またしても幸運?
死んだはずだった。
いや、あの一撃は確かに致命傷だった。鋭く突き刺さる痛み、腹部を貫いた冷たい刃の感触、そして生温かい血が溢れ出る感覚を、確かに覚えている。
――なのに、オレは今、目を覚ましている。
「……ふむ」
視界の端にゆらめく灯りが映る。壁に並ぶ燭台の炎が、暗闇の中で揺らめき、周囲の空間をぼんやりと浮かび上がらせていた。
重厚な石壁が目に入り、その表面には見事な装飾が施されている。かすかに湿った空気が肌を撫で、古びた石の匂いが鼻をかすめる。天井は高く、奥行きのある空間が広がっている。
床には何かが散乱している。金属の鈍い輝き。石ころのように転がる何か。乱雑に放置されたものたちを見渡しながら、オレは慎重に立ち上がった。
「――腹の傷も治っているな」
ふと腹部に手を当てる。裂けた服の隙間から素肌に触れると、そこにはもはや痛みも、傷跡すらもなかった。あの傷が幻でなかった証拠に、衣服にはまだ血が染みついている。
信じがたいほどの回復。奇跡的に生き延びた。そう判断するのが正しいのだろうが――
その時、不意に視界に入ったものに、オレは反射的に身構えた。
――花嫁の姿。
そこに立っていたのは、金髪の美しい女だった。
長いヴェールが風もないのに揺れ、柔らかく微笑んでいる。だが、その微笑みにはどこか冷たさがあった。意識の奥底に警鐘が鳴る。心臓が跳ね、刹那、手が刀を求めた。
しかし、腰にある鞘は空だった。
瞬間、息を呑み、冷静に周囲を見渡す。床に無造作に置かれた愛刀。誰かが気遣うように、寝ていたオレの隣に置かれていた。
視線を戻した瞬間、違和感が走る。女は微動だにせず、ただ静かにこちらを見つめている。いや、これは――
絵画だ。
壁に掛けられた一枚の油彩画。その筆致は精緻を極め、まるで生きているかのような質感を持つ。だが、間違いなく平面の中に収まった存在だった。
(……生前の姿か?)
オレは息を整えながら、ゆっくりと体を起こす。
花嫁が視線を送ってくるような錯覚を覚えながらも、冷静に状況を見極めるべく、注意深く周囲を観察した。
警戒を強めたその瞬間、
「むみょー!」
ふわり、と暖かな衝撃が襲う。
ハルが弾かれたように走ってきて、そのまま飛びついてきたのだ。細い腕がしがみつき、小さな額が胸元に押しつけられる。
(……痛くない)
確かに受けたはずの致命傷。だが、今は違和感すらない。完全に癒えている。
「ハル、無事だったか。しかし、ここは――?」
オレの問いに、ハルは顔を上げ、無邪気な笑顔を浮かべた。
「むみょー、おるるが助けてくれた!」
「おるる……? 夜朱雀か?」
ハルの背後、燭台の揺らぐ光の中から、赤髪の女が静かに姿を現した。
黒い着物に深紅の刺繍が施され、白い肌が燭台の炎に照らされ淡く輝く。
金色の瞳が、じっとこちらを見据えていた。
「随分とやられたものね、主」
彼女の声は艶やかに響いた。人の姿を取った夜朱雀の声は、落ち着いた低音で、新鮮な響きを持っていた。
「そなた、人間に化けれたのか」
「ふふふ、今までは必要性を感じなかったけど……この子が心配になっちゃって」
夜朱雀はくすりと笑う。よほどハルを気に入ったらしい。その様子に苦笑しつつ、オレは刀を手に取った。
「ちょうど霊薬があったから、主にかけておいたの。ほんと、あとちょっとで死ぬところだったのよ?」
刀の隣に置かれていた小瓶が視界に入る。
それは、透き通る水晶に羽の彫刻が施された、見るからに豪奢な霊薬瓶だった。
「……瀕死の重傷を即座に癒やす霊薬か。よほど高価なものなのだろうな」
手に取り、指でなぞる。瓶一つとっても細工が美しく、これだけでも価値があるだろう。
その背後に、視界いっぱいに広がる金貨の山が目に入った。
「ふむ、やはりここは宝物庫か」
宝石がまばゆい輝きを放ち、刀剣や魔導具が無造作に積み上げられている。まるで時が止まったかのような空間だ。
ふと上を見ると、天井にはかすかなひび割れが残っていた。迷宮の壁は自動で修復されるが、完全に塞がったばかりなのだろう。
「ええ。あたしが追ってきた時にはちょうど、主達が崩落に巻き込まれているところだったわ」
良く見れば巨大なシャンデリアの破片が散らばっている。
こいつと一緒にここに落ちたのだろうが、良く潰されなかったものだ。
(ハルの幸運がまた発動したのか……)
オレは無意識に、ハルの髪を撫でる。
「……やはり、そなたの力は大したものだな」
ハルは「?」と首を傾げるが、それがまた微笑ましい。
ここが宝物庫なら、ちょうどいい。傷を回復させる霊薬があるのなら、きっと……。
「これだけの財宝があるのなら……オレが求めるものもきっと見つかるはずだ。さて、迷宮攻略の醍醐味、お宝を物色するとしようか」
この身の乏しい霊力をどうにか出来るお宝が眠っているかもしれない。
財布の中身にも一抹の不安があったのだが、これで全て解消できるだろう。
「……主、いつからそんなに俗になったの」
「むみょー、うれしそう」
「ハル、あんまり見ちゃだめよ。欲にまみれた人間の姿なんて」
随分な言われようだが、未知のお宝を前に好奇心が刺激されるのは仕方のないことだろうが。
「俗になった? 馬鹿を言うな、人として暮らすには金がいる。覚えておけ、夜朱雀」
「もう! 主はいつも、ああ言えばこう言うんだから!」
頬をふくらませる夜朱雀に苦笑を返しつつ、オレは金貨を踏みしめ、静かに歩き出した。
無造作に置かれる宝物の類の中、ひと際目を引く宝箱がある。
それはまるで誰かが大切に守っていたかのように、花嫁の巨大な絵画の前に静かに置かれていた。