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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
3/9

梅雨が明けると、蝉の声が稽古場を埋め尽くすように鳴り響いた。障子を閉めていても、その音は木霊し、三味線の調べに混ざると、まるで大地のうねりのようだった。

蘭子は十五歳になっていた。来月、初舞台を迎えることが決まった。祖母から告げられたとき、胸が高鳴った。けれど同時に、膝が震えそうになるほどの恐怖もあった。

朝四時、稽古場に入り、三味線の音と祖母の声に合わせて扇を返す。冷たい畳の感触は夏になっても変わらず、汗ばんだ足袋を冷やしてくれるのが心地よかった。

夏の演目は「雪の白鷺」だった。

祖母は、初舞台であっても決して“易しい”演目を与えなかった。

三味線が強く弾かれ、撥が畳を叩くような響きを作る。蘭子は肩を落とし、膝を折り、扇を開いた。障子越しの朝日は夏の湿気を纏い、稽古場を微かに照らす。

白鷺の羽根が雪を払う。

冬の冷たさを思い出しながら舞うと、蝉の声さえ遠く感じた。


稽古が終わると、祖母は黙ったまま三味線を置き、襖を開けた。

その背中を追うようにして、蘭子も正座の姿勢を解く。汗が首筋を伝い、稽古着の襟を濡らした。


「来週から、減量や。」


祖母は茶を啜りながら言った。

「はい。」

蘭子の声はかすれていた。

「十五や。もう子どもの舞では通らん。身体を絞って、骨を見せる。女の舞は、骨が踊るんや。」

「はい。」

返事をすると、胃が冷たく締め付けられる感覚があった。稽古場の片隅に置かれた秤。体重を計るたび、数字が自分の価値を測るもののように感じられた。

「米、半分や。」

「はい。」

「魚も要らん。野菜と味噌だけでええ。」

「はい。」

会話はそれだけだった。祖母は茶を飲み干すと、また稽古場へ戻り、三味線の糸を張り替え始めた。障子の外では、蝉が一斉に鳴き出していた。


減量の日々が始まった。

朝は白湯とわずかな味噌汁。昼は稽古の合間に干した切り干し大根を齧るだけ。夜は茶碗半分の米と味噌汁。食べ終わったあと、胃が満たされることはなかった。空腹で眠れない夜、布団の中で祖母の三味線の音を思い出すと、少しだけ痛みが和らぐ気がした。


夜明け前、稽古場へ向かう廊下のガラス戸に、自分の影が映る。痩せた頬、張り出した鎖骨、細い手首。

——これでいいんや。

そう呟き、扇を握り直す。

足袋の裏が畳に触れると、冷たさが骨にまで沁みた。その冷たさが心地よかった。

初舞台まで、あと二週間。


初舞台当日の朝、蝉の声がまだ暗い空に響いていた。

祖母はいつもよりも早く蘭子を起こした。

「起きなさい。」

その声には、いつもと同じ厳しさがあった。眠気は一瞬で消えた。布団を跳ねのけ、足袋を履く。稽古着ではなく、下着の上に白襦袢をまとった自分の姿が、鏡の中に映った。頬は細く削げ、鎖骨は影を作っていた。

——これでええんや。

心の中で呟き、襦袢の襟を整える。

台所では、祖母が湯を沸かしていた。

「水は飲むな。」

「はい。」

「口を湿らすだけにしとき。」

「はい。」

湯呑みに少量の白湯を注ぎ、唇を濡らす。喉が乾き切っているのに、飲み込むことは許されなかった。

舞台は昼からだったが、支度は夜明けとともに始まる。稽古場で扇を開き、身体をほぐすと、祖母が三味線を抱えた。


「扇を返しなさい。」


三味線の糸が張られる音が稽古場に響く。その音は、朝の稽古場に射す薄明かりよりも冷たく澄んでいた。

「もっと首筋を伸ばしなさい。」

「はい。」

「膝が甘い。」

「はい。」

「今日、客席に見せるのはおまえの肉やない。骨や。骨を見せなさい。」

「はい。」

膝を折り、扇を返す。呼吸をするたびに腹の奥が痛んだ。空腹で力が入らないのを、意識から追い出す。

蝉の声が止み、遠くで電車の音が聞こえた。稽古場に時間が戻った合図だった。


会場の楽屋は薄暗く、畳敷きの床にはすでにいくつもの衣装箱が並んでいた。祖母は黙って蘭子を座らせると、化粧を施し始めた。油の匂いと白粉の匂いが混ざり合い、鼻腔を刺す。

鏡の中で、白粉を塗られる自分の顔が、誰だかわからなくなる。真っ白な肌、紅を差された唇。

「目を閉じなさい。」

「はい。」

紅を引く祖母の手は、一切の震えもなく、ただ静かに唇の輪郭をなぞった。

「今日の舞台は、おまえの人生で一度きりや。」

「はい。」

「でもな、今日の舞台が、おまえの人生のすべてでもある。」

「はい。」

鏡の中で、自分の目が涙で潤んでいることに気づく。

「泣くな。」

「はい。」

「目が腫れる。」

「はい。」

襟元を抜かれ、背中に白粉を引かれると、冷たさに肩が震えた。祖母は化粧を終えると、一歩下がり、蘭子を見た。その瞳の奥には、稽古場と同じ厳しさだけがあった。


舞台袖は薄暗く、幕の隙間から見える客席には、無数の顔が霞んで揺れていた。祖母が三味線を構える音が響くと、空気が張り詰める。

「蘭子。」

「はい。」

「白鷺になりなさい。」

「はい。」

「おまえは桐山の舞を背負ってる。」

「はい。」

「でもな。」

祖母が言葉を切り、蘭子の帯を直した。


「舞台に立ったら、桐山も血筋も忘れなさい。鷺になるんや。」


「はい。」

扇を握る手が震えていた。祖母が三味線の撥を構えると、その震えは止まった。

舞台袖の空気は、稽古場よりも冷たかった。真夏の昼下がりだというのに、空調が効きすぎた楽屋と冷たい板張りの廊下を歩いてきた身体は、震えるほど冷えていた。それでも、白粉を塗った肌の下には熱が篭っていた。

初舞台の幕が上がるまで、あと数分。

三味線の糸を張る音が、舞台袖に小さく響いた。祖母の指先はいつもと変わらず落ち着いていた。けれど、祖母の背中に寄り添うようにして立つ蘭子には、その張り詰めた気配が痛いほど伝わっていた。


「蘭子。」


「はい。」


「今日はお父さんも見とる。」


「はい。」


蘭子は小さく頷き、客席の奥を見た。父の姿はどこにもないのに、舞台袖の暗がりの向こうに、あの黒紋付の背中が見える気がした。

——舞、続けるんやで。

病室で最期に言われた言葉が蘭子の耳の奥で響く。あのときはただ泣きたいだけだった。でも今は違う。あの言葉が、怖さで潰れそうな自分を支えてくれる。


舞台監督が幕の横で小さく手を挙げる。

祖母が三味線を抱え直し、撥を構えた。

蝉の声も届かない、冷たく張り詰めた静寂。

三味線の一音が空気を切り裂いた。


扇を開き、踏み出した瞬間、白粉を塗られた自分の顔も、背中に結ばれた帯も、何もかもが遠くなった。視界にあるのは、冬の池の淵に佇む一羽の白鷺だけ。夏の舞台の上で、蘭子は確かに雪を見ていた。

扇の骨が震え、舞台に金属音が響く。

扇を返すたびに、汗が襦袢の下で流れ落ちる。けれどその冷たささえも、舞の中で溶けていった。


客席の奥、黒紋付の父が微笑んでいる気がした。

——わたしは鷺や。

首筋を伸ばし、肘を切らず、ただ白鷺になる。

祖母の三味線の調べは凛としていて、その音に抱かれるように舞うと、怖さも空腹も消えていった。


舞が終わった。

扇を閉じ、静止した身体に熱が戻る。足袋越しに感じる舞台の冷たさが心地よかった。

客席から拍手が起きる。熱を帯びた拍手ではなかった。淡く、礼儀としての拍手。それが悔しかった。

——わたしは、まだ舞えてへん。

舞台袖に戻ると、祖母が三味線を置き、ゆっくりと蘭子を見た。


「今日のおまえは、まだ子どもやった。」


「……はい。」


「でも、ようがんばった。」


その一言が胸に沁みた。

祖母は三味線を抱え直し、襖の向こうへ歩いていった。

楽屋に戻ると、鏡の中で白粉が汗に滲み、顔が少し崩れていた。帯を解こうとした指が震える。

——まだや。

——わたしはもっと、舞わなあかん。

そう思った瞬間、涙が頬を伝った。

冷たい鏡の前で、涙に濡れた唇を噛みしめる。

蝉の声が遠くで鳴いていた。

夏の舞台は終わったけれど、蘭子の舞は、まだ始まったばかりだった。

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