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舞わぬ花  作者: 柳 凪央
2/9

病院の廊下は、冬の朝の冷気よりも冷たく感じられた。蛍光灯の白い光が床に反射し、そこを歩く自分たちの影が歪んで伸びる。祖母の歩幅は決して広くないが、一歩一歩が迷いなく、速かった。蘭子は小走りでついていく。足袋を履いた足が病院のリノリウムの床に擦れ、滑りそうになるたびに、祖母の背中が遠くなる気がして胸が詰まった。


「早くおいで。」

振り返りもせずに祖母が言う。その声には、いつもと同じ、稽古場での厳しさがあった。けれども今、その声はどこか震えているように聞こえた。

病室の前で祖母が立ち止まり、襖ではなく冷たい金属のドアをそっと押した。部屋の中には、朝の光が薄く差し込んでいた。無機質なカーテン、鉄製のベッド柵、そして小さな呼吸音を立てて横たわる父。鼻と口には酸素マスクがつけられ、頬は痩せこけ、皮膚の色は畳の縁のようにくすんでいた。


「お父さん……。」

蘭子は声を出すことが怖かった。声をかけた瞬間、父が消えてしまう気がした。

祖母は何も言わず、病室の隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。その指は膝の上で組まれ、着物の袖がわずかに滑り落ちる。祖母の手首には、三味線を弾くときにできた硬い皮膚の盛り上がりがあった。あの指で何度も撥を叩き、弦を押さえ、舞台を作り上げてきたのだと思うと、怖いほどの尊さを感じた。


「蘭子。」

祖母が短く呼んだ。蘭子はベッドの傍に歩み寄った。父は目を閉じている。動いているのは胸だけで、それさえもか細く、今にも止まりそうに見えた。

——舞台に立つ父しか知らない。

稽古場で三味線を弾く祖母の隣に座り、扇を返す自分を眺める父。舞台袖で、薄い笑みを浮かべて


「よくやったな」と小さく囁く父。その姿しか思い出せなかった。

酸素マスクの下で父が微かに息をした。


「お父さん。」

小さな声で呼ぶと、ゆっくりと瞼が開いた。焦点の合わない目が天井を見つめ、それからゆっくりと蘭子へ向けられた。


「……蘭子……。」

かすれた声だった。乾いた木の葉が擦れるような音。その声が蘭子の胸を締め付ける。


「大丈夫や。舞、続けるんやで。」

そう言ったあと、父はまた目を閉じた。

祖母が椅子から立ち上がり、ベッド柵に手を置いた。


「おまえは、家元の孫や。桐山の舞を、絶やしたらあかん。」

いつもの稽古場と同じ声。けれどもその瞳の奥には、深い淵のような哀しみが滲んでいた。

父はもう、二度と舞台に立つことはないのだと蘭子は悟った。

病室の窓から射す冬の光は弱々しく、空の色は鉛のようだった。外では街が動き始めているのだろう。トラックのエンジン音や踏切のベルが遠くに響いていた。けれどこの病室だけは、誰も時間を動かせないような静寂に包まれていた。

父は再び目を開けることはなかった。

その日の夜、病院から帰った祖母は黙ったまま三味線を抱えた。誰もいない稽古場で、祖母は三味線を撫で、弦にそっと指を乗せた。


「明日から、おまえの稽古、厳しくなる。」

背中を向けたまま祖母は言った。

蘭子は黙って頭を下げた。涙は出なかった。ただ、胸の奥が冷たい空気でいっぱいになり、息をするたびにその冷気が肺を切るように痛かった。


昭和五十七年、冬。


父のいない家で、蘭子は扇を握り直した。

葬儀の日、空は厚い鉛色の雲に覆われ、雪ではなく冷たい雨が降っていた。真冬の雨は雪よりも冷たく、墓地の土を濡らし、黒い靴を沈ませた。白木の棺がゆっくりと火葬場へ運ばれていくとき、蘭子はただその後ろ姿を見つめていた。母は黒い喪服に身を包み、祖母の隣で僧侶の読経に合わせるように頭を下げていたが、その目に涙はなかった。祖母もまた泣いていなかった。きつく結ばれた口元と伏せた目は、稽古場で三味線を構えるときのように微動だにせず、ただそこに立っていた。


「合掌。」

読経が終わり、僧侶の低い声が響く。雨が線を描いて墓石を叩き、香の煙が濡れた空気に滲んで消えていった。蘭子は合掌したまま、父の顔を思い出そうとした。病院のベッドで痩せこけた頬、浅い呼吸、焦点の合わない目。それしか浮かばなかった。

——ごめんなさい。

心の中でそう呟いた。

——最後まで、稽古のことばかり考えてた。

稽古場で三味線を弾いてくれた父、扇の開き方を褒めてくれた父、舞台袖で髪を整えてくれた父。思い出せば思い出すほど、そこにいる父の姿は“舞踊家の父”でしかなく、“家族としての父”ではなかったことに気づいてしまう。

——わたしは、親不孝者や。

喉が痛くなるほど堪えても、涙は出なかった。ただ胸の奥に冷たい重石のようなものが沈んでいった。


火葬場の控室で、母は黙ったまま白湯を啜っていた。祖母は僧侶に深く頭を下げ、弔問に訪れた門弟たちに短く礼を述べた。


「桐山の舞は、わたしで終わらせません。」

祖母の言葉に、門弟たちは頷いた。


「お孫さんがいらっしゃいますから。」

誰かがそう言った。その瞬間、蘭子の背筋に冷たいものが走った。

——わたしが……。

震えそうになる身体を必死で抑える。

祖母は振り返り、蘭子を見た。その瞳には、悲しみよりも強い光があった。


「おまえが、家元を継ぐ。」

それは告げられたというよりも、決定事項として投げかけられた言葉だった。

控室の外では、火葬場の煙突から白い煙が細く昇っていくのが見えた。鉛色の空に溶けるその煙を、蘭子はただじっと見つめていた。

——わたしは、泣いていいんやろか。

問いかける心に答える声はなかった。


自宅に戻ると、仏間には父の遺影が飾られた。七五三のときに撮った写真。黒紋付に身を包み、微笑む父。その隣に幼い自分が立っている。父の手は小さな自分の肩にそっと置かれ、着物の袖越しでもその手の温かさを思い出せるような写真だった。


「お稽古に着替えなさい。」

祖母が短く言った。

「え……。」


葬儀から戻ったばかりの蘭子は思わず顔を上げた。


「泣いても踊れるようにならな、舞踊家にはなれん。」

祖母はそう言って、静かに襖を閉めた。

稽古着に着替え、扇を持つと、父の遺影が目に入った。

——お父さん。

心の中で呼んだ。

——わたし、がんばるからな。

扇を返すとき、骨が鳴った。その音が稽古場に微かに響く。三味線の撥が走る音がしない。今日は祖母が三味線を弾かないことを悟り、蘭子は畳の上に静かに立った。

——一人で舞うんやな。

空気が冷たく、冬の稽古場の畳は氷のように冷えた。

しかし扇を返すたび、父の声が聞こえる気がした。

「蘭子、もっと手首を返してみい。」

舞台袖で囁かれた声。


「そうや、その首筋、ええで。」

三味線の調べの中で、いつも聞こえたその声が、今は自分の呼吸と同じ場所で響いていた。

——お父さん。

——わたし、ひとりでも舞えるようになるわ。

扇を閉じたとき、骨の金属音が冷たく響いた。稽古場の障子の外では雨が止み、黒い雲の隙間から夕日がわずかに覗いていた。

その橙色の光は、悲しみを慰めるほど柔らかくはなく、ただ西の空を深く沈めるだけの色をしていた。


冬が深まるにつれて、家の中は静かになった。葬儀の客が去り、門弟たちの足音も途絶えると、残されたのは祖母と蘭子、そして広すぎる稽古場だけだった。居間の炬燵には祖母の影が一つ、稽古場には蘭子の影が一つ。家の中に響く音は、炭のはぜる微かな音と、祖母の咳払い、そして蘭子が扇を開閉するときの骨の鳴る音だけだった。

朝、薄暗い稽古場で蘭子は祖母に呼ばれる。


「起きなさい。」

布団の中はまだ夜で、外気の冷たさが隙間から侵入してくる。足袋を履く手がかじかみ、指先の感覚がなくなる。けれど、稽古に遅れることは許されなかった。

襖を開けると、稽古場には既に三味線が置かれ、祖母が正座していた。あの細く小さな背中に、桐山流家元の重みが宿っていると思うと、震えたのは寒さだけではなかった。


「昨日より一歩深く踏み込みなさい。」

短い指示。三味線はない。撥の音がない稽古は、雪の降る夜のように静かで冷たい。扇を返すたび、骨の金属音が稽古場に響く。

「肘を切らない。肘を切ると鷺になれない。」

祖母の声は低く、決して怒鳴らない。それがかえって恐ろしく、血の気を奪った。

——鷺……。

雪の中で立つ白鷺。冬の池の端に一羽だけ佇む鷺の冷たさと美しさ。あの姿に少しでも近づけたとき、自分が“舞”と一体になる瞬間がある。それを知ってしまったから、稽古は恐怖でありながら快楽でもあった。

膝を落とし、扇を開き、首筋を伸ばす。稽古場の障子の向こうにはまだ朝日が射さない。夜と朝の狭間の暗い時間。三味線のない稽古場は、時間さえも存在を忘れたように静まり返っていた。


「もう一度。」

祖母の声が響くたび、蘭子は身体の奥から絞り出すように息を吐き、扇を返す。

そのときだった。

稽古場の隅、柱時計の下に置かれた父の遺影が目に入った。黒紋付に微笑む父。

——お父さん。

胸が熱くなりかけたが、祖母の声が冷たく遮った。


「止まるな。」

涙は稽古場に持ち込んではならない。

そう教えられてきた。

泣きたいと思った自分が恥ずかしかった。悔しかった。涙を殺し、扇を閉じると、骨の音が鳴った。冷たく澄んだ音。

稽古が終わった頃、東の空が群青から淡い金色へと変わり始めていた。祖母は立ち上がり、三味線を手に取った。


「舞踊家はな、泣いても舞わなあかん。舞ってるときは泣いててもええ。でも稽古場では泣くな。」

祖母は三味線の糸巻きを調整しながらそう言った。その声は震えていなかった。

蘭子は黙って頭を下げた。足袋の裏が畳に吸い付くように湿っていた。冷たく、心地よい感触だった。


「さ、お茶入れて。」

稽古場を出る祖母の背中は、葬儀の日と同じように小さく見えた。けれどそこには倒れそうな弱さではなく、凍てついた池のように張り詰めた静けさがあった。

台所でお茶を入れていると、ふと雨戸の隙間から朝日が差し込んだ。光は弱々しく、けれど確かに夜を終わらせる強さを持っていた。

湯気の立つ茶碗を盆に乗せ、稽古場へ戻る。祖母は三味線を膝に置き、静かに目を閉じていた。まるで舞台袖で出番を待つ役者のように、その姿は張り詰め、美しかった。


「お茶です。」

蘭子がそう言うと、祖母は目を開けた。その瞳の奥には、悲しみも喜びもなく、ただ“桐山流の舞”があった。

——わたしも、ああなれるんやろか。

そう思ったとき、父の声が胸の奥で響いた。

「舞、続けるんやで。」


涙は流れなかった。

昭和五十七年、冬。父のいない家で、蘭子は舞踊家として生きる決意を、静かに深く、胸に刻んだ。


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