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病院の廊下は、冬の朝の冷気よりも冷たく感じられた。蛍光灯の白い光が床に反射し、そこを歩く自分たちの影が歪んで伸びる。祖母の歩幅は決して広くないが、一歩一歩が迷いなく、速かった。蘭子は小走りでついていく。足袋を履いた足が病院のリノリウムの床に擦れ、滑りそうになるたびに、祖母の背中が遠くなる気がして胸が詰まった。
「早くおいで。」
振り返りもせずに祖母が言う。その声には、いつもと同じ、稽古場での厳しさがあった。けれども今、その声はどこか震えているように聞こえた。
病室の前で祖母が立ち止まり、襖ではなく冷たい金属のドアをそっと押した。部屋の中には、朝の光が薄く差し込んでいた。無機質なカーテン、鉄製のベッド柵、そして小さな呼吸音を立てて横たわる父。鼻と口には酸素マスクがつけられ、頬は痩せこけ、皮膚の色は畳の縁のようにくすんでいた。
「お父さん……。」
蘭子は声を出すことが怖かった。声をかけた瞬間、父が消えてしまう気がした。
祖母は何も言わず、病室の隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。その指は膝の上で組まれ、着物の袖がわずかに滑り落ちる。祖母の手首には、三味線を弾くときにできた硬い皮膚の盛り上がりがあった。あの指で何度も撥を叩き、弦を押さえ、舞台を作り上げてきたのだと思うと、怖いほどの尊さを感じた。
「蘭子。」
祖母が短く呼んだ。蘭子はベッドの傍に歩み寄った。父は目を閉じている。動いているのは胸だけで、それさえもか細く、今にも止まりそうに見えた。
——舞台に立つ父しか知らない。
稽古場で三味線を弾く祖母の隣に座り、扇を返す自分を眺める父。舞台袖で、薄い笑みを浮かべて
「よくやったな」と小さく囁く父。その姿しか思い出せなかった。
酸素マスクの下で父が微かに息をした。
「お父さん。」
小さな声で呼ぶと、ゆっくりと瞼が開いた。焦点の合わない目が天井を見つめ、それからゆっくりと蘭子へ向けられた。
「……蘭子……。」
かすれた声だった。乾いた木の葉が擦れるような音。その声が蘭子の胸を締め付ける。
「大丈夫や。舞、続けるんやで。」
そう言ったあと、父はまた目を閉じた。
祖母が椅子から立ち上がり、ベッド柵に手を置いた。
「おまえは、家元の孫や。桐山の舞を、絶やしたらあかん。」
いつもの稽古場と同じ声。けれどもその瞳の奥には、深い淵のような哀しみが滲んでいた。
父はもう、二度と舞台に立つことはないのだと蘭子は悟った。
病室の窓から射す冬の光は弱々しく、空の色は鉛のようだった。外では街が動き始めているのだろう。トラックのエンジン音や踏切のベルが遠くに響いていた。けれどこの病室だけは、誰も時間を動かせないような静寂に包まれていた。
父は再び目を開けることはなかった。
その日の夜、病院から帰った祖母は黙ったまま三味線を抱えた。誰もいない稽古場で、祖母は三味線を撫で、弦にそっと指を乗せた。
「明日から、おまえの稽古、厳しくなる。」
背中を向けたまま祖母は言った。
蘭子は黙って頭を下げた。涙は出なかった。ただ、胸の奥が冷たい空気でいっぱいになり、息をするたびにその冷気が肺を切るように痛かった。
昭和五十七年、冬。
父のいない家で、蘭子は扇を握り直した。
葬儀の日、空は厚い鉛色の雲に覆われ、雪ではなく冷たい雨が降っていた。真冬の雨は雪よりも冷たく、墓地の土を濡らし、黒い靴を沈ませた。白木の棺がゆっくりと火葬場へ運ばれていくとき、蘭子はただその後ろ姿を見つめていた。母は黒い喪服に身を包み、祖母の隣で僧侶の読経に合わせるように頭を下げていたが、その目に涙はなかった。祖母もまた泣いていなかった。きつく結ばれた口元と伏せた目は、稽古場で三味線を構えるときのように微動だにせず、ただそこに立っていた。
「合掌。」
読経が終わり、僧侶の低い声が響く。雨が線を描いて墓石を叩き、香の煙が濡れた空気に滲んで消えていった。蘭子は合掌したまま、父の顔を思い出そうとした。病院のベッドで痩せこけた頬、浅い呼吸、焦点の合わない目。それしか浮かばなかった。
——ごめんなさい。
心の中でそう呟いた。
——最後まで、稽古のことばかり考えてた。
稽古場で三味線を弾いてくれた父、扇の開き方を褒めてくれた父、舞台袖で髪を整えてくれた父。思い出せば思い出すほど、そこにいる父の姿は“舞踊家の父”でしかなく、“家族としての父”ではなかったことに気づいてしまう。
——わたしは、親不孝者や。
喉が痛くなるほど堪えても、涙は出なかった。ただ胸の奥に冷たい重石のようなものが沈んでいった。
火葬場の控室で、母は黙ったまま白湯を啜っていた。祖母は僧侶に深く頭を下げ、弔問に訪れた門弟たちに短く礼を述べた。
「桐山の舞は、わたしで終わらせません。」
祖母の言葉に、門弟たちは頷いた。
「お孫さんがいらっしゃいますから。」
誰かがそう言った。その瞬間、蘭子の背筋に冷たいものが走った。
——わたしが……。
震えそうになる身体を必死で抑える。
祖母は振り返り、蘭子を見た。その瞳には、悲しみよりも強い光があった。
「おまえが、家元を継ぐ。」
それは告げられたというよりも、決定事項として投げかけられた言葉だった。
控室の外では、火葬場の煙突から白い煙が細く昇っていくのが見えた。鉛色の空に溶けるその煙を、蘭子はただじっと見つめていた。
——わたしは、泣いていいんやろか。
問いかける心に答える声はなかった。
自宅に戻ると、仏間には父の遺影が飾られた。七五三のときに撮った写真。黒紋付に身を包み、微笑む父。その隣に幼い自分が立っている。父の手は小さな自分の肩にそっと置かれ、着物の袖越しでもその手の温かさを思い出せるような写真だった。
「お稽古に着替えなさい。」
祖母が短く言った。
「え……。」
葬儀から戻ったばかりの蘭子は思わず顔を上げた。
「泣いても踊れるようにならな、舞踊家にはなれん。」
祖母はそう言って、静かに襖を閉めた。
稽古着に着替え、扇を持つと、父の遺影が目に入った。
——お父さん。
心の中で呼んだ。
——わたし、がんばるからな。
扇を返すとき、骨が鳴った。その音が稽古場に微かに響く。三味線の撥が走る音がしない。今日は祖母が三味線を弾かないことを悟り、蘭子は畳の上に静かに立った。
——一人で舞うんやな。
空気が冷たく、冬の稽古場の畳は氷のように冷えた。
しかし扇を返すたび、父の声が聞こえる気がした。
「蘭子、もっと手首を返してみい。」
舞台袖で囁かれた声。
「そうや、その首筋、ええで。」
三味線の調べの中で、いつも聞こえたその声が、今は自分の呼吸と同じ場所で響いていた。
——お父さん。
——わたし、ひとりでも舞えるようになるわ。
扇を閉じたとき、骨の金属音が冷たく響いた。稽古場の障子の外では雨が止み、黒い雲の隙間から夕日がわずかに覗いていた。
その橙色の光は、悲しみを慰めるほど柔らかくはなく、ただ西の空を深く沈めるだけの色をしていた。
冬が深まるにつれて、家の中は静かになった。葬儀の客が去り、門弟たちの足音も途絶えると、残されたのは祖母と蘭子、そして広すぎる稽古場だけだった。居間の炬燵には祖母の影が一つ、稽古場には蘭子の影が一つ。家の中に響く音は、炭のはぜる微かな音と、祖母の咳払い、そして蘭子が扇を開閉するときの骨の鳴る音だけだった。
朝、薄暗い稽古場で蘭子は祖母に呼ばれる。
「起きなさい。」
布団の中はまだ夜で、外気の冷たさが隙間から侵入してくる。足袋を履く手がかじかみ、指先の感覚がなくなる。けれど、稽古に遅れることは許されなかった。
襖を開けると、稽古場には既に三味線が置かれ、祖母が正座していた。あの細く小さな背中に、桐山流家元の重みが宿っていると思うと、震えたのは寒さだけではなかった。
「昨日より一歩深く踏み込みなさい。」
短い指示。三味線はない。撥の音がない稽古は、雪の降る夜のように静かで冷たい。扇を返すたび、骨の金属音が稽古場に響く。
「肘を切らない。肘を切ると鷺になれない。」
祖母の声は低く、決して怒鳴らない。それがかえって恐ろしく、血の気を奪った。
——鷺……。
雪の中で立つ白鷺。冬の池の端に一羽だけ佇む鷺の冷たさと美しさ。あの姿に少しでも近づけたとき、自分が“舞”と一体になる瞬間がある。それを知ってしまったから、稽古は恐怖でありながら快楽でもあった。
膝を落とし、扇を開き、首筋を伸ばす。稽古場の障子の向こうにはまだ朝日が射さない。夜と朝の狭間の暗い時間。三味線のない稽古場は、時間さえも存在を忘れたように静まり返っていた。
「もう一度。」
祖母の声が響くたび、蘭子は身体の奥から絞り出すように息を吐き、扇を返す。
そのときだった。
稽古場の隅、柱時計の下に置かれた父の遺影が目に入った。黒紋付に微笑む父。
——お父さん。
胸が熱くなりかけたが、祖母の声が冷たく遮った。
「止まるな。」
涙は稽古場に持ち込んではならない。
そう教えられてきた。
泣きたいと思った自分が恥ずかしかった。悔しかった。涙を殺し、扇を閉じると、骨の音が鳴った。冷たく澄んだ音。
稽古が終わった頃、東の空が群青から淡い金色へと変わり始めていた。祖母は立ち上がり、三味線を手に取った。
「舞踊家はな、泣いても舞わなあかん。舞ってるときは泣いててもええ。でも稽古場では泣くな。」
祖母は三味線の糸巻きを調整しながらそう言った。その声は震えていなかった。
蘭子は黙って頭を下げた。足袋の裏が畳に吸い付くように湿っていた。冷たく、心地よい感触だった。
「さ、お茶入れて。」
稽古場を出る祖母の背中は、葬儀の日と同じように小さく見えた。けれどそこには倒れそうな弱さではなく、凍てついた池のように張り詰めた静けさがあった。
台所でお茶を入れていると、ふと雨戸の隙間から朝日が差し込んだ。光は弱々しく、けれど確かに夜を終わらせる強さを持っていた。
湯気の立つ茶碗を盆に乗せ、稽古場へ戻る。祖母は三味線を膝に置き、静かに目を閉じていた。まるで舞台袖で出番を待つ役者のように、その姿は張り詰め、美しかった。
「お茶です。」
蘭子がそう言うと、祖母は目を開けた。その瞳の奥には、悲しみも喜びもなく、ただ“桐山流の舞”があった。
——わたしも、ああなれるんやろか。
そう思ったとき、父の声が胸の奥で響いた。
「舞、続けるんやで。」
涙は流れなかった。
昭和五十七年、冬。父のいない家で、蘭子は舞踊家として生きる決意を、静かに深く、胸に刻んだ。