九
それから十年が経っていた。
平成十四年、夏。
蝉が泣き叫ぶ夜、客席はすでに満席だった。
舞台裏の薄暗い廊下を、白粉の匂いが満たしていた。
あの頃と変わらない香りだった。
ただ違うのは、あのときの自分が少女で、今の自分は“舞踊家”であるということ。
鏡の前で紅を引くと、頬の骨格がくっきりと映った。
瞳の奥には疲労と誇りが宿っていた。
師範たちの挨拶も、弟子たちの視線も、恐れることはなくなっていた。
「……桐山さん、出番です。」
「……はい。」
立ち上がると、帯が背中に食い込んだ。
その痛みが、まだ自分が生きている証に思えた。
舞台袖に立つと、客席が薄闇の向こうに揺れていた。
スポットライトの熱が、まだ当たってもいないのに肌に伝わった。
三味線の調弦が響く。
撥の乾いた音が、祖母の声のように聞こえた。
——そうや。そのままや。
師範はもう亡くなっていた。
母も祖母もいない。
けれどこの舞台の空気が、あの稽古場の空気と同じに思えた。
扇を持つ手に汗が滲んだ。
祖母の形見だった白鷺の扇。
何度も修理し、今も細いひびが骨に走っている。
「……」
三味線が止まり、太鼓の音が鳴った。
薄闇の舞台に、一筋の光が落ちた。
一歩、踏み出した。
足袋越しに舞台の板が冷たく伝わった。
客席の奥が見えた。
そこに祖母がいた。
母もいた。
二人は何も言わず、ただ微笑んでいた。
扇を開く。
骨が乾いた音を立て、白鷺が夜空に羽ばたくように紙が広がった。
右足を踏み出し、腰を落とす。
肘を切らずに腕を返し、首筋を細く、美しく。
あの日、稽古場で繰り返した型。
寒さに震えながら、誰も見ていない闇の中で舞ったあの夜。
母を失い、祖母を失い、何もなくなった稽古場で泣きもせずに舞ったあの冬。
それら全てが、今ここに繋がっていた。
扇を返すと、袖の先が風を切った。
三味線が鋭く鳴り、太鼓が重く響いた。
客席の空気が震えた。
観客たちの視線が、一点に集中する気配がわかった。
熱と冷気が混ざり合い、舞台の上で蘭子は自分が“桐山”であることを感じていた。
——わたしは、舞台に立ってる。
涙が滲んだ。
けれど泣かなかった。
泣くと型が崩れる。
泣くと、最後まで舞えない。
扇を返し、踏み込み、舞台の端へと滑る。
袖で見守る弟子たちの姿が見えた。
かつての自分と同じ顔をしていた。
——舞、辞めたらあかんよ。
母の声が響いた。
扇を閉じ、深く頭を下げる。
——そうや。そのままや。
祖母の声が重なる。
頭を上げると、客席が揺れていた。
拍手が響いた。
少しずつ、そして次第に大きくなり、舞台全体を揺らすほどになった。
光の中で、蘭子はただ立っていた。
白粉の香りと汗の匂い、三味線と太鼓の余韻。
そして盛大な拍手。
その全てが、蘭子の中に刻まれていた。
——わたしは、舞台に咲く。
そう思ったとき、涙が一筋、頬を伝った。
けれど型は崩れなかった。
涙は静かに頬を滑り、白粉の匂いに溶けていった。
拍手は鳴り止まなかった。
客席の奥にまで響く、その音は波のように舞台を包み込んでいた。
扇を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
三味線の余韻が舞台に漂い、太鼓の低い音が腹の奥を震わせた。
光の中、白粉と汗が混じりあった匂いが鼻を突き、その匂いが遠い記憶を呼び起こした。
——あの日も、こんな匂いがしてた。
母が倒れた冬。
祖母が三味線を弾いていた稽古場。
まだ幼い自分が、帯を抱いて泣かないように震えていた夜。
舞台の中央に立つと、客席の奥に二人の姿が見えた。
祖母はいつものように背筋を伸ばし、厳しい目でこちらを見ていた。
母はその隣で、柔らかく微笑んでいた。
二人とも白く霞んでいたが、その瞳の奥だけははっきりと蘭子を見つめていた。
「……おばあちゃん。」
声にならない声が、唇を震わせた。
けれど泣かなかった。
涙は流れても、決して声にはならなかった。
舞台に立つ自分が、いま二人と同じ高さにいることを感じた。
祖母が守った桐山流。
母が繋いだ桐山の血。
その全てが今、自分という存在に集まっていた。
扇を開く。
白鷺が羽ばたく音がした。
客席の誰もが息を呑んだ気配が伝わった。
右足を踏み出し、腰を沈め、腕を伸ばす。
首筋を細く、美しく。
この動きに、何度も祖母の声を聴いた。
何度も母の眼差しを思い出した。
そして今、初めて誰の声も聞こえなかった。
——わたしは、わたしの舞を踊ってる。
踏み込み、扇を返す。
紙の端が風を切り、白粉の香りが一層強くなった。
目を閉じると、舞台が消えた。
闇の中、ただ扇を返し、足を運ぶ自分だけがいた。
そこには拍手も、三味線も、太鼓もなかった。
あったのは、祖母の声。
——ええ顔や。
そして母の声。
——綺麗やよ、蘭子。
目を開けた瞬間、光が頬を照らした。
舞台の光は熱く、まぶしく、涙がまた一筋流れた。
拍手は続いていた。
波のように広がり、また寄せては返す。
その音が、まるで潮騒のように蘭子を包んだ。
扇を閉じ、深く頭を下げた。
畳ではない舞台の板が、冷たく額に触れた。
その冷たさが心地よかった。
顔を上げると、祖母と母の姿は消えていた。
けれど、胸の奥に二人の匂いと声があった。
——ありがとう。
そう心で呟いたとき、三味線が静かに最後の音を奏でた。
それは、祖母が稽古を終えるときに必ず弾いていた音だった。
拍手がひときわ大きくなり、舞台全体を震わせた。
蘭子は涙を拭わず、ただまっすぐに客席を見つめた。
——わたしは、舞台に咲く。
そう思った。
その瞬間、自分の中にあった空白が静かに埋まっていくのを感じた。
拍手が鳴り止むことはなかった。
座席のひとつひとつから立ち上るように、その音は舞台へと届き、光の中で蘭子を包み込んだ。
舞台の中央に立ち尽くしたまま、蘭子は目を閉じた。
瞼の裏には、稽古場の冷たい畳があった。
まだ十五の少女だった自分が、雪の降る真夜中に一人で舞っていた記憶。
母を失い、祖母を失い、誰もいない稽古場で泣かないように扇を開き続けた夜。
その時の痛みも寒さも、今も胸の奥に残っていた。
けれど、あの夜を越えてきたからこそ、今この舞台に立っているのだとわかった。
目を開けると、白粉の香りが鼻を突いた。
それはいつも祖母が纏っていた匂いであり、母が最後まで捨てなかった香りだった。
香と汗と舞台の木の匂いが混ざり合い、蘭子の全身を満たしていた。
ゆっくりと扇を開いた。
白鷺が舞い上がるように、乾いた音が客席へと響いた。
三味線の最後の調べが流れ、太鼓が静かに打たれた。
右足を踏み出し、腰を落とす。
肘を切らず、腕を伸ばす。
首筋を細く、美しく。
光が眩しかった。
けれどその光は、あの寒い稽古場の闇に差し込む朝日のように思えた。
客席の奥に祖母がいた。
背筋を伸ばし、厳しい目でこちらを見つめていた。
その横で母が微笑んでいた。
二人とも何も言わなかった。
けれどその瞳には、確かな誇りと愛情が宿っていた。
——わたしは、舞台に咲く。
扇を返すと、白い袖が風を切った。
三味線の音が止まり、舞台には拍手だけが残った。
潮騒のように寄せては返す、その音の中で、蘭子は立ち尽くしていた。
——おばあちゃん。
心の中で呼ぶと、祖母が微かに頷いた気がした。
——おかあさん。
呼ぶと、母が優しく微笑んだ。
涙が零れた。
けれど泣き声は出なかった。
泣くと型が崩れる。
泣くと、最後まで立っていられない。
深く頭を下げた。
舞台の板の冷たさが額に伝わった。
顔を上げたとき、拍手はさらに大きくなった。
その音は、あの稽古場で聞いたことのない音だった。
血筋を失い、全てを失ったはずの自分が、今ここで拍手を浴びていた。
——わたしは、舞台に咲いた。
光が眩しかった。
その眩しさに目を細めたとき、祖母も母も、まるで光の中に溶けるように消えていった。
けれど胸の奥には二人がいた。
誰よりも厳しく、誰よりも優しく、自分を支えてくれた二人がいた。
拍手が続いた。
永遠のように感じた。
その音の中で、蘭子はただ立ち尽くしていた。
涙を零しながら、微かに微笑んでいた。
——ありがとう。
そう呟いた声は、拍手にかき消された。
けれど確かに、二人に届いた気がした。
光の中、幕がゆっくりと降り始めた。
拍手は止まなかった。
最後の最後まで、鳴り続けた。
閉じゆく幕の隙間から、蘭子は客席を見つめた。
そこに座る人々の拍手と視線と、そして祖母と母の面影を胸に刻みながら。
——わたしは、舞台に咲く。
その言葉だけが、静かに胸の奥で光り続けていた。
(完)