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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
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春が過ぎても、祖母の三味線は稽古場に置かれたままだった。

白い胴掛けに薄く積もる埃を指で払うと、三味線の皮が少し緩んでいるのがわかった。撥を構えてみると、震える音がした。

——おばあちゃんの音やない。

扇を持ち直し、畳に正座する。障子の外では、雨の音がしていた。梅雨の終わりを告げるように、雨は強くもなく、弱くもなく、ただ静かに降り続いている。


母は台所で米を研いでいた。

研ぐたびに、米のぶつかり合う小さな音が、稽古場にまで響いてきた。

——今日も踊らなあかん。

けれど扇を返す手に力が入らない。

祖母がいない稽古場は広すぎた。三味線の音がない空間は、ただの畳の部屋でしかない。

舞は音を必要としない。

そう思い込もうとするたび、祖母の声が蘭子を責めた。


——何を迷うてる。

——舞台は待ってくれへんで。


その声が蘭子を立たせた。

足袋を履き直し、腰を落とす。扇を開き、白鷺の首筋を作るように腕を伸ばす。

けれど、どこかでわかっていた。

祖母が死んでから、桐山流に弟子は戻ってこなくなった。舞台の依頼も止まった。

家元が死んだ流派に、誰も金を払わない。

日本舞踊は芸術であると同時に、商いでもある。

その現実が、十五歳の蘭子の胸に重くのしかかった。


学校の帰り道、同級生たちは笑い合いながら進路の話をしていた。

看護師になる子、美容師になる子、商業高校を出て銀行に就職する子。

その輪の外を歩く自分は、まるで影のようだった。


「蘭子ちゃんは?」


「……え?」


「卒業したらどうするん?」


「……舞う。」


「ああ、すごいなあ。舞踊家って、稼げるん?」


「……わからん。」


「へえ……。うちも習ってみたかったけど、お金かかるしな。」


「……」


「じゃ、また明日。」


友達の声は、雨に溶けて消えていった。

ランドセルの中では、祖母の帯を包んだ和紙が微かに鳴っていた。

いつも持ち歩いている。祖母の匂いが消えるのが怖かった。

帰宅すると、母が新聞を読んでいた。

小さな家の中、新聞を広げる音がやけに大きく響く。


「ただいま。」


「おかえり。」


「……」


「踊ったん?」


「……うん。」


「稽古場、寒いやろ。」


「……大丈夫。」


母は新聞を畳み、茶を啜った。その目はどこか遠くを見ていた。


「今日、銀行行ってきた。」


「……うん。」


「預金、ほとんどないわ。」


「……」


「この家も……どうなるか。」


蘭子は黙って扇を抱きしめた。

家がなくなる。稽古場がなくなる。

祖母の三味線も、畳も、障子も、すべてが奪われる。

頭の奥がじんじんと痛んだ。

けれど涙は出なかった。泣くより先に、踊らなければならなかった。


夜、稽古場に入り、白鷺の舞を繰り返した。

三味線の音はなかった。

雨の音だけが、舞に合わせるリズムのように響いていた。


——わたしは舞う。

——何もなくなっても、舞う。


扇を返すと、空気が鳴った。

雨の匂いと畳の匂いが混ざり合い、祖母の稽古場の匂いが蘇る。


——おばあちゃん。

——わたし、まだ舞えてる?


誰も答えなかった。

それでも蘭子は扇を握りしめた。

舞台がなくなっても、客席がなくなっても、桐山蘭子として舞うことだけは失わないと、あの雨の日、強く誓った。

七月、梅雨が明けた日のことだった。

稽古場に一人で立っていた蘭子は、畳に落ちる陽の光を見つめていた。

祖母が死んでから初めて、舞台の依頼が入った。

小さな老人会の集まりで踊る、わずか三分の演目。

報酬は出ない。ただ、舞う機会が与えられるだけ。


母は何も言わなかった。ただ朝から薄塩の味噌汁を作り、台所で黙々と米を研いでいた。

蘭子は祖母の帯を胸に抱きしめ、白い襦袢に着替えた。

鏡に映った自分はまだ子どもだった。

頬は痩け、髪は切り揃えられたまま、まだ少女の面影が色濃く残っていた。


舞台は町内の集会所だった。

畳敷きの広間に椅子が並べられ、舞台はござを敷いただけの仮設舞台。

会場には薄い線香の匂いと、老人たちの白粉や汗の混じった匂いが漂っていた。

舞台袖も幕もない。

座布団に座る老人たちが、扇子で扇ぎながら蘭子を見つめていた。


「蘭子。」


「はい。」


母が呼ぶ声に振り向くと、母は白いハンカチを握りしめていた。

目元には涙が浮かんでいるのに、決して零さないようにしていた。


「……しっかり踊り。」


「……うん。」


「誰も見てなくてもええ。あんたの舞は、あんた自身が見るもんやから。」


「……わかってる。」


蘭子は扇を開き、深く息を吸った。

そこに三味線の音はなかった。

けれど、舞い始めた瞬間、耳の奥で祖母の三味線が鳴り響いた。

撥の音は鋭く、冷たく、そして優しかった。


——肘を切るな。

——白鷺になりなさい。


足を滑らせ、腰を落とすと、ござの下の木目が足袋越しに伝わってきた。

畳とは違う、乾いた木の感触。

けれど舞は止まらなかった。

視界の端で、老人たちがうとうとと眠り始めていた。

それでも構わなかった。

誰かに見せるために舞うのではない。

舞は、自分が生きていることを確かめるためにある。


扇を返すと、風が生まれた。

その風は、薄暗い集会所に小さな光を作ったように感じた。

舞が終わると、老人たちがぱらぱらと拍手をした。

礼儀としての拍手。

誰の胸も打たなかった拍手。

それでも、蘭子の胸は震えていた。


「ありがとうございました。」


深く頭を下げると、帯が少し解けかけていた。

母が駆け寄り、帯を直す手が震えていた。


「……きれいやった。」


「……ううん。」


「ほんまに……きれいやったよ。」


蘭子は顔を上げなかった。

涙を見せたくなかった。

涙は、舞を汚すから。


帰り道、夕立が降り出した。

母と二人、傘も差さずに走ると、浴衣も帯もずぶ濡れになった。

家に着いたとき、母は声をあげて笑った。


「びっちょびちょやん!」


「……うん。」


「でも、涼しいなあ。」


「……うん。」


雨で濡れた帯は、祖母の帯ではなく、母が昔使っていた古い帯だった。

黒地に淡い桜の刺繍が、雨に濡れて墨絵のように滲んでいた。


稽古場に戻ると、白鷺の刺繍帯を抱きしめた。

祖母の匂いは、まだそこにあった。

けれど少しずつ薄れていく匂いに、胸が痛んだ。


——おばあちゃん。

——わたし、ちゃんと舞えたかな。


障子の外では、雨がまだ静かに降り続いていた。

あの集会所の拍手が、雷のように遠くで響いている気がした。

静かな、誰にも届かない拍手だった。

けれど蘭子にとっては、世界でいちばん大きな拍手だった。



八月に入り、稽古場には蝉の声が響いていた。

障子を閉めていても、夏の熱気が畳を焦がし、足袋の裏がじりじりと焼けるようだった。

祖母が死んでから、もう半年が過ぎていた。

舞台の依頼は途絶えたままだった。

弟子たちは他の流派へ移り、稽古場はがらんどうの空間になった。


その日も、蘭子は一人で扇を持っていた。

扇の骨は少し緩み、開くと微かにきしむ音を立てた。

稽古場の空気は重く、空っぽの座布団が並ぶその光景が胸を締めつけた。


「……」


扇を開き、ゆっくりと踏み出す。

祖母の声が聞こえる気がした。

——足幅、狭い。

——腰を落とせ。


舞うたび、祖母が生きていた頃の稽古が蘇る。

怒号のように鋭く、しかしその奥にはいつも愛があった。

あの三味線の音、叱る声、空気を切る撥の鋭さ——

全てが蘭子の骨となり、血となっていた。


稽古を終えると、母が台所で煮物を温め直していた。

冷蔵庫には僅かな食材しかなかった。

祖母の年金も、弟子からの月謝もなくなり、生活は一気に苦しくなった。


「……稽古、終わった?」


「……うん。」


「今夜、お客さん来るよ。」


「……誰?」


「市の文化振興課の人。……こないだ手紙送ったやろ。」


「……ああ。」


「蘭子が舞えるように、なんとかできんかって相談した。」


「……」


「舞台がなくても、あんたの舞は止まったらあかん。」


その夜、文化振興課の職員は若い男だった。

スーツに汗染みができ、書類を鞄から何度も出し入れしていた。


「……つまりですね、伝統芸能保存事業の助成金申請には、法人格や後援会が必要でして。」


「法人……」


「はい。あるいは支援団体を設立して……」


蘭子は黙って座っていた。

話の内容がわからないわけではない。ただ、それは舞踊の世界ではなく、金と書類の世界の言葉だった。

男は言葉を切り、ためらうように蘭子を見た。


「……まだ、お若いですね。」


「……十五です。」


「……そうですか。」


男は視線を逸らした。

母は無言で俯き、爪を噛んでいた。


「いずれにせよ、家元さんが亡くなった今、維持は難しいかもしれません。」


「……そうですか。」


「また、何かございましたら。」


帰っていく男の背中を見送り、母は台所へ戻った。

蛇口を捻る音がして、水の流れる音が稽古場まで届いた。


蘭子は畳の上に正座したまま、開いた扇を見つめた。

母は稽古場に来なかった。

水の流れる音が止み、茶碗を洗う音が続いた。


——おばあちゃん。

——わたし、どうしたらええんやろ。


畳に両手をつくと、汗で扇が滑り落ちた。

骨が折れるような鈍い音が響き、扇は二つに折れた。


「……あ。」


折れた扇を拾い上げると、白い鷺の絵柄が真っ二つに裂けていた。

涙が溢れた。

扇が折れたからじゃない。

この扇と同じように、自分の中で何かが折れた音がしたからだった。


「……ごめんなさい……」


声を出した瞬間、嗚咽が込み上げた。

泣いてはいけない。

舞踊家は泣かない。

けれど止まらなかった。


祖母のいない稽古場。

弟子のいない桐山流。

誰も待たない舞台。

折れた扇を抱きしめたまま、蘭子は泣き続けた。


「……おばあちゃん……」


その夜、障子の外では蝉が鳴いていた。

夏の終わりを告げるように、蝉はただひたすらに鳴き続けていた。


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