八
母を見送った朝、稽古場には雪明かりが射していた。
白く、静かで、あまりに眩しかった。
障子の隙間から差し込む光は、畳の目を青白く照らし出していた。
葬儀は簡素だった。
香典もほとんどなく、見送りに来たのは隣の八百屋のおばさんと、遠い親戚が二人だけだった。
母の遺骨を抱いて帰るとき、風が強く吹き、粉雪が蘭子の髪に降り積もった。
家の中は静かだった。
祖母が弾いていた三味線も、母が立てる包丁の音も、もう聞こえなかった。
聞こえるのは、自分の吐く白い息と、雪の降る微かな音だけだった。
稽古場に入り、正座する。
祖母の形見の扇を取り出す。
紙の端は破れかけ、骨には細かいひびが入っていた。
それでもこの扇がなければ舞えない。
この扇だけが、今の自分に残された“桐山蘭子”の証だった。
「……おかあさん……」
声に出すと、胸が痛んだ。
けれど泣かなかった。
泣くと扇が濡れる。
泣くと型が崩れる。
泣くと、もう立てなくなる。
扇を開き、右足を踏み出す。
腰を沈め、肘を切らずに腕を返す。
障子の外では、雪が激しく降っていた。
冷たい空気が稽古場に流れ込み、頬を刺した。
舞い続けるうちに、母の声が聞こえる気がした。
——舞、辞めたらあかんよ。
祖母の声も聞こえた。
——そうや。そのままや。
扇を返すたび、畳が震えた。
その小さな音が、三味線の撥の音に重なった。
舞い終わると、畳に手をつき、深く頭を下げた。
雪明かりに照らされた畳は、白く光っていた。
その夜、布団の中で帯を抱きながら、蘭子は思った。
——わたしは、舞台に立つ。
血筋が途絶えても、祖母も母もいなくても。
舞うことだけは奪われなかった。
舞台に立てば、きっと祖母にも母にも会える気がした。
翌朝、髪を結い、化粧をした。
鏡の中には、頬のこけた少女が映っていた。
けれど眉を整え、白粉を叩き、赤を引くと、その顔は少しだけ舞踊家の顔になった。
「……いってきます。」
誰もいない家に声をかけると、冷たい空気が返事のように胸に染みた。
雪の中を歩き、舞踊会館へ向かった。
道の両脇には、正月飾りが並び、門松の青竹が冷気に白く凍っていた。
すれ違う人々の視線が痛かった。
血筋を失った桐山の名は、もう守る者もない。
けれど蘭子は下を向かなかった。
会館の入り口に立つと、震えが止まらなくなった。
恐怖か、寒さか、自分でもわからなかった。
扉を開けると、暖かな空気と、微かな白粉の香りが鼻を刺した。
玄関には、師範や弟子たちが集まっていた。
皆が蘭子を見た。
冷たい視線、憐れむような視線、軽蔑の視線。
それらを全て浴びながら、蘭子は頭を下げた。
「……桐山蘭子です。舞わせてください。」
師範の女が眉をひそめた。
口紅の濃い唇が、薄く笑った。
「……血筋のない子が、舞えると思ってるの?」
その声は鋭く、寒さよりも深く蘭子の骨を凍らせた。
けれど蘭子は震える声で言った。
「……舞わせてください。お願いします。」
扇を差し出した。
祖母の形見の扇。
汚れて破れかけた扇を、蘭子は震える手で差し出した。
師範は黙ってその扇を見つめた。
部屋には、白粉と線香の混じった匂いが漂っていた。
その匂いは、かつて祖母が舞台裏で纏っていた匂いと同じだった。
沈黙の中で、蘭子は息を殺して立っていた。
背筋を伸ばし、首筋を細く、美しく。
——わたしは、舞台に立つ。
誰に笑われてもいい。
血筋がなくてもいい。
舞うことでしか、生きていけないのだから。
稽古場は冷たい空気に満ちていた。
窓からは雪の光が差し込み、畳の目が青白く光っていた。
師範の女は、蘭子が差し出した扇をしばらく無言で見つめていた。
その目は冷たく、扇ではなく、蘭子自身の全てを値踏みするようだった。
「……この扇は、桐山先生の。」
「……はい。」
「もう桐山流には後継ぎはおらんのに?」
「……はい。」
扇を持つ手が震えた。
震えを止めようと指先に力を込めると、骨が軋む感触が伝わった。
師範はゆっくりと立ち上がり、畳の上を滑るように歩いた。
香の匂いがふわりと漂い、蘭子の胸を締めつけた。
祖母が舞台裏で纏っていたあの香の匂いだった。
「……舞えるんか。」
「……はい。」
「血筋も後ろ盾もない子が、舞台に立ってどうする。」
「……」
「恥を晒すだけや。」
その言葉は鋭く、冷たく、冬の稽古場の空気よりも深く蘭子を刺した。
それでも、目を逸らさなかった。
祖母が言っていた。
——目を逸らすな。
——型が崩れる。
「……お願いします。舞わせてください。」
師範は黙ったまま扇を受け取り、骨のひび割れを指先でなぞった。
その指先は細く、節くれだっていた。
長年、舞扇を握り続けてきた者の手だった。
「……見せてもらおか。」
その一言で、稽古場の空気が震えた。
弟子たちが畳の上に並び、蘭子の方を向いた。
全ての視線が、突き刺さるように冷たかった。
蘭子は帯を締め直し、膝をついた。
祖母の形見の扇を開くと、乾いた音が畳に響いた。
冷たい空気が扇紙を震わせ、雪の匂いが稽古場に広がった。
右足を踏み出す。
腰を落とし、腕を伸ばす。
首筋を細く、鷺のように。
祖母の声が聞こえる気がした。
——そうや、そのままや。
扇を返すたび、畳が震え、冷たい空気が流れた。
弟子たちの視線は冷たかったが、その奥に僅かな揺らぎがあった。
それでも師範の目だけは変わらなかった。
氷のように冷たく、澄んでいた。
——わたしは、舞台に立つ。
扇を返す手が痺れるほど冷たくなっていた。
それでも動きを止めなかった。
止めれば、ここにいる意味がなくなる。
止めれば、自分が自分でなくなる。
舞い終わると、畳に額をつけた。
冷たい畳の感触が、涙を吸い込んでいった。
「……」
静寂が流れた。
稽古場には雪の光と、香の匂いだけが漂っていた。
師範が口を開いた。
「……あんたの舞は、綺麗や。」
「……」
「でも、それだけや。」
その声は無慈悲で、優しくもあった。
蘭子は頭を下げたまま、唇を噛んだ。
血の味が口の中に広がった。
「……舞台に立つ覚悟があるなら、稽古はつける。」
「……はい。」
「けど覚えとき。血筋がないということは、何倍も、何十倍も努力せなあかん。」
「……はい。」
「今日から稽古は朝五時。休むな。」
「……はい。」
頭を下げたまま、涙が畳に落ちた。
けれど泣き声は出なかった。
泣くと、型が崩れる。
障子の外では、雪が降り続いていた。
冷たい光が稽古場に射し込み、蘭子の背を照らしていた。
——わたしは、舞台に立つ。
その言葉だけが、胸の奥で熱を放っていた。
朝五時。
まだ陽の昇らぬ稽古場は、冬の闇に沈んでいた。
障子の向こうは黒々とした空で、星も月も隠れていた。
凍える空気の中、息を吐くと白く立ち昇った。
師範はもう座っていた。
三味線の調弦の音が、冷たい稽古場に響いていた。
その音は鋭く、張り詰めた糸のように蘭子の背筋を正した。
「……始めるで。」
「……はい。」
扇を取り、正座する。
右足を踏み出し、腰を沈める。
腕を伸ばし、首筋を細く、美しく。
一の型、二の型、三の型。
動きを止めず、息を切らさず。
冷たい畳に足袋が擦れる音だけが響いた。
「肘が切れとる。」
「……はい。」
「足幅、もっと落とせ。」
「……はい。」
師範の声は厳しかった。
けれど、その声が心地よかった。
誰もいない家に帰るよりも、こうして叱られている方がずっといいと思った。
稽古が終わると、陽はもう高く昇っていた。
雪がやみ、青空が広がっていた。
稽古場の天井から光が差し込み、畳を淡く照らしていた。
「……明日も来るか。」
「……はい。」
「血筋がない子が舞台に立つのは、恥を晒すことになるかもしれん。」
「……それでも、舞いたいです。」
師範は黙ったまま、三味線の弦を張り直していた。
その指先は、長年舞扇を握り続けた者だけが持つ強さと節くれ立ちがあった。
「……また明日や。」
「……はい。ありがとうございました。」
深く頭を下げると、帯が胸に食い込んだ。
痛みが心地よかった。
まだ生きていると思えた。
帰り道、空は青く澄み渡り、街路樹の枝に積もった雪が陽にきらめいていた。
吐く息は白く、体の芯まで冷えていたが、胸の奥は熱かった。
——わたしは、舞台に立つ。
そう思うと、母の声が蘇った。
——舞、辞めたらあかんよ。
祖母の声も聞こえた。
——そのままや。
家に戻ると、静寂が広がっていた。
稽古場へ向かう前に残した茶碗が、そのまま机の上に置かれていた。
埃を被った仏壇に手を合わせる。
祖母と母の写真が並んでいた。
二人とも厳しく、それでいて少し笑っていた。
「……ただいま。」
誰もいない家に声が響いた。
障子の外では、溶けかけた雪が滴となって落ちる音がしていた。
布団に入り、帯を抱きしめた。
祖母の匂いはもう消えていた。
けれど、その帯の硬さが胸にあたり、痛みと共に安堵を与えてくれた。
夢の中で、舞台に立っていた。
大きな舞台。
灯りが当たり、白粉の匂いと三味線の音が響いていた。
客席の奥に、祖母と母が座っていた。
二人は何も言わなかった。
けれど、その目は優しく、厳しく、そして誇らしげだった。
目が覚めると、外はまだ暗かった。
帯を抱きしめたまま、涙が滲んだ。
泣いてもいいと思った。
誰も見ていない夜の中でだけは。
——わたしは、舞台に立つ。
泣きながら、そう胸の奥で繰り返した。