一
薄明かりが、畳の上に淡く広がっていた。冬の夜明け前。障子越しにわずかに洩れる外灯の光と、灯油ストーブの赤い火だけが、稽古場を照らしている。朝五時前。まだ夜と言っていい時間に、蘭子は祖母の声で目を覚ました。
「蘭子、起きなさい」
その声に逆らったことはない。幼い頃から、祖母が“起きなさい”と告げるとき、そこには必ず意味があった。十四歳の身体はまだ眠りを求めていたが、祖母の言葉はそれを許さなかった。
眠気で重い瞼を擦り、真冬の空気に震えながら襖を開けると、祖母はすでに髪を結い上げ、稽古着に着替え、三味線を抱えていた。細く骨ばった指が、見慣れた撥を握る。その姿は何度見ても“恐ろしいほど美しい”と蘭子は思った。
「支度なさい」
短くそう言い、祖母は撥を弾いた。音が畳に吸い込まれる。廊下に置かれた洗面器の水はすでに凍りかけていた。手を浸すと鋭い冷たさに指が痛む。帯を締め、薄手の稽古着に袖を通す。冷気が肌を刺した。
稽古場に入ると、祖母は座布団に正座していた。背筋が、木刀のように真っ直ぐだった。蘭子も同じように正座し、三つ指をついて頭を下げる。
「お稽古、お願いいたします」
その言葉が終わるや否や、三味線の音が走る。
「立ちなさい」
祖母の声は静かだが、空気を震わせる力を持っていた。
立ち上がり、扇を持つ。白地に赤の牡丹が描かれた稽古扇。まだ蘭子には似合わないと言われ続けた扇。
「はい」
返事をすると、足袋の中で足指が冷たく痺れているのに気づいた。しかし、それを感じる余裕はない。
曲が始まる。
——雪の朝、白鷺の舞い。
稽古場の空気が一気に張り詰める。
「目線」
祖母が鋭く言う。視線を上げる。
「そう。鷺は首が長い。あなたの首も長く使いなさい」
蘭子は顎を上げ、視線を遠くへ飛ばす。
「肘を切るな」
肘を切らない——つまり肘を曲げたまま動かさずに手先だけを返す。それがどれほど難しいか。肩に力が入る。
「肩下ろす」
「……はい」
声が震えた。三味線の音は止まらない。撥の音と声楽が流れる。
“雪の白鷺 羽根を揺らして……”
まるで歌詞の中の鷺が、自分の身体に乗り移るように感じる。
目を閉じると、雪の舞う白い池の上に、一羽の鷺が立っている光景が浮かんだ。
「蘭子」
祖母の声が遠くで響いた。
「踊りは、美しゅうなければならん」
三味線の撥が止まった。空気が凍る。
「ただ真似しても、それは舞ではない」
祖母はゆっくりと立ち上がった。背は曲がっているのに、動きは風のようにしなやかだった。
「見ておきなさい」
そう言うと、祖母は扇を開いた。
白地に金糸の雲と松が描かれた名取の扇。
一歩、足を滑らせる。畳を擦るわずかな衣擦れの音さえ、静寂を破る美だった。
腕を伸ばし、扇を翻す。手首、肘、肩、首の動き、そして目線。全てが流れるように繋がり、舞というより“そこに雪の鷺がいる”と錯覚させるほどだった。
蘭子は息を呑んだ。
この人は、本当に鷺なのだ。
舞うために生まれてきたのではなく、舞そのものとして存在している。
「さあ」
撥が再び走った。
「やりなさい」
足が震える。しかし扇を握り直すと、不思議と恐怖は消えていた。
——わたしも、ああなりたい。
美しいと言われたい。
祖母のように、舞うだけで誰かの心を震わせたい。
三味線が加速する。
肩を下ろし、肘を切らず、首を長く遠くへ。
その一瞬だけは、眠気も痛みも寒さも、何も感じなかった。ただ雪の朝に立つ白鷺だけが、蘭子の身体を通して舞っていた。
「はい、そこまで」
祖母の声が落ちた。
三味線の音も止む。
稽古場に再び静寂が戻った。
祖母は何も言わなかった。ただ小さく頷き、扇を閉じる。
その頷きが、どれほど嬉しかったか。
涙が零れそうになる。
だが泣いてはいけない。舞踊家は、稽古場で涙を見せてはならないと祖母に教わってきた。
「下がりなさい」
「ありがとうございました」
深く頭を下げると、祖母は既に三味線を膝に置き、遠くを見るような眼差しで、夜明け前の空に視線を向けていた。
三味線の音が稽古場の空気を張り詰めさせていた。冬の夜明け前、薄暗い障子の向こうにまだ星の気配が残る時間。火鉢の炭がわずかに赤く光り、薪の爆ぜる音が乾いた静寂に溶けて消える。祖母の撥が鳴った瞬間、その静寂は鋭く断ち切られ、音と音の間に張り詰めた糸が渡されたようになる。祖母の声は低く、しかし舞台袖で聞く拍子木のように短く鋭い。
「足を決めなさい。」
蘭子の足元は冷え切っていた。足袋の中で霜焼けになりかけた指が痛む。しかし痛みも寒さも感じている暇はなかった。稽古場の畳はいつも少し湿気を含み、冬の冷気と相まって身体の芯まで冷たさを伝えてくる。だが、その感覚すらも蘭子にとっては“稽古場の匂い”として記憶に刻まれていた。朝の稽古はただ身体を動かすだけではない。三味線の音、撥の響き、祖母の息遣い、畳の湿り気、障子越しの空の色、そのすべてを感じ取ることで、“舞台”が生まれると教えられてきた。
「もっと遠くを見る。」祖母の声は静かなのに、胸の奥を突き刺すようだった。蘭子は視線を上げる。祖母の言う“遠く”は、実際にある景色ではない。三味線の音に乗せられた詞章が描き出す、雪の池、白鷺の立つ岸辺、夜明けの薄墨色の空。その景色をこの身体で写す。それが舞踊家の役目だった。指先を返し、扇を開く。白地に牡丹の赤が映える稽古扇。扇を返すたびに、まるで雪の中に一輪の花が咲いたように見える。だが、祖母はまだ頷かない。撥の音がわずかに早くなる。三味線を弾く祖母の指は痩せて節くれ立ち、年齢を隠せないはずなのに、その動きは誰よりもしなやかだった。弦を押さえる左手の小指には小さな黒子があった。子供の頃、その黒子を見つけるたびに「ここから音が生まれるのかもしれない」と思ったことを思い出す。
「首を長く。鷺になる。」祖母の声が鋭くなる。蘭子は顎を引き、首筋を伸ばし、目線を池の水面に落とす。扇を返す。左足を引き、右足に重心を乗せ、身体を沈める。わずかに膝が笑う。寒さと稽古で痺れ始めている。しかし扇を返すとき、指先から広がる冷たい空気の震えさえも舞の一部になるような錯覚があった。
——白鷺が雪の上を歩く。雪は冷たく、羽根は薄い。
詞章の世界が、祖母の声楽と三味線の撥で立ち上がる。蘭子の耳には、音ではなく景色が見えていた。池の縁、まだ凍りきらぬ水面に立つ鷺の白。夜明け前の空気は湿り気を含み、ほんの少しだけ桜色に染まり始める。池の端には葦が揺れ、わずかな風がその穂先を震わせる。鷺は首を伸ばし、羽根を一度だけ震わせる。扇を返す。祖母が静かに言った。「そこ。いまの動き、忘れないで。」
撥が止まる。息を呑むような静寂が稽古場を満たした。祖母は三味線を膝に置き、蘭子を見つめた。薄い瞳に、朱を引いた目元。その目に、怒りも苛立ちもない。ただ、深く静かな湖面のような静寂があった。
「舞は、美しゅうないといかん。」
そう呟くと、祖母はゆっくりと立ち上がった。痩せた体が衣擦れの音を立て、稽古場の空気がわずかに動く。その一歩でさえ、舞のように見える。祖母は扇を手に取った。白地に金糸で雲と松が描かれた名取の扇。祖母は顔の前でゆっくりと扇を開いた。音がしたわけではないのに、開かれた扇から一瞬、光が生まれたように見えた。
「見ときなさい。」
撥が走る。三味線が再び、冷えた稽古場に雪の音を降らせる。
祖母は舞い始めた。
その動きはあまりにも静かで、あまりにも大きかった。身体の隅々までが景色を写していた。指先、手首、肘、肩、首、目線。すべてが繋がり、何ひとつ途切れない。舞というより、それは“鷺がそこにいる”としか思えなかった。扇を返すとき、わずかに着物の袖が揺れる。その揺れ方さえも、鷺の羽根が風に撫でられるようだった。蘭子は息を呑み、瞳を見開いた。三味線の音が続く。
——雪の白鷺、凛として。
祖母の舞はただ美しいのではない。畳の上に、池を、雪を、夜明けを呼び寄せてしまうのだ。世界が、舞台が、この稽古場に出現する。その圧倒的な力に、蘭子は震えた。舞踊とは型や技術ではない。それらすべてを超えて“景色そのものになる”こと。祖母はそう教えていた。
撥が止まった。静寂。祖母は扇を閉じ、静かに息を吐いた。
「やりなさい。」
蘭子の足は震えていたが、扇を握り直すと恐怖は消えていた。代わりに、胸の奥から熱いものが込み上げた。
——わたしも、ああなりたい。
美しいと呼ばれたい。
舞台に立ち、誰かの心を震わせたい。
三味線の音が再び流れた。扇を返す。冷たい空気が手首を撫でる。その一瞬だけは、痛みも寒さも感じなかった。ただ、雪の中に立つ白鷺だけが、蘭子の身体を通して舞っていた。
撥の音が止まり、稽古場を満たしていた張り詰めた空気が、ふっと緩む。祖母は扇を閉じ、そのまま静かに目を伏せた。息を呑むほど美しかった舞の余韻が、障子の外で微かに吹いた風の音と混じり合う。まだ夜明け前。東の空は墨色から淡い群青へとわずかに移ろい始めていた。祖母は扇を膝の上に置き、蘭子を見た。その視線に恐れと憧れが混ざる。
「もう一度。」
短く告げると、撥が再び走る。
蘭子は冷え切った足袋の足先に力を込め、肩を落とし、首筋を長く伸ばした。視線の先には雪の池が広がる。まだ日も昇らぬ池の端に立つ白鷺。羽根の先に積もる雪。詞章の世界が、三味線の音と祖母の声楽によって稽古場に呼び寄せられる。
「肘を切らない。」
祖母の声は低いが、空気を震わせる力があった。肩に力が入る。寒さと緊張で震える身体を抑え込むようにして、扇を返す。指先、手首、肘、肩、首筋、目線。すべてを繋ぎ、一つの流れにする。それが舞踊家の身体だった。祖母は口を開く。
「雪は冷たい。けれど鷺は、凛としておる。」
撥の音が強くなる。三味線の調べが稽古場を駆け抜ける。扇を開くと、白い稽古扇の牡丹が赤く浮かび上がる。その一瞬、蘭子は確かに“自分が白鷺である”と感じた。
——ああ、わたしは、舞っている。
舞わされているのではなく、舞そのものになっている。そう思った瞬間、足袋の中で痺れていた足指の痛みも、寒さも、眠気も、全てが消えていた。ただそこにあるのは、白鷺の静かな誇りと雪の冷たさだった。
曲が終わると、撥が止まり、再び静寂が戻った。祖母は扇を膝に置き、わずかに顎を引いて頷いた。その頷きが、言葉よりも重かった。“よくやった”とも、“まだ足らぬ”とも言わず、ただ頷く。その一つで、蘭子は全てを理解した。震えるほど嬉しかった。泣きたいほどだった。しかし泣いてはいけない。舞踊家は稽古場で涙を見せてはならないと祖母に教わってきた。
「支度なさい。」
短くそう言うと、祖母は三味線を置き、ゆっくりと立ち上がった。痩せた背中を真っ直ぐ伸ばし、襟元を正す仕草さえ舞のようだった。稽古場の隅に置かれた振り鏡に、祖母の姿と蘭子の小さな影が映る。障子の外、空は群青から薄桃色へと変わりつつあった。
祖母は振り返らず、襖の向こうへ消えていった。残された蘭子は、深く頭を下げた。畳に額が触れる寸前、鼻腔をくすぐる畳の香りがした。稽古場の匂い。三味線の余韻。祖母の舞の残像。それらがないと、自分は呼吸すらできないと思った。
「ありがとうございました。」
小さく呟き、顔を上げる。夜明けの気配が障子を淡く照らしていた。
着物の裾を正し、立ち上がると、足袋の裏が冷たく湿っていた。畳の湿り気が足の裏に貼りつく感触が、妙に心地よかった。扇を閉じると、金属の骨が小さく鳴った。その音を聞くと、胸の奥がきゅっと締め付けられるように痛んだ。
——もっと美しくなりたい。
もっと舞いたい。
誰よりも、祖母に認められたい。
そう願った。
稽古場を出ると、廊下の端に置かれた小さな神棚に朝日が差していた。そこには祖母が毎朝供える塩と米と榊が、白い皿の上で静かに光っていた。神棚の横を通り過ぎるとき、蘭子はそっと頭を下げた。
「どうか、わたしに舞をください。」
心の中でそう祈った。
昭和五十七年、冬。日本舞踊桐山流家元の稽古場は、まだ眠りの中にある街を背に、静かに朝を迎えていた。