五
春が過ぎても、祖母の三味線は稽古場に置かれたままだった。
白い胴掛けに薄く積もる埃を指で払うと、三味線の皮が少し緩んでいるのがわかった。撥を構えてみると、震える音がした。
——おばあちゃんの音やない。
扇を持ち直し、畳に正座する。障子の外では、雨の音がしていた。梅雨の終わりを告げるように、雨は強くもなく、弱くもなく、ただ静かに降り続いている。
母は台所で米を研いでいた。
研ぐたびに、米のぶつかり合う小さな音が、稽古場にまで響いてきた。
——今日も踊らなあかん。
けれど扇を返す手に力が入らない。
祖母がいない稽古場は広すぎた。三味線の音がない空間は、ただの畳の部屋でしかない。
舞は音を必要としない。
そう思い込もうとするたび、祖母の声が蘭子を責めた。
——何を迷うてる。
——舞台は待ってくれへんで。
その声が蘭子を立たせた。
足袋を履き直し、腰を落とす。扇を開き、白鷺の首筋を作るように腕を伸ばす。
けれど、どこかでわかっていた。
祖母が死んでから、桐山流に弟子は戻ってこなくなった。舞台の依頼も止まった。
家元が死んだ流派に、誰も金を払わない。
日本舞踊は芸術であると同時に、商いでもある。
その現実が、十五歳の蘭子の胸に重くのしかかった。
学校の帰り道、同級生たちは笑い合いながら進路の話をしていた。
看護師になる子、美容師になる子、商業高校を出て銀行に就職する子。
その輪の外を歩く自分は、まるで影のようだった。
「蘭子ちゃんは?」
「……え?」
「卒業したらどうするん?」
「……舞う。」
「ああ、すごいなあ。舞踊家って、稼げるん?」
「……わからん。」
「へえ……。うちも習ってみたかったけど、お金かかるしな。」
「……」
「じゃ、また明日。」
友達の声は、雨に溶けて消えていった。
ランドセルの中では、祖母の帯を包んだ和紙が微かに鳴っていた。
いつも持ち歩いている。祖母の匂いが消えるのが怖かった。
帰宅すると、母が新聞を読んでいた。
小さな家の中、新聞を広げる音がやけに大きく響く。
「ただいま。」
「おかえり。」
「……」
「踊ったん?」
「……うん。」
「稽古場、寒いやろ。」
「……大丈夫。」
母は新聞を畳み、茶を啜った。その目はどこか遠くを見ていた。
「今日、銀行行ってきた。」
「……うん。」
「預金、ほとんどないわ。」
「……」
「この家も……どうなるか。」
蘭子は黙って扇を抱きしめた。
家がなくなる。稽古場がなくなる。
祖母の三味線も、畳も、障子も、すべてが奪われる。
頭の奥がじんじんと痛んだ。
けれど涙は出なかった。泣くより先に、踊らなければならなかった。
夜、稽古場に入り、白鷺の舞を繰り返した。
三味線の音はなかった。
雨の音だけが、舞に合わせるリズムのように響いていた。
——わたしは舞う。
——何もなくなっても、舞う。
扇を返すと、空気が鳴った。
雨の匂いと畳の匂いが混ざり合い、祖母の稽古場の匂いが蘇る。
——おばあちゃん。
——わたし、まだ舞えてる?
誰も答えなかった。
それでも蘭子は扇を握りしめた。
舞台がなくなっても、客席がなくなっても、桐山蘭子として舞うことだけは失わないと、あの雨の日、強く誓った。
七月、梅雨が明けた日のことだった。
稽古場に一人で立っていた蘭子は、畳に落ちる陽の光を見つめていた。
祖母が死んでから初めて、舞台の依頼が入った。
小さな老人会の集まりで踊る、わずか三分の演目。
報酬は出ない。ただ、舞う機会が与えられるだけ。
母は何も言わなかった。ただ朝から薄塩の味噌汁を作り、台所で黙々と米を研いでいた。
蘭子は祖母の帯を胸に抱きしめ、白い襦袢に着替えた。
鏡に映った自分はまだ子どもだった。
頬は痩け、髪は切り揃えられたまま、まだ少女の面影が色濃く残っていた。
舞台は町内の集会所だった。
畳敷きの広間に椅子が並べられ、舞台はござを敷いただけの仮設舞台。
会場には薄い線香の匂いと、老人たちの白粉や汗の混じった匂いが漂っていた。
舞台袖も幕もない。
座布団に座る老人たちが、扇子で扇ぎながら蘭子を見つめていた。
「蘭子。」
「はい。」
母が呼ぶ声に振り向くと、母は白いハンカチを握りしめていた。
目元には涙が浮かんでいるのに、決して零さないようにしていた。
「……しっかり踊り。」
「……うん。」
「誰も見てなくてもええ。あんたの舞は、あんた自身が見るもんやから。」
「……わかってる。」
蘭子は扇を開き、深く息を吸った。
そこに三味線の音はなかった。
けれど、舞い始めた瞬間、耳の奥で祖母の三味線が鳴り響いた。
撥の音は鋭く、冷たく、そして優しかった。
——肘を切るな。
——白鷺になりなさい。
足を滑らせ、腰を落とすと、ござの下の木目が足袋越しに伝わってきた。
畳とは違う、乾いた木の感触。
けれど舞は止まらなかった。
視界の端で、老人たちがうとうとと眠り始めていた。
それでも構わなかった。
誰かに見せるために舞うのではない。
舞は、自分が生きていることを確かめるためにある。
扇を返すと、風が生まれた。
その風は、薄暗い集会所に小さな光を作ったように感じた。
舞が終わると、老人たちがぱらぱらと拍手をした。
礼儀としての拍手。
誰の胸も打たなかった拍手。
それでも、蘭子の胸は震えていた。
「ありがとうございました。」
深く頭を下げると、帯が少し解けかけていた。
母が駆け寄り、帯を直す手が震えていた。
「……きれいやった。」
「……ううん。」
「ほんまに……きれいやったよ。」
蘭子は顔を上げなかった。
涙を見せたくなかった。
涙は、舞を汚すから。
帰り道、夕立が降り出した。
母と二人、傘も差さずに走ると、浴衣も帯もずぶ濡れになった。
家に着いたとき、母は声をあげて笑った。
「びっちょびちょやん!」
「……うん。」
「でも、涼しいなあ。」
「……うん。」
雨で濡れた帯は、祖母の帯ではなく、母が昔使っていた古い帯だった。
黒地に淡い桜の刺繍が、雨に濡れて墨絵のように滲んでいた。
稽古場に戻ると、白鷺の刺繍帯を抱きしめた。
祖母の匂いは、まだそこにあった。
けれど少しずつ薄れていく匂いに、胸が痛んだ。
——おばあちゃん。
——わたし、ちゃんと舞えたかな。
障子の外では、雨がまだ静かに降り続いていた。
あの集会所の拍手が、雷のように遠くで響いている気がした。
静かな、誰にも届かない拍手だった。
けれど蘭子にとっては、世界でいちばん大きな拍手だった。
*
八月に入り、稽古場には蝉の声が響いていた。
障子を閉めていても、夏の熱気が畳を焦がし、足袋の裏がじりじりと焼けるようだった。
祖母が死んでから、もう半年が過ぎていた。
舞台の依頼は途絶えたままだった。
弟子たちは他の流派へ移り、稽古場はがらんどうの空間になった。
その日も、蘭子は一人で扇を持っていた。
扇の骨は少し緩み、開くと微かにきしむ音を立てた。
稽古場の空気は重く、空っぽの座布団が並ぶその光景が胸を締めつけた。
「……」
扇を開き、ゆっくりと踏み出す。
祖母の声が聞こえる気がした。
——足幅、狭い。
——腰を落とせ。
舞うたび、祖母が生きていた頃の稽古が蘇る。
怒号のように鋭く、しかしその奥にはいつも愛があった。
あの三味線の音、叱る声、空気を切る撥の鋭さ——
全てが蘭子の骨となり、血となっていた。
稽古を終えると、母が台所で煮物を温め直していた。
冷蔵庫には僅かな食材しかなかった。
祖母の年金も、弟子からの月謝もなくなり、生活は一気に苦しくなった。
「……稽古、終わった?」
「……うん。」
「今夜、お客さん来るよ。」
「……誰?」
「市の文化振興課の人。……こないだ手紙送ったやろ。」
「……ああ。」
「蘭子が舞えるように、なんとかできんかって相談した。」
「……」
「舞台がなくても、あんたの舞は止まったらあかん。」
その夜、文化振興課の職員は若い男だった。
スーツに汗染みができ、書類を鞄から何度も出し入れしていた。
「……つまりですね、伝統芸能保存事業の助成金申請には、法人格や後援会が必要でして。」
「法人……」
「はい。あるいは支援団体を設立して……」
蘭子は黙って座っていた。
話の内容がわからないわけではない。ただ、それは舞踊の世界ではなく、金と書類の世界の言葉だった。
男は言葉を切り、ためらうように蘭子を見た。
「……まだ、お若いですね。」
「……十五です。」
「……そうですか。」
男は視線を逸らした。
母は無言で俯き、爪を噛んでいた。
「いずれにせよ、家元さんが亡くなった今、維持は難しいかもしれません。」
「……そうですか。」
「また、何かございましたら。」
帰っていく男の背中を見送り、母は台所へ戻った。
蛇口を捻る音がして、水の流れる音が稽古場まで届いた。
蘭子は畳の上に正座したまま、開いた扇を見つめた。
母は稽古場に来なかった。
水の流れる音が止み、茶碗を洗う音が続いた。
——おばあちゃん。
——わたし、どうしたらええんやろ。
畳に両手をつくと、汗で扇が滑り落ちた。
骨が折れるような鈍い音が響き、扇は二つに折れた。
「……あ。」
折れた扇を拾い上げると、白い鷺の絵柄が真っ二つに裂けていた。
涙が溢れた。
扇が折れたからじゃない。
この扇と同じように、自分の中で何かが折れた音がしたからだった。
「……ごめんなさい……」
声を出した瞬間、嗚咽が込み上げた。
泣いてはいけない。
舞踊家は泣かない。
けれど止まらなかった。
祖母のいない稽古場。
弟子のいない桐山流。
誰も待たない舞台。
折れた扇を抱きしめたまま、蘭子は泣き続けた。
「……おばあちゃん……」
その夜、障子の外では蝉が鳴いていた。
夏の終わりを告げるように、蝉はただひたすらに鳴き続けていた。