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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
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冬の冷たい風が稽古場の障子を鳴らしていた。

朝になっても陽が差し込まず、畳は冷蔵庫の中のように冷たかった。

扇を開く指先がかじかみ、骨と紙の間に霜が降りたように白く見えた。


母の咳が台所から聞こえてきた。

近頃、母は咳き込むことが増えていた。

寝ているときも、炊事をしているときも、必ず乾いた咳をしていた。

咳の合間に吐息を混ぜ、食卓に置かれた急須の湯気をぼんやり見つめている姿は、どこか影のようだった。


「……おはよう。」


「……おはよう。」


声をかけると、母は笑顔を作った。

唇の皮がひび割れ、赤黒く滲んでいた。

その笑顔を見た瞬間、蘭子は胸が痛んだ。

けれど何も言えなかった。


「……ごはんは?」


「……ないけど、お湯は沸いてる。」


「……うん。」


茶碗に注がれた湯を啜ると、胃の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。

痛みが、わたしがまだ生きている証のように思えた。


学校では、クラスメイトが卒業後の進路の話で盛り上がっていた。

看護学校に受かった子、美容師見習いになる子、家業を継ぐ子。

話を聞きながら、蘭子は舞台のことを考えていた。

舞台がなければ、舞はただの形だけになる。

それでも、舞わなければならない。

それが自分に残された、たった一つの“生きる理由”だった。


放課後、母の薬を買いに行くため、商店街まで歩いた。

店先には正月飾りが並び、凍える空気にみかんの甘い匂いが漂っていた。

母の咳止めは、少し値上がりしていた。

小銭を数え、店員に渡すとき、手が震えて薬を落としかけた。


「大丈夫?」


「……はい。」


帰り道、薬袋を抱きしめながら歩いた。

夕陽が街を朱に染め、遠くの山裾に冷たい影を落としていた。

背中を丸めて歩く自分の姿が、ショーウィンドウに映っていた。

そこに映るのは、踊り子ではなく、ただの痩せた少女だった。


家に戻ると、母は布団に横になっていた。

頬が赤く、息が浅かった。


「……おかあさん。」


「……おかえり。」


「薬……買ってきた。」


「……ありがとう。」


蘭子は水を汲み、母の背を支えて薬を飲ませた。

母の体は軽く、支えるたびに骨ばった肩甲骨が手のひらに触れた。


「……稽古、してき。」


「……うん。」


稽古場に入ると、もう陽は落ちていた。

灯りをつけるお金はなかった。

障子の外にうっすらと月明かりが射し、畳の目がぼんやりと浮かび上がっていた。


扇を取り、正座する。

扇の骨は折れかけ、開くたびにかすかな悲鳴をあげた。

けれど開かない扇では舞えない。

力を込めて扇を開き、右足を踏み出した。

冷たい畳の感触が足袋越しに伝わる。


腰を落とし、肘を切らないように腕を返す。

祖母の声が頭の奥で響く。


——そうや。

——それでええ。


涙が出そうになった。

けれど泣かなかった。

泣くと呼吸が乱れ、型が崩れる。

舞台では涙は毒になる。

それを叩き込んだ祖母の声が、今も耳朶にこびりついていた。


扇を返すと、冷たい風が舞い上がった。

障子が揺れ、稽古場の空気が震える。

その小さな音が、かつて祖母が弾いていた三味線の音に聞こえた。


——おばあちゃん。

——わたし、まだ舞えてる?


誰も答えなかった。

それでも舞い続けた。

母が眠るあの布団の向こうで、冷たい月明かりだけがわたしを照らしていた。

朝、冷たい風が障子の隙間から吹き込んでいた。

蘭子は帯を抱きしめたまま、布団の中で目を覚ました。

祖母の匂いはとうに消えていた。

けれどこの帯だけが、眠りと現実を繋ぐ唯一の橋のように思えた。


母の咳き込む音が、台所から聞こえてきた。

その咳は昨日よりも深く、長く続いていた。

水道の音と咳が混じり、冬の朝の稽古場に響いていた。


「……おはよう。」


「……おはよう。」


母の声はかすれていた。

唇はひび割れ、頬が落ち窪み、目だけが大きく見えた。

痩せた母の背中は、湯気の立つ鍋の向こうで小さく震えていた。


「……ごはんは?」


「……お湯沸かしてる。」


「……うん。」


茶碗に注がれた湯は、白く煙っていた。

啜ると、胃の奥に熱が広がった。

少しだけ、頭がはっきりした。


学校へ行くと、廊下に飾られた習字の作品に、金賞銀賞の札が貼られていた。

名前を呼ばれ、褒められ、笑う声が響く。

その輪の中に自分の居場所はなかった。

歩きながら、稽古場のことを考えていた。


帰宅すると、母は布団の中で震えていた。

咳は止まらず、手の甲には赤黒い斑点が浮かんでいた。


「……おかあさん。」


「……おかえり。」


「……病院、行こう。」


「……お金、ないやろ。」


「……でも……」


「……大丈夫や。」


母の目が遠くを見ていた。

もう、何も映していない目だった。


夕方、稽古場に入ると陽は完全に落ちていた。

灯りをつけるお金はなく、月明かりだけが畳を照らしていた。


扇を取り、正座をする。

祖母の声が聞こえる。


——舞え。

——何があっても、舞え。


扇を開き、右足を踏み出す。

腰を沈め、肘を切らないように腕を返す。

息が白く、呼吸するたびに胸の奥が痛んだ。


——わたしは、なんのために舞ってるんやろ。


自問すると、答えが出なかった。

けれど扇を返す手は止まらなかった。

舞わなければ、生きている意味がなくなる。

舞わなければ、祖母に会えなくなる気がした。


障子が風に鳴り、冷たい空気が頬を撫でた。

その冷たさが、涙を凍らせた。


「……おばあちゃん……」


声に出すと、胸の奥で何かが崩れる音がした。

崩れた破片が血管を伝い、足元まで冷たく沈んでいくようだった。


それでも扇を閉じると、畳がきしんだ。

その音だけが、この稽古場にまだ命が残っていることを教えてくれた。


母の咳は止まらなかった。

母がいなくなれば、家も稽古場も失われる。

血筋の途絶えた桐山流には、誰も手を差し伸べてくれない。


それでも、舞わなければならなかった。


——わたしは、舞台に立つ。


畳に額をつけるように深く頭を下げると、涙が畳に滲んだ。

その涙は冷たく、そして温かかった。

夜明け前の稽古場は、真冬の闇に沈んでいた。

窓の外には雪が舞い、障子の隙間から吹き込む風は氷のようだった。

畳の上に座ると、足袋越しに骨まで冷たさが伝わった。


母の咳は、昨日から止まらなくなっていた。

もう水も受け付けなくなり、息をするだけで苦しそうに顔を歪めていた。


「……おかあさん。」


「……蘭子……」


母の声はかすれ、まるで誰か遠くの人が話しているように聞こえた。

枕元には、古びた扇が置かれていた。

祖母が使っていた、白鷺の絵柄の扇だった。

骨が折れ、紙は黄ばんでいた。


「……おばあちゃんの……」


「……あんたに……持っててほしい……」


母の瞳は潤んでいたが、涙は流れなかった。

もう体の水分すら枯れてしまったのだろうか。

蘭子は扇を両手で受け取った。

重さはほとんどなく、風が吹けば飛んでいきそうだった。


「……ありがとう。」


「……蘭子……」


「……なに?」


「……舞……辞めたらあかんよ……」


「……」


「……あんたが舞ってるとき……あんた……生きてる顔、してる……」


母の唇は乾き切り、声は途切れ途切れだった。

それでも、その言葉だけは最後まで濁らなかった。


「……わたし……おかあさんの娘で……よかった。」


母は微かに笑った。

そして、ゆっくりと瞼を閉じた。

呼吸は細く、長い間隔を空け、やがて完全に途切れた。


「……おかあさん……」


呼んでも返事はなかった。

何度も呼びかけた。

けれど、もう母は目を開けなかった。


障子の外で、風が雪を散らしていた。

雪は音もなく稽古場を冷たく染めていった。


蘭子は扇を胸に抱きしめた。

祖母の形見の扇。

血筋を失った今、この扇だけが自分を“桐山蘭子”でいさせるものだった。


泣かなかった。

泣くと扇が濡れてしまう。

泣くと型が崩れる。

泣くと、もう立てなくなる。


稽古場に入り、正座をする。

寒さで息が白くなり、畳の上に霜が降りているようだった。


扇を開き、右足を踏み出す。

腰を落とし、腕を伸ばす。

肘を切らないように。

首筋を鷺のように細く、美しく。


祖母の声が聞こえる気がした。


——そうや。

——それでええ。


母の声も聞こえる気がした。


——舞、辞めたらあかんよ。


扇を返すと、冷たい風が生まれた。

稽古場の空気が震え、障子が微かに鳴った。

その音は、三味線の音に似ていた。

祖母が撥を叩く、あの鋭い音に。


舞い続けた。

涙は零れなかった。

月明かりだけが、稽古場の中央に立つ蘭子を照らしていた。


——わたしは、舞台に立つ。


そう心の奥で呟くと、扇を返す手に、微かな熱が宿った。

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