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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
6/9

秋が来たことを知ったのは、稽古場の障子を開けたときだった。

冷たい風が、夏の匂いを攫っていった。

蝉の声は消え、代わりに虫の声が夜を震わせるようになった。


蘭子は毎朝、祖母の三味線に挨拶するように、稽古場の掃除をしていた。

埃の積もった胴掛けに布をかけ、撥を取り出しては、祖母の持ち方を真似した。

弾けないのに、撥を構えると背筋が伸びる気がした。


台所では、母が何も言わずに湯を沸かしていた。

食卓には、干からびた梅干しと、茶碗に少しの白湯だけが置かれている。


「……おはよう。」


「おはよう。」


「……今日は?」


「稽古。」


「……そうか。」


母の声はかすれていた。

昨夜から何も食べていないことは、二人とも知っていた。

それでも言葉にはしなかった。


学校へ行くと、教室の窓から金木犀の香りが入ってきた。

甘くて、柔らかくて、子どものころはこの香りが好きだった。

けれど今は、胸が痛んだ。

空腹のときに甘い匂いを嗅ぐと、吐き気がすることを知った。


「蘭子ちゃん、今日お弁当ないん?」


「……うん。」


「そっか……。あげよっか?」


「……いい。」


「大丈夫?」


「うん。」


笑おうとしたけれど、顔が引き攣った。

昼休み、机に伏せると、腹の奥で何かが泡立つように鳴った。

その音が誰かに聞こえる気がして、余計に顔を上げられなかった。


放課後、校門を出ると空が高く澄んでいた。

夕焼けが赤く、街全体を燃やしているように見えた。

歩きながら、足が何度も止まりそうになった。

けれど止まると倒れてしまいそうで、必死に歩を進めた。


帰宅すると、稽古場に直行した。

扇を握る手に力が入らない。

膝を折り、腰を落とすと、畳がひやりと冷たかった。


——舞え。

——何もなくても舞え。


祖母の声が聞こえる気がした。

けれど立ち上がれなかった。

力が入らない。

足袋を履く手が震え、扇を開こうとした指が痙攣した。


「……あかん……」


涙が滲んだ。

空腹の涙は苦かった。


夜、母が戻ると、稽古場の隅で蘭子は丸くなっていた。


「……蘭子。」


「……」


「これ。」


差し出されたのは、近所の八百屋からもらったという白菜の外葉だった。

少し土がついていて、虫食いの穴が空いていた。


「……食べ。」


「……」


かじると、青臭い水分が口に広がった。

苦味と土の匂いが混ざり、吐き出しそうになった。

けれど飲み込んだ。

胃の奥に届いたとき、少しだけ意識がはっきりした。


「……ありがとう。」


「……明日も、なんとかする。」


母の声は泣いていた。

けれど涙は流れていなかった。

泣くことは許されない。

舞踊家の家に生まれた者は、泣く前に立たなければならない。


夜、布団に入ると、祖母の帯を抱きしめた。

帯からは、もう祖母の匂いはほとんど消えていた。

それでも抱いていないと眠れなかった。


——おばあちゃん。

——わたし、舞えるかな。


虫の声が遠くで鳴いていた。

その音はまるで、三味線の高音のように胸に刺さった。

朝、目が覚めたとき、布団の中で指先が冷えて動かなかった。

帯を抱きしめたまま寝ていたから、体を動かそうとすると帯の芯が胸に食い込んだ。

痛いはずなのに、何も感じなかった。

空腹で痛覚すら鈍っているのかもしれなかった。


障子を開けると、稽古場の畳に朝日が射し込んでいた。

冬が近づいていた。

空気は乾き、ひんやりとしているのに、畳の匂いだけは湿気を含んでいた。

祖母が座っていた場所に、埃が溜まっている。

拭こうと立ち上がると、眩暈がしてよろけた。

柱に手をついて立て直す。


「……」


扇を取り、正座をする。

扇の骨はところどころ割れかけていて、紙の端は薄汚れていた。

それでもこの扇がなければ舞えない。

この扇だけが、祖母と自分を繋ぐものだった。


扇を返す。

空気が震え、小さな音が畳に響いた。

その音だけが、ここに自分がいる証のようだった。


「……」


右足を踏み出す。

腰を落とすと、頭の奥で白く光る景色が浮かんだ。

舞台の上、灯りの中で、祖母が舞う姿。

客席のざわめきが消え、三味線の音が鳴り響く。

祖母の肘は決して切れず、首筋は鷺のようにしなやかで、美しかった。

その姿を思い出すたび、胸が焼けるように痛んだ。


「……おばあちゃん……」


声を出した瞬間、涙がこぼれた。

涙は扇に落ち、薄汚れた紙をさらに滲ませた。


母の声が台所から聞こえた。


「蘭子……。ごはん、ないけど……」


「……いい。」


「……水、飲み。」


「……うん。」


立ち上がり、茶碗に水を注ぐ。

水は冷たく、口の中を満たしても何の味もしなかった。

胃に落ちると、少しだけ吐き気が治まった。


学校へ行くと、廊下に焼きそばパンの匂いが漂っていた。

クラスメイトが笑いながらパンを頬張る姿を見た瞬間、視界が歪んだ。

頭の奥で鈍い音が鳴る。

壁に手をつき、深呼吸をする。

冷たい汗が背中を伝った。


放課後、帰宅すると母が稽古場に座っていた。

母の背中は細く、影のようだった。


「……どうしたん。」


「……。」


「おかあさん。」


「……ごめんな……。何も、買えんかった。」


「……」


「おばあちゃんがおったら……こんなこと……」


母の声が震えていた。

泣いてはいけないと思った。

母が泣けば、家ごと崩れてしまう気がした。


「……わたし、舞う。」


「……え?」


「舞うから。」


蘭子は扇を取り、畳に正座した。

母は黙って見ていた。

泣きそうな顔をしていたけれど、涙は出なかった。


扇を開き、深く腰を落とす。

右足を踏み出し、白鷺の首筋を作るように腕を伸ばす。

祖母の声が聞こえる。


——そうや。

——それでええ。


涙が頬を伝い、扇に落ちた。

けれどその涙は、美しいもののように感じた。

涙を流しても、舞は止まらなかった。

むしろ、涙があるからこそ、舞に命が宿る気がした。


障子の外で、風が吹いていた。

秋の風は冷たく、けれど澄んでいて、心の奥まで届くようだった。


——わたしはまだ、生きてる。


そう思えたとき、扇を返す手に力が戻った。

その小さな音は、稽古場を満たすように、確かに響いた。

冬が訪れるのは早かった。

十一月の終わり、朝になると障子が白く凍りついている日が増えた。

稽古場の畳も、踏むたびに冷たさが足袋を通して骨まで届くようだった。

蘭子は毎朝、震える手で扇を取り、祖母がいた場所に正座した。

目を閉じると、祖母の三味線が聞こえる気がした。

けれどそれは音ではなく、記憶の奥底で錆びた鈴のように微かに響くだけだった。


その日、母は午前中から出かけていた。

家にある最後の着物を質に入れると言っていた。

帰ってきた母は、小さな紙袋を抱えていた。

中には、菓子パンが一つだけ入っていた。


「……これ。」


「……いい。」


「食べ。」


「……おかあさんは?」


「私はええから。」


母の指は荒れてひび割れ、白い粉を吹いていた。

台所の水仕事が増えてから、母の指先は冬が来るたびに血が滲むようになっていた。


蘭子は紙袋を受け取り、菓子パンのビニールを破った。

甘い匂いが広がり、涙が出そうになった。

けれど泣かなかった。

泣くと喉が詰まって、食べられなくなるからだ。


かじると、砂糖とマーガリンの味が広がった。

何日ぶりかに口にする甘さだった。

噛むたびに、奥歯が軋んだ。

食べ終えると、体の奥から少しだけ熱が湧き上がるのを感じた。


「……ありがとう。」


「……ううん。」


母は目を逸らしていた。

その目には、涙が溜まっていた。


夕方、稽古場に入ると、冷たい空気が張り詰めていた。

三味線は埃を被り、扇の骨も折れかけていた。

それでも舞わなければならなかった。

舞わなければ、わたしがわたしでいられなくなる気がした。


扇を開く。

右足を踏み出し、腰を落とす。

腕を伸ばし、白鷺の首筋を作る。

祖母が見ていた頃よりも、体は軽くなっていた。

痩せ細ったせいかもしれない。

けれど踊るたび、骨と筋だけになった体の奥で、小さな火が燃えているように感じた。


「……」


息が白くなった。

稽古場の隅で風が吹き込み、障子が微かに鳴った。

その音が、三味線の調弦の音のように思えた。


——肘を切るな。

——もっと深く沈め。


祖母の声が聞こえる気がした。

泣きそうになった。

けれど泣かなかった。

舞は泣く場所じゃない。

舞は、生きる場所だ。


扇を返すと、風が生まれた。

冷たい稽古場の空気が揺れ、畳が震えたように見えた。

扇を閉じると、呼吸が荒くなり、視界が暗くなった。

そのまま畳に手をつき、しばらく動けなかった。

心臓が早鐘を打つように鳴り、血の巡りが耳の奥で轟いていた。


「……」


やがてゆっくりと立ち上がると、障子の外には夜が訪れていた。

月はなく、黒い闇が庭を埋め尽くしていた。


台所から母の声が聞こえた。


「蘭子、ごはん……ないけど、お湯沸かしてる。」


「……うん。」


茶碗に注がれた湯をすすると、喉の奥が熱く痺れた。

胃が鳴り、空っぽであることを改めて知った。


布団に入ると、帯を胸に抱きしめた。

祖母の匂いはもうしなかった。

けれど、その帯がないと眠れなかった。


——おばあちゃん。

——わたし、まだ舞えるかな。


目を閉じると、夢の中で舞台に立っていた。

灯りの中、扇を返すと、客席が光に満ちていた。

客席にいる祖母が、三味線を持って笑っていた。


——そのままや。

——そのまま、舞いなさい。


夢の中で涙を流した。

けれどその涙は、美しく温かかった。

現実では泣けない涙だった。


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