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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
8/9

母を見送った朝、稽古場には雪明かりが射していた。

白く、静かで、あまりに眩しかった。

障子の隙間から差し込む光は、畳の目を青白く照らし出していた。


葬儀は簡素だった。

香典もほとんどなく、見送りに来たのは隣の八百屋のおばさんと、遠い親戚が二人だけだった。

母の遺骨を抱いて帰るとき、風が強く吹き、粉雪が蘭子の髪に降り積もった。


家の中は静かだった。

祖母が弾いていた三味線も、母が立てる包丁の音も、もう聞こえなかった。

聞こえるのは、自分の吐く白い息と、雪の降る微かな音だけだった。


稽古場に入り、正座する。

祖母の形見の扇を取り出す。

紙の端は破れかけ、骨には細かいひびが入っていた。

それでもこの扇がなければ舞えない。

この扇だけが、今の自分に残された“桐山蘭子”の証だった。


「……おかあさん……」


声に出すと、胸が痛んだ。

けれど泣かなかった。

泣くと扇が濡れる。

泣くと型が崩れる。

泣くと、もう立てなくなる。


扇を開き、右足を踏み出す。

腰を沈め、肘を切らずに腕を返す。

障子の外では、雪が激しく降っていた。

冷たい空気が稽古場に流れ込み、頬を刺した。


舞い続けるうちに、母の声が聞こえる気がした。


——舞、辞めたらあかんよ。


祖母の声も聞こえた。


——そうや。そのままや。


扇を返すたび、畳が震えた。

その小さな音が、三味線の撥の音に重なった。


舞い終わると、畳に手をつき、深く頭を下げた。

雪明かりに照らされた畳は、白く光っていた。


その夜、布団の中で帯を抱きながら、蘭子は思った。


——わたしは、舞台に立つ。


血筋が途絶えても、祖母も母もいなくても。

舞うことだけは奪われなかった。

舞台に立てば、きっと祖母にも母にも会える気がした。


翌朝、髪を結い、化粧をした。

鏡の中には、頬のこけた少女が映っていた。

けれど眉を整え、白粉を叩き、赤を引くと、その顔は少しだけ舞踊家の顔になった。


「……いってきます。」


誰もいない家に声をかけると、冷たい空気が返事のように胸に染みた。


雪の中を歩き、舞踊会館へ向かった。

道の両脇には、正月飾りが並び、門松の青竹が冷気に白く凍っていた。

すれ違う人々の視線が痛かった。

血筋を失った桐山の名は、もう守る者もない。

けれど蘭子は下を向かなかった。


会館の入り口に立つと、震えが止まらなくなった。

恐怖か、寒さか、自分でもわからなかった。


扉を開けると、暖かな空気と、微かな白粉の香りが鼻を刺した。

玄関には、師範や弟子たちが集まっていた。

皆が蘭子を見た。

冷たい視線、憐れむような視線、軽蔑の視線。

それらを全て浴びながら、蘭子は頭を下げた。


「……桐山蘭子です。舞わせてください。」


師範の女が眉をひそめた。

口紅の濃い唇が、薄く笑った。


「……血筋のない子が、舞えると思ってるの?」


その声は鋭く、寒さよりも深く蘭子の骨を凍らせた。

けれど蘭子は震える声で言った。


「……舞わせてください。お願いします。」


扇を差し出した。

祖母の形見の扇。

汚れて破れかけた扇を、蘭子は震える手で差し出した。


師範は黙ってその扇を見つめた。

部屋には、白粉と線香の混じった匂いが漂っていた。

その匂いは、かつて祖母が舞台裏で纏っていた匂いと同じだった。


沈黙の中で、蘭子は息を殺して立っていた。

背筋を伸ばし、首筋を細く、美しく。


——わたしは、舞台に立つ。


誰に笑われてもいい。

血筋がなくてもいい。

舞うことでしか、生きていけないのだから。

稽古場は冷たい空気に満ちていた。

窓からは雪の光が差し込み、畳の目が青白く光っていた。

師範の女は、蘭子が差し出した扇をしばらく無言で見つめていた。

その目は冷たく、扇ではなく、蘭子自身の全てを値踏みするようだった。


「……この扇は、桐山先生の。」


「……はい。」


「もう桐山流には後継ぎはおらんのに?」


「……はい。」


扇を持つ手が震えた。

震えを止めようと指先に力を込めると、骨が軋む感触が伝わった。


師範はゆっくりと立ち上がり、畳の上を滑るように歩いた。

香の匂いがふわりと漂い、蘭子の胸を締めつけた。

祖母が舞台裏で纏っていたあの香の匂いだった。


「……舞えるんか。」


「……はい。」


「血筋も後ろ盾もない子が、舞台に立ってどうする。」


「……」


「恥を晒すだけや。」


その言葉は鋭く、冷たく、冬の稽古場の空気よりも深く蘭子を刺した。

それでも、目を逸らさなかった。

祖母が言っていた。


——目を逸らすな。

——型が崩れる。


「……お願いします。舞わせてください。」


師範は黙ったまま扇を受け取り、骨のひび割れを指先でなぞった。

その指先は細く、節くれだっていた。

長年、舞扇を握り続けてきた者の手だった。


「……見せてもらおか。」


その一言で、稽古場の空気が震えた。

弟子たちが畳の上に並び、蘭子の方を向いた。

全ての視線が、突き刺さるように冷たかった。


蘭子は帯を締め直し、膝をついた。

祖母の形見の扇を開くと、乾いた音が畳に響いた。

冷たい空気が扇紙を震わせ、雪の匂いが稽古場に広がった。


右足を踏み出す。

腰を落とし、腕を伸ばす。

首筋を細く、鷺のように。


祖母の声が聞こえる気がした。


——そうや、そのままや。


扇を返すたび、畳が震え、冷たい空気が流れた。

弟子たちの視線は冷たかったが、その奥に僅かな揺らぎがあった。

それでも師範の目だけは変わらなかった。

氷のように冷たく、澄んでいた。


——わたしは、舞台に立つ。


扇を返す手が痺れるほど冷たくなっていた。

それでも動きを止めなかった。

止めれば、ここにいる意味がなくなる。

止めれば、自分が自分でなくなる。


舞い終わると、畳に額をつけた。

冷たい畳の感触が、涙を吸い込んでいった。


「……」


静寂が流れた。

稽古場には雪の光と、香の匂いだけが漂っていた。


師範が口を開いた。


「……あんたの舞は、綺麗や。」


「……」


「でも、それだけや。」


その声は無慈悲で、優しくもあった。

蘭子は頭を下げたまま、唇を噛んだ。

血の味が口の中に広がった。


「……舞台に立つ覚悟があるなら、稽古はつける。」


「……はい。」


「けど覚えとき。血筋がないということは、何倍も、何十倍も努力せなあかん。」


「……はい。」


「今日から稽古は朝五時。休むな。」


「……はい。」


頭を下げたまま、涙が畳に落ちた。

けれど泣き声は出なかった。

泣くと、型が崩れる。


障子の外では、雪が降り続いていた。

冷たい光が稽古場に射し込み、蘭子の背を照らしていた。


——わたしは、舞台に立つ。


その言葉だけが、胸の奥で熱を放っていた。

朝五時。

まだ陽の昇らぬ稽古場は、冬の闇に沈んでいた。

障子の向こうは黒々とした空で、星も月も隠れていた。

凍える空気の中、息を吐くと白く立ち昇った。


師範はもう座っていた。

三味線の調弦の音が、冷たい稽古場に響いていた。

その音は鋭く、張り詰めた糸のように蘭子の背筋を正した。


「……始めるで。」


「……はい。」


扇を取り、正座する。

右足を踏み出し、腰を沈める。

腕を伸ばし、首筋を細く、美しく。


一の型、二の型、三の型。

動きを止めず、息を切らさず。

冷たい畳に足袋が擦れる音だけが響いた。


「肘が切れとる。」


「……はい。」


「足幅、もっと落とせ。」


「……はい。」


師範の声は厳しかった。

けれど、その声が心地よかった。

誰もいない家に帰るよりも、こうして叱られている方がずっといいと思った。


稽古が終わると、陽はもう高く昇っていた。

雪がやみ、青空が広がっていた。

稽古場の天井から光が差し込み、畳を淡く照らしていた。


「……明日も来るか。」


「……はい。」


「血筋がない子が舞台に立つのは、恥を晒すことになるかもしれん。」


「……それでも、舞いたいです。」


師範は黙ったまま、三味線の弦を張り直していた。

その指先は、長年舞扇を握り続けた者だけが持つ強さと節くれ立ちがあった。


「……また明日や。」


「……はい。ありがとうございました。」


深く頭を下げると、帯が胸に食い込んだ。

痛みが心地よかった。

まだ生きていると思えた。


帰り道、空は青く澄み渡り、街路樹の枝に積もった雪が陽にきらめいていた。

吐く息は白く、体の芯まで冷えていたが、胸の奥は熱かった。


——わたしは、舞台に立つ。


そう思うと、母の声が蘇った。


——舞、辞めたらあかんよ。


祖母の声も聞こえた。


——そのままや。


家に戻ると、静寂が広がっていた。

稽古場へ向かう前に残した茶碗が、そのまま机の上に置かれていた。

埃を被った仏壇に手を合わせる。

祖母と母の写真が並んでいた。

二人とも厳しく、それでいて少し笑っていた。


「……ただいま。」


誰もいない家に声が響いた。

障子の外では、溶けかけた雪が滴となって落ちる音がしていた。


布団に入り、帯を抱きしめた。

祖母の匂いはもう消えていた。

けれど、その帯の硬さが胸にあたり、痛みと共に安堵を与えてくれた。


夢の中で、舞台に立っていた。

大きな舞台。

灯りが当たり、白粉の匂いと三味線の音が響いていた。


客席の奥に、祖母と母が座っていた。

二人は何も言わなかった。

けれど、その目は優しく、厳しく、そして誇らしげだった。


目が覚めると、外はまだ暗かった。

帯を抱きしめたまま、涙が滲んだ。

泣いてもいいと思った。

誰も見ていない夜の中でだけは。


——わたしは、舞台に立つ。


泣きながら、そう胸の奥で繰り返した。


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