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黄昏の学び舎

作者: 城井龍馬

「すべての変化、たとえそれが待ち望まれたものであっても、そこには一抹の哀愁がある。我々が後に残すものは、我々自身の一部なのだから。一つの生活を終えるためには、一度は死なねばならぬ。」




――アナトール・フランス

春。




どこまでも続くと感じられた長い長い旅路の果て、ようやくその重厚な鉄製の門が見えたとき、僕は安堵の息を深く吐いた。




門には蔦が絡まり、歳月を感じさせる。




そこをくぐると、車の音も街の喧騒も嘘のように遠ざかり、ひんやりと静かな空気が僕――ハルを包み込んだ。




敷地は手入れの行き届いた緑に覆われ、雨上がりの土と若葉の匂いが混じり合った、どこか懐かしい香りが漂っていた。




古びてはいるが風格のある校舎が、午後の穏やかな陽光の中に静かに佇んでいる。




まるで、長い間僕の到着を待っていたかのように。




僕は己の心臓が期待と、そしてほんの少しの不安で微かに高鳴るのを感じながら、敷石の道をゆっくりと歩みを進めた。




その時、校門のすぐ傍らに、一人の女性が立っているのが目に入った。




彼女の髪はまるで夜の闇を溶かし込んだように深い黒で、春の風に揺れていた。




そして、その肌。




近づかずともわかる、皺一つない。




まるでゆで卵のようだ。




彼女――アキは静かな、しかし射抜くような強い意志を感じさせる佇まいでそこにあった。




その姿とは裏腹の、深い湖のような瞳。




僕はなぜかそのアンバランスさに強く心を惹かれ、しばし立ち尽くしてしまった。






学び舎での日々は驚くほど穏やかに、そして知的な探求心に満ちて流れていった。




講義室では、髪を綺麗に撫でつけた教授が、万葉の歌に込められた人生の機微や、西洋哲学における真理の変遷について、豊かな声量で語っていた。




生徒たちは皆、真剣な面持ちを浮かべる。




深く頷きながら、時にはメモを取りながら、その言葉一つ一つに耳を傾けている。




なるほどと、静かな共感の声が漏れることもあった。




僕もまたその深遠な内容に引き込まれ、知的好奇心が満たされるのを感じた。




昼休み、中庭の大きな楠の下にあるベンチでは、旧知の仲なのであろう生徒たちが数人集まり静かに語り合っていた。




持参した写真アルバムを囲み、




「この時は皆、輝いていたねぇ。」




「あの頃が一番充実していた。」




そう、時折昔を懐かしむように微笑み合う。




その光景は、まるで古い絵画のように完成されて見えた。




僕もすぐにこの落ち着いた、時の流れが緩やかに感じられる空気に馴染んでいった。




数日が過ぎ、僕は中庭で一人の同級生と話すようになっていた。




フユと名乗る彼はとりわけ落ち着き払った物腰で、様々なことに驚くほど詳しかった。




彼がいつも胸ポケットに挿している年代物の万年筆も、その知的な雰囲気を助長している。




『時間は貴重だからね、有効に使わないと』が彼の口癖だった。




その日も、講義の合間にフユと他愛ない話をしていると、ふと視界の端に、あの校門で見かけた女性の姿が入った。




彼女は一人、中庭の隅にある、少し色づき始めた紅葉の木を見上げ、静かに佇んでいる。




艶やかな黒髪が、柔らかな陽光を弾いていた。




「なあ、フユ君」




僕は小声で尋ねた。




「あそこにいる女性……名前を知っているかい?」




フユは僕の視線を追い、すぐに誰のことか理解したようだ。




彼は少し目を細め、いつもの落ち着いた調子で答えた。




「ああ、彼女か。アキ……たしか、アキさん、だったかな。」




アキ、僕はその名前を口の中で繰り返した。




どこか彼女の持つ雰囲気に合っているような気がした。




「ありがとう、フユ君。」




フユは小さく頷くと、




「株価も季節と同じで、予測不能な時があるから面白い」




と、また別の話題に移っていった。




僕は彼の言葉を聞きながらも、心の一部はアキという名を持つ、あの女性の姿に囚われていた。




そんな中アキが一人ではない時、彼女の隣にはいつも快活そうな別の女子生徒がいることに気がついた。




アキとは対照的に表情がくるくるとよく変わり、よく笑い、身振り手振りも大きい。




明るい檸檬色のカーディガンがお気に入りのようで、まるで彼女自身から陽光が放たれているかのように見える。




フユに尋ねると、




「ああ、ナツさんだね。アキさんとは特に仲が良いみたいだよ。」




と教えてくれた。




確かにアキもナツと話している時は、普段の物静かな表情がふっと和らぎ、時には小さく笑い声を立てることさえあるのだった。




ナツ、その名の通り生命力に溢れた輝きを持つ人だと思った。




そんな毎日の中でふとした瞬間、僕はアキの姿を目で追っている自分に気付くことが多くなった。




ある日図書室へ向かう廊下で、前から歩いてくるナツと二人きりになった。




「あ、ハルこんにちは!」




彼女はひまわりのような屈託のない笑顔で僕に声をかけてきた。




「いつも熱心に本を読んでるよね! アキもこの前、ハルは真面目だって感心してたよ。」




「え、アキさんが僕のことを?」




思わぬ言葉に、僕は心臓が跳ねるのを感じた。




「うん! それに、なんだか話しやすそうだって。…ねぇ、ハル。」




ナツさんは少し声を潜め、悪戯っぽく片目を瞑った。




「もしかして、アキのこと気になってる? 見てると分かるんだから!」




図星を突かれ、僕は顔が熱くなるのを感じた。




「い、いや、そんなことは……ただ、少しミステリアスな方だな、と……。」




「ふふ、照れちゃって! アキね、ちょっと人見知りというか、自分の気持ちを表すのが苦手なだけ。本当はすっごく優しくて素敵な子なんだよ! もっと気軽に話しかけてみたらいいのに!」




彼女は励ますように僕の肩をポンと軽く叩き、




「じゃあ、私こっちだから! 応援してるね!」




と明るく手を振って角を曲がっていった。




太陽のような人だな、と改めて思った。




そして彼女の言葉と応援に、柄にもなく勇気づけられている自分がいた。




陽光が差し込む図書室の片隅。僕が手に取ろうとした古代史の分厚い本を、偶然アキが眺めていた時。




選択授業の日本画で隣り合わせになり、墨の匂いの中で静かに筆を走らせていた時。




少しずつぎこちなくではあったが、言葉を交わすようになった。




ナツの後押しもあったおかげかもしれない。




アキの話し方は驚くほど思慮深く、言葉の端々に知性が滲んでいた。




しかし時折、ふと会話が途切れると窓の外の赤く色づき始めた紅葉をじっと見つめては、遠いどこかへと思いを馳せているかのように物思いに沈んでいる。




その愁いを帯びた横顔に、僕はやはり理由もなく心を動かされた。




彼女の内に秘められた、何か深い感情の揺らぎのようなものを感じ取っていたのかもしれない。




ある日の放課後、夕陽が教室を茜色に染める中、アキとナツさんが一緒に教室を出るところだった。




アキに声をかけたい。




そう思うもののなかなか勇気が出ない。




僕がためらっていると、僕の視線に気づいたのか、ナツさんが明るく言った。




「あら、ハルも今帰り? 私たちもちょうど……あっ! ごっめーん、アキ! 私、大事な用事思い出した! ちょっと先に行っててくれる? すーぐ追いかけるから!」




ナツさんはそう早口でまくし立てると、僕にだけ分かるように小さくウィンクをして、




「じゃ!」




と身を翻し、あっという間に廊下の向こうへ駆け去ってしまった。




教室の入り口には、アキと僕が残された。




突然二人きりになり、心臓が早鐘を打つ。




僕は、ナツさんが作ってくれたこの機会を逃すわけにはいかないと覚悟を決め、アキに向き直った。




「あの……アキさん。もし、よかったら、帰り道にある角の喫茶店で、一緒にお茶でもどうですか?」




自分でも驚くほど声が上擦った。




アキは一瞬、大きく目を見開いて僕を見た。




その表情には、驚きと共に、微かな戸惑いが見えた気がした。




だが、やがて視線を伏せ、静かに、しかしはっきりと頷いてくれた。




「…ええ、喜んで。」





角にあるその喫茶店は煤けたレンガの外壁と、年季の入った木の扉が印象的な昔ながらの店だった。




扉を開けると、カラン、とドアベルが鳴り、珈琲の香ばしい香りと、低い音量で流れるクラシック音楽が僕らを迎えた。




ショパンの夜想曲、有名な第二番だ。




店内は少し薄暗く、磨き込まれたカウンターと、使い込まれた革張りのソファが置かれている。




僕たちは窓際の、通りから少し奥まった席に落ち着いた。




メニューを開きながらも何を話せばいいのか、少し緊張している自分がいた。




先に口を開いたのはアキの方だった。




「今日の哲学の授業、興味深かったですね。」




「ああ、教授の真理についての考察は、いつも考えさせられるね。」




「はい。特に、時代によって『真理』の捉え方が変遷するというお話は……。」




アキはそう言うと少し言葉を選びながら、授業内容についての自身の考えを静かに語り始めた。




その話し方はやはり思慮深く、彼女の知的な一面が垣間見える。




僕は相槌を打ちながら、熱心に耳を傾けた。




やがて注文を取りに来た店員に、僕はブレンド珈琲を、アキは少し迷った末にレモンティーを頼んだ。




飲み物が運ばれてくると、僕らはカップを手に、少しだけリラックスした雰囲気で話を続けた。




「アキさんは、歴史にも詳しいんだって、ナツさんから聞いたよ。」




「ナツがそんなことを? ……詳しいというほどでは。ただ、過ぎ去った時間の中に、今の私たちに繋がる何かを見つけるのは、興味深いと感じます。」




彼女はそう言って、ふと窓の外に視線を移した。




夕暮れの光が、彼女の滑らかな頬を淡く照らしている。




また、いつものように物思いに沈んでいる横顔。




僕はその瞬間を、邪魔しないように静かに見守った。




しばらくして彼女はこちらに向き直り、小さく微笑んだ。




「ハルさんは、どんなことに興味があるんですか?」




「僕は……そうだな、古い文学を読むのが好きかな。言葉の中に込められた、昔の人々の息遣いを感じるのが好きなんだ。」




「古い文学……。素敵ですね。私も、時々手に取ります。」




そこから僕らは好きな作家や、心に残った物語について静かに言葉を交わした。




驚くほど、僕たちの好みは似通っていた。




アキの博識ぶりにも感心したが、それ以上に彼女が時折見せる柔らかな表情や、僕の話に真剣に耳を傾ける姿に僕はますます心を惹かれていった。




気づけば、窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。




名残惜しかったが、僕らは席を立った。




「ありがとう、ハルさん。……楽しかったです。」




店の前で別れる時、アキが小さな声でそう言ってくれた。




「僕もだよ。ありがとう、アキさん。」




彼女の言葉と、その時に見せたはにかむような笑顔が、僕の心に温かい灯をともしたようだった。




その日から僕たちの距離は少しずつ、しかし確実に縮まっていった。




次の日の昼休み。




中庭の楠の木陰で分厚い本を読んでいた僕に、後ろから明るい声がかかった。




「ハール! 見ーつけた!」




振り返ると、ナツさんが満面の笑みで立っていた。




隣には、どこか面白がるような表情を浮かべたフユ君もいる。




「やあ、二人とも。」




「やあ、じゃないよー!」




ナツさんは僕の隣に腰を下ろすと、目をキラキラさせながら身を乗り出してきた。




「昨日! どうでした? アキとのお茶!」




「え、ああ……うん。まあ、よかったよ。」




僕は少し照れながら答える。




「 それだけ? もっと詳しく教えてよー! どんな話したの? アキ、楽しそうだった?」




矢継ぎ早に質問が飛んでくる。




ふむと、それまで黙っていたフユ君が、手にしていた年代物の万年筆のキャップを閉めながら静かに言った。




「最近のハル君は、少々浮ついた足取りだったように見受けられたが。あれはやはり、心理状態が市場の期待感のように高揚していた表れかな?」




「か、からかわないでくれよ、フユ君。」




僕は彼の冷静な分析にたじろぐ。




「そうだよフユ君! 真面目な顔して茶化さないで!」




ナツさんはフユ君を軽く肘でつつくと、再び僕に向き直った。




「それでそれで? アキとはどんな感じだった?」




「えっと……文学の話とか、授業の話とか……。落ち着いて、ゆっくり話せたと思う。」




「そっかぁ! よかった!」




ナツさんは自分のことのように嬉しそうだ。




「ね、やっぱり勇気出して誘ってよかったでしょ? これからも、その調子だよ!」




「ありがとう、ナツさん。」




彼女の素直な応援は、なんだか心地よかった。




「始まりは小さな変化から、だね。」




フユ君は立ち上がりながら言った。




「もっとも、小さな火種が大きな変化を生むこともある。観察を続けるとしよう。」




彼はそう言い残して、先に校舎へ戻っていった。




残された僕とナツさんは顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑した。




友人たちの反応は様々だったが、アキとの間に確かな一歩を踏み出せたことを、僕は嬉しく思っていた。




一緒に下校するようになり、週末には街の外れにある、今はもう名画座としてしか使われていない古い映画館へ足を運んだ。




スクリーンには昔のモノクロームの恋愛映画が映し出されていた。




隣に座るアキの、物語に静かに見入る横顔を盗み見る。




映画が終わった後帰り道で、




「あの時代の情熱は、今とはまた違う趣がありますね。」




と彼女が静かに言った。




僕も、




「ええ、でも人を想う心の本質はきっと変わらないのでしょうね。」




そう応じた。




アキと過ごす時間は古い絵画を眺めているような、どこか夢のように穏やかで、それでいて心地よい緊張感を伴っていた。




季節が秋へと深まるにつれ、僕のアキへの思いは募るばかりだった。




それは学び舎の日常の中で、より強く意識されるようになった。




授業の合間に中庭を散策していると友人たちが、




「いくつになっても、こうして新しい知識を得られるのは本当に幸せなことだ」




としみじみ語り合っているのを聞く。




その言葉には深い実感がこもっていた。




体育の時間。




準備運動には十分すぎるほどの時間をかけ、一つ一つの動作を確認するように体をゆっくりと伸ばす。




50メートル走では皆、決して無理はしない。




息を切らしながらも自分のペースで走り切り、ゴールすればタイムに関わらず、




「お疲れ様。」




「良い汗をかいたね。」




「いやはや最近体が痛くて。」




と互いを労い笑い合う。




健康を維持し、この学びの時間を少しでも長く続けること。




それが何よりも大切だと、誰もが考えているようだった。




僕もすぐに息が上がってしまうが、それもまたここでは微笑ましいこととして受け入れられた。




ある穏やかな秋の日、僕らは図書室の閲覧室で古い卒業アルバムのようなものを見つけた。




アキがそれを手に取り、興味深そうにページをめくっていた。




そしてあるページで、彼女はふと指を止めた。




「ねぇ見て、ハル。」




そこには髪を結い上げ、慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべた女性の写真があった。




背景には、今僕たちがいるこの学び舎の校舎が写っている。




「とてもキレイ……。」




アキはうっとりとした表情で呟いた。




その瞳は写真の女性に注がれ、憧憬の色を浮かべている。




「本当だね。」




僕も心から同意した。




「穏やかで知性が滲み出ているような、素晴らしい表情だ。きっと一番輝いていた頃なんだろうな。」




アキはしばらく黙って、その写真を見つめていた。




その横顔は、どこか切なげに見えた。






やがて季節は冬へと移り、木々の葉もすっかり落ちて寒々しい景色が広がるようになると、アキの表情に明らかな翳りが見え始めるようになった。




以前のような、控えめながらも確かな輝きを放っていた穏やかな笑顔が減り、授業中も窓の外をぼんやりと眺めていることが増えた。




ふとした瞬間に胸の奥から絞り出すような、深い溜息をついていることがある。




心配になって、




「何か悩み事でもあるの?」




と理由を尋ねても、彼女はいつも




「ううん、なんでもない。」




と力なく微笑んで、話を逸らそうとするだけだった。




その笑顔が、かえって僕の胸を締め付けた。




そんな冷たい空気が教室を満たす、冬のある朝のことだった。




いつものように授業が始まる前のホームルームの時間。




教室に入ってきた担任の表情が、普段より硬いことに僕たちは気づいた。




静まり返る教室の中、担任はゆっくりと口を開いた。




「皆さんにお伝えしなければならない、悲しい知らせがあります。……昨日、私たちの仲間であるフユ君が……静かに、息を引き取りました。」




フユ君が……?




その言葉は、冷たい石のように僕の胸に落ちた。




教室は息を呑むような深い沈黙に支配された。




すすり泣く声が静寂に響き始める。




誰もが動きを止め、俯いたり、あるいは虚空を見つめたりしている。




あのフユ君が、もういない。




彼の博識ぶり、落ち着いた物腰、年代物の万年筆……短い間だったけれど、確かに交わした言葉や彼の姿が蘇り、僕の胸も強く締め付けられた。




どれほどの時間が経っただろうか。




やがてすすり泣く声は静かに引いていく。




隣の席の生徒が音を立てないように、そっと教科書を開いた。




前の席の生徒は、ハンカチで目元を軽く押さえた後、ゆっくりと姿勢を正した。




教室の後ろの方で、誰かが誰かに、ほとんど聞き取れないくらいの小声で何かを囁き、相手はただ静かに頷くのが見えた。




悲しみは、深い霧のように確かにそこにある。




しかし、それは激しい嵐のような慟哭ではなく、深く、どこまでも静かに水底に沈んでいくような、そんな種類の悲しみに見えた。




ふと視線を感じてアキを見ると、彼女は窓の外の一点をじっと見つめていた。




顔色は普段よりさらに白く、固く結ばれた唇が微かに震えている。




彼女の小さな拳が膝の上で、まるで何かを必死に堪えるかのように強く握られているのが見えた。




その痛々しい姿が、僕に言いようのない不安を感じさせた。




そして、運命の日が訪れた。




冷たい風が窓を叩く、冬の日の夕暮れ。




今日の最後の授業が終わり、生徒たちが一人、また一人と教室を去っていく中、僕らは偶然二人きりになった。




ストーブの赤い光が、僕とアキの影を長く床に伸ばしている。


窓の外をぼんやりと眺めていたアキがぽつりと、しかし心の底からの震えるような響きを伴って言った。




「ハル……私……私、もっと違う時に……ううん、もっと……もっと前に、あなたに出会いたかった。」




その声には抑えきれない、どうしようもない悲しみが滲んでいた。




「どうしたんだよアキ? 何かあったのか? 僕らは今、こうして一緒にいられるじゃないか。僕らの時間は、これから始まるんだよ。」




僕は彼女の傍らに寄り、冷たくなったその手を握り、できるだけ優しく、安心させるように言った。




だがアキは静かに、しかし強く首を振った。




その潤んだ瞳から、はらはらと大粒の涙がこぼれ落ち、彼女の頬を伝った。




「違う……! 違うの、ハル! 嫌なの……!」




彼女の声は嗚咽に変わり、言葉にならない叫びが漏れる。




そして自分の黒い髪を、まるで憎むかのように強く掴み、震える声で叫んだ。




「見て! 私の髪なんて、こんなに真っ黒になってしまって……! 私の誇りだった、あの月光のように輝く銀色の髪は、もうどこにもない! それに、この肌を見て! 皺ひとつないなんて……! 昔、皆が美しいと言ってくれた、私の人生そのものだった深い皺は、もうどこにもないの! こんな……こんな『醜い』姿で……あなたと、こんなに大切な時間を過ごすなんて……私、耐えられない……!」




アキの悲痛な叫び。




彼女が自分の今の姿を『醜い』と嘆き、失われた白髪と皺を、美しかった過去を、深く、深く、絶望的に悲しんでいる。




その事実が、僕の心臓を鷲掴みにするように強く締め付けた。




これほどまでに彼女が今の自分を否定し、嘆き悲しむ、その切実な苦しみが、僕の思考を激しく揺さぶった。




「人生はこんなにも長かったのに……! そのほとんどの時間を、一人で生きてきたのに……! やっと、やっと、心から大切だと思える人に出会えたのに……! なのに、その時間が、人生の終わりの、本当に最後の、ほんの僅かな時間だけだなんて! あんまりじゃない! 神様は、どうしてこんなにも意地悪なの……!」




アキの言葉の一つ一つが、僕の中で轟音のように反響する。




その瞬間、今まで当たり前だと思っていたこの世界の輪郭がぐにゃりと歪み、溶け落ちていくような、激しい眩暈に似た感覚に襲われた。




頭の中に、断片的な光景がフラッシュバックする。


講義室で「人生の真理」に深く頷いていた、顔、顔、顔。




体育の時間、息を切らしながらも良い汗をかいた、と満足げに笑っていた友人たち。




アキと2人で素敵だ、一番輝いていた頃だと眺めた、美しい白髪と深い皺をたたえた、あの写真の女性。




そして今、目の前で、『醜い』と泣き叫び、己の姿を呪う愛しいアキの姿……。




僕が今生きているこの世界。




『青春』というものは、人生という長い旅路の、本当に最後の最後に用意された、あまりにも短い黄昏の季節だ。




年齢を考えれば当然、僕たちもいつフユの所へ行くことになってもおかしくないのだ。




白髪と皺を蓄えた顔でひたすら働き、そして年老いて美しい白髪も皺も失い人生最後の時間『青春』を過ごす。




今まで疑うことすらなかった世界の常識が、価値観が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。立っていることすら覚束ない。




僕はただ、嗚咽を漏らし続けるアキの震える体を、強く、強く抱きしめることしかできなかった。




どんな慰めの言葉も、励ましの言葉も、今の彼女の絶望の前では、あまりにも空虚に響く気がした。




教室の窓の外は、いつの間にか深い藍色の夜空が広がり、冬の澄んだ空気の中で、無数の星が、まるで砕け散ったダイヤモンドのように、静かに、冷たく輝いていた。




「……そうだな、アキ。」




どれほどの時間が流れただろう。




腕の中で、アキの嗚咽が少しだけ静かになった頃、僕は、星々を見上げながら、掠れた声で、絞り出すように言った。




それは、僕自身の内側の最も深い場所から、初めて湧き上がってきた、怒りとも悲しみともつかない、新しい種類の感情だった。




「もし僕が……。」




アキが僕を見上げる。




「僕が神様だったら……。こんな、胸が締め付けられるほど高鳴って、世界がキラキラして見えるような時間は……人生のもっとずっと、ずっと始めの方に持ってくるだろうな……。」




それは僕が初めて抱いた、この世界の残酷な『当たり前』に対する静かで、どうしようもなく切実な、魂からの抵抗だったのかもしれない。

「もし私が神であったなら、


 人生の終わりに若さを置いただろう。」




――アナトール・フランス『エピクロスの園』より

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― 新着の感想 ―
美しく幻想的な筆致で描かれる老年の青春。人生の終焉に訪れる煌めきと哀しみが胸を締めつける。切なくも温かく、読後に深い余韻が残るお話しでした。
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