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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
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冬の気配が稽古場に忍び寄ると、畳の匂いまで冷たく澄んでいった。

祖母の三味線は、いつもより低く、深い音を響かせていた。

襖を隔てた廊下には、灯油ストーブの匂いが漂っている。石油の匂いは、なぜか心を落ち着かせる匂いだった。火の温かさより、匂いだけが部屋を満たす。そんな冬の空気。


「蘭子。」


「はい。」


「来月から、名取試験の稽古を入れる。」


「はい。」


名取試験。十五を過ぎ、正式に桐山蘭子として名を許される儀式。

それは喜びではなく、重さだった。

稽古場の障子を開けると、庭には霜柱が立っていた。ざくざくと踏むとき、足袋の裏に伝わる冷たさが好きだった。


学校では、周囲の女の子たちが卒業後の進路を話し合っていた。

誰もが看護学校や短大、就職試験のことを話している。

蘭子にはその輪が、遠い世界の光の粒のように見えた。


帰宅すると、母が台所で煮物を作っていた。干し椎茸と鶏肉の匂いが、古い家屋の廊下を満たす。


「おかえり。」


「ただいま。」


「今日は寒かったね。」


「うん。」


鍋の湯気が母の眼鏡を曇らせている。

いつもよりも少しだけ優しく見えた。

祖母は居間で三味線の糸を張り替えていた。

障子越しに、調弦の音が短く響く。

それはまるでこの家の心臓の音のようで、響くたびに息を整える自分がいた。


「蘭子。」


「はい。」


「今日は飯、食うとき。」


「……はい。」


いつもなら「米は半分や」と言われるのに、その日は違った。

母が大皿に盛った煮物をよそい、茶碗に白米を盛ってくれた。

祖母は何も言わなかった。

無言で煮物を口に運び、白湯を飲み込むと、箸を置いた。


「食べ。」


「……はい。」


口に入れた米は甘く、噛むたびに涙が出そうになった。

身体に染み渡る温かさと甘さ。

けれど、祖母の目が自分を見つめている気がして、涙は飲み込んだ。


その夜、母が布団を敷きながらぽつりと呟いた。


「おばあちゃん、病院行かないんやね。」


「病院?」


「うん。最近ずっと咳してるやろ。」


「……うん。」


「家元は舞台の上で死ねたら本望、って言うけどな。」


母は布団を整える手を止め、薄く笑った。


「でも、やっぱり病院行ってほしいよね。」


蘭子は返事ができなかった。

障子の外では、冬の風が竹林を鳴らしていた。

その音は三味線の低音によく似ていて、寒さよりも、胸の奥がひやりと冷えた。


年が明ける頃、祖母の咳はひどくなっていた。

朝の稽古を始めようと稽古場に向かうと、三味線が鳴っていないことに気づく。それだけで、空気が変わる。

張りつめていた水面が、ふとゆるんで軋む音。

障子の奥、畳に正座した祖母が、膝に毛布をかけて俯いていた。


「おはようございます。」


「……ああ。」


その声はかすれ、糸のようだった。

けれど背筋だけはぴんと伸びていて、蘭子はそれだけで稽古を始めるべきだと思った。


「……三味線、今日は、要らん。」


「……はい。」


扇を持つ手が冷える。

踏み出した瞬間、畳が少し軋む。祖母は何も言わない。

声がない稽古は怖かった。正解も、間違いも、何も教えてくれない。自分で探るしかなかった。


「……目線、落ちとる。」


「……はい。」


低く絞り出したようなその一言が、胸に刺さった。

振り返るように舞うたび、祖母が咳き込む音が耳に入る。

それがもう何十日も続いていた。


夜、風呂上がりの母が小声で言った。


「病院、連れて行こう思う。」


「……おばあちゃん、行かへんて言う。」


「わかってる。でも、あんたの名取試験が近いんや。」


「……うん。」


「それまでに倒れたら、誰が三味線弾くの?」


「……」


「桐山の血筋って、家元の三味線の音と、舞手の呼吸が合うことやろ。」


「……そうやけど。」


「だったら、今、守らなあかんのは“流派”やろ?」


母の言葉には棘があった。でもその棘は、ずっと祖母に突き刺さらずに、母の中で痛み続けてきたのかもしれなかった。


その翌朝、祖母は稽古場に現れなかった。

炭を起こす音も、三味線の撥の音も聞こえなかった。


「おばあちゃん、起きてへん。」


「……え?」


母が祖母の部屋を開けると、寝台の上、布団に横たわった祖母が、静かに目を閉じていた。

息はしていた。けれど、顔は土のように白く、頬は深く削げていた。


すぐに病院に連れて行かれた。

母と蘭子が後から駆けつけたとき、ベッドの上で祖母は静かに酸素を吸っていた。


「おばあちゃん。」


「……よう……来たな……」


その声は、まるで別人のように細く、透き通っていた。

それでも、祖母は蘭子の顔を見ると、微かに笑った。


「名取……の稽古……忘れたら……あかん。」


「……忘れてへん。」


「……扇……ちゃんと、使いなさい……」


「うん。」


「……鷺の……肘……切るな……」


「わかってる。」


祖母は目を閉じ、静かに頷いた。

その姿は、まるで稽古場の朝に見た、三味線を抱える後ろ姿と変わらなかった。


病室の窓の外には、早咲きの梅がひとつ、淡い紅を灯していた。

それはまるで、祖母の命が最後に咲かせた小さな光のように、あたたかく、静かに揺れていた。

祖母は、春を待たずに逝った。

二月の終わり、梅の花がようやく満開になった朝、病室の白いカーテンが微かに揺れる中で、祖母は眠るように息を引き取った。


通夜の夜、稽古場は静まり返っていた。

祖母の三味線が置かれたままになっている。白い胴掛けには薄い埃が積もり始めていた。

その夜は、蝋燭の火と線香の煙だけがゆらめき、葬儀屋の人が出入りするたびに、障子が揺れて冷たい隙間風が入った。


「おばあちゃん……」


祖母の部屋には、家元としての祖母ではなく、ただ一人の老婆の匂いが残っていた。

箪笥には、祖母が若い頃舞台で使った帯が何本も巻かれ、和紙で包まれていた。

その中に、色の褪せた一本の帯があった。黒地に白鷺の刺繍。

初舞台で蘭子が踊った「雪の白鷺」と同じ柄だった。


「……これ。」


そっと取り出してみると、帯は驚くほど軽かった。

祖母の身体のように、余計なものを削ぎ落とし、ただ美しさだけを残した帯。

その刺繍の鷺は、今にも羽ばたきそうで、けれど冷たく静かに氷の上に立っていた。


「蘭子。」


「……はい。」


母が後ろに立っていた。

目は赤く腫れていたが、泣き疲れたような諦めの色があった。


「これから、あんた一人やで。」


「……うん。」


「桐山流は、おばあちゃんで終わりかもしれへん。」


「……」


「もう、血筋守ってくれる人も、後ろ盾もない。あんたが続ける言うても、舞台に立てるかわからん。」


「……わかってる。」


「でも。」


母は帯に視線を落とした。


「あんたの舞は、おばあちゃんが守ったんやで。」


「……」


「おばあちゃんが弾いた三味線の音が、あんたをここまで連れてきたんや。」


「……うん。」


「桐山流がなくなっても、あんたの舞は残る。……それでええんやない?」


蘭子は帯を抱き締めた。

黒い帯地に顔を埋めると、織糸の匂いと、祖母の箪笥の匂いが混ざっていた。

冷たくて、優しい匂いだった。


葬儀の日、稽古場には門弟や弟子たちが集まった。

誰もが黒紋付に白足袋を履き、三つ指をついて祖母の遺影に頭を下げた。

祖母は笑っていなかった。家元としての厳しい顔で、ただ真っ直ぐに前を見ていた。


その夜、全てが終わり、家には蘭子と母だけが残った。

障子を閉めると、稽古場は冬の冷気に満ち、畳がひやりと肌を刺した。

蘭子は扇を取り出し、畳に正座した。


扇を返すと、骨の鳴る音が小さく稽古場に響いた。

三味線は鳴らない。祖母の声もない。

けれど耳の奥であの声が響いていた。


——肘を切るな。

——白鷺になりなさい。


涙は流れなかった。

涙は、舞に必要ない。


「……おばあちゃん。」


「わたし、まだ舞うからな。」


夜明け前、稽古場の障子が白み始めた。

新しい朝の光の中で、祖母の遺影に微かに影が射した。

桐山の血筋は、ここで終わる。

けれど舞は、まだ終わらない。

蘭子の中で、生き続ける限り。

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