパクトの鏡を取り出し、髪形や顔色をチェックする。うん、問題ない。
「その鏡、小さくてかわいいわね」
「ありがとうございます。私も気に入ってるんです。……触ってみますか?」
「いいの?」
気になっているみたいだったので、マリナさんにコンパクトを手渡す。彼女は鏡を覗き込んだりコンパクトを何度も開閉したりと興味津々の様子だった。この世界にはまだこういう折り畳みの鏡はないのかもしれない。
「ねぇ、その鞄、他にもこういう面白い物が入ってるの?」
「え? えーと……そんなに面白いのはありませんけど……というか、ほとんどの物がもう使う機会もなくて……」
私と一緒に世界を渡った荷物のリュックだけど、こうして使うのはこの鏡くらいのものだ。他に入れてあったのは、スマホ……は、今のところ充電する方法がないので起動させるのも躊躇している。教科書やノート、筆記用具は、それこそ使う機会がない。体操着だけは、洗い替えとして重宝しているけれど。あとは、保湿用のリップやウェットティッシュ。それと……
「あ……絆創膏は、こっちでも使う機会があるかも」
「ばんそーこー?」
「傷に貼ると出血を抑えられて、治りも早くなるんです」
「塗り薬みたいなものかしら」
「どちらかというと、包帯に近いでしょうか。ちょっとした切り傷くらいなら、これを貼っておけば数日で治ってくれますよ」
「へ~、医者や神官に掛からなくて済むのは便利ね。じゃあ、怪我しちゃった時はミレイを頼ろうかしら」
「はい、任せてください。といっても、今持っている分がなくなるまでですけど」
そうして身だしなみを整え荷物を片付けてから、二人と一緒に一階に降りて顔と手を洗う。そして朝食の準備をしてくれていたマリナさんのお母さん、メリッサさんに挨拶し、全員で食卓に着いた。
そう、これで全員だ。マリナさんのお父さんは早くに亡くなっているらしい。現在この店はほぼ女性だけで切り盛りしており、男手は配達の際に手伝ってくれる幼馴染のウィルさんくらいなのだとか。話が逸れた。
「「《大地の女神エウセベイア、今日の糧に感謝します》」」
マリナさんとメリッサさんは目を閉じ、両手を胸の前で組んで、神さまに食前の祈りを捧げる。私と同じく、リタさんにも祈る習慣はなかった――もしくはまだ慣れていないのだろう。二人して慌てて形を真似る。
「さて、それじゃ食べましょうか」
マリナさんに促され、改めて食卓に目を向けた。
食卓に並ぶのは、スライスされた茶色のパン。ライ麦や全粒粉を使った、いわゆる黒パンというものだ。私も話には聞いたことがある。元いた世界、特に日本ではお馴染みの小麦粉を使った白パンと区別するためこう呼ばれる。
お皿には黒パンの他にも、薄く切った数種のソーセージやチーズなどが添えられていた。食卓には他にバターや蜂蜜、キャベツのような野菜を漬けたものも置かれている。各々好みでパンに乗せて食べるということだろうか。
どんな味がするのか。どう食べるのか。期待と戸惑いが同居する。
「私、黒パンって初めて食べます」
「そうなの? というかミレイのせか……住んでたところでも、パンは食べられてるの?」
「はい、ありますよ。昔はお米が主でしたけど、今はパンを食べる人も多いですね」
「お米かぁ。わたしも食べたことあるけど、お米も美味しいわよね」
「こっちにもお米があるんですか?」
異世界もののお約束として存在しないか、あっても広まっていないかかと思っていた。
「あるわよー。他の国からの輸入だけどね。この辺りは土地が痩せてるから、お米も小麦も育ちづらくて。だからこの街では、痩せた土地でも育ってくれるライ麦と、それを使って作る黒パンが主食になるわね」
なるほど。というかこっちの世界でも食材の名前は共通なんだ。いや、これはなぜか言葉が通じているのと一緒で、私に分かるように翻訳されているのだろうか?
「でも、パンはあるけど黒パンを食べたことないって、普段から食べてるのは白パンってこと? ……ミレイって、結構いい家の子?」
そういえば元の世界でも昔は、精製度の高い白い小麦は貴重で、それから作る白パンはお金持ちが食べるものだったとか。この世界の文化水準はまだ把握できてないけど、同様に白い小麦は貴重なのかもしれない。
「いえ、私の家は裕福というわけでは……単に私の住んでる国ではライ麦より白い小麦のほうが流通してるだけで。だから黒パンのほうが珍しいし、売ってるお店も限られているんです」
「なるほどねー。普段から白パンを食べられるなんて羨ましい気もするけど……でも、代々続くうちの黒パンだって負けてないわよ。ほら、これとかそれとか乗せて食べてみて」
「は、はい、いただきます」
促されるままに手を伸ばし、黒パンにバターを塗り、ソーセージにチーズ、野菜を乗せて――
私が元の世界で見聞きしたところによれば、黒パンは日持ちする代わりにずっしりと重く、固く、ボソボソしていて、味は独特の酸味があるとのことだった。なので恐る恐る口に含んでみるが……
(外側は固い、というか歯ごたえがあるけど、中は意外と柔らかくてモチモチしてる。味も、確かに酸味は感じるけど、気になるほどじゃないし、それとバターや具材の味が合わさって……)
「どう? どう?」
「はい、美味しいです……!」
焼いてから日にちが経ってないとか、粉の配合とか、具材との相性とか、色々理由はあるのだろうけど、思っていた以上に美味しい。
「ふふーん、そうでしょうそうでしょう。なんたってわたしが焼いたパンだもの。うちはこの街が建設される当初から続いてる老舗だからね。守り続けた伝統の味なのよ」
この店に誇りと愛着を持っているのだろう。マリナさんが得意げに笑みを浮かべてみせる。私より年上の彼女だけど、なんだかその姿が可愛く見えた。
「というわけで二人共、食事が済んだらこの伝統の味を継げるようわたしがビシバシ鍛えてあげるからそのつもりで――」
「そんなこと言って、貴女だって少し前に親方の資格取ったばかりで、弟子を取るのは初めてじゃないの」
「か、母さん! バラさないでよ!」
「なんだ、あんたも新米みてぇなもんなのか。じゃあ、あたしらと大して違わねぇじゃねぇか」
「全然違いますー。確かに教えるのは初めてだけど、パン作りに関しては十年以上の経験があるんだから。甘く見ないでよね」
「ハっ、こっちだって早く仕事覚えて食っていけるようにならなきゃいけねぇんだ。あんたにだってすぐに追いついてみせるからな」
バチバチと視線で火花を散らす二人を、メリッサさんが落ち着いた様子でたしなめる。
「二人共、朝から元気なのはいいけど、張り合うのは食事が終ってからにしてちょうだいね」
「「はい……」」
しゅんとした様子で返事をし、食事を再開する二人。そんなやり取りを見て、私は思わず笑みを浮かべていた。
ここは、温かい。
料理の美味しさ、だけじゃない。共に食事を囲む人たちの優しさが、この食卓には溢れている気がした。元の世界では経験のなかった、温かさが……
(……いけない。思い出しちゃダメだ)
沈みかけた心を寸前で立ち直らせる。この食卓にこんな気持ちで臨むのは失礼だ。
賑やかに食事を続ける三人をわずかに眩しく眺めながら、私は手にしたパンに再び噛り付いた。